薬王堂気まぐれ通信使bR38   2006・3・5
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

妻は気まぐれ広島人の行動を信じられない!と言います。
なぜかと云いますと、この前行ったところにまた行くからです。
ということで、2週間前に乗った船にまた乗船して黒島(くろしま)に行ってきました。

人家がある黒島の港付近
岩国港を10時出発の高速艇「すいせい」は45分かけて黒島に到着します。
先日はこの先の端島(はしま)まで行きましたね
黒島までの船賃は片道1450円です。
港に下りて先ず思うのは平地がないということでした。
海岸と右側山の斜面に民家が張り付くように建てられています。
住人は高齢者が約40名、夫婦で居る家は4〜5軒だと聞きました。
黒島小中学校の建物はありましたが生徒はゼロ、只今休校中です。
気まぐれ広島人はこの島を探索しました。

黒島の道と植物の様子
最初にAの石垣でイヌノフグリを見つけました。
外来種のオオイヌノフグリとは見劣りする株です。
その他にはコハコベ・ハマウド・ツルナ・ヤブソテツが目に付きます。
右に坂道を登りBに来ますと港が一望できます。
大根を細く切って干していました
ムラサキケマンが勢いよく茂っています。
BからKに登る道は狭く両側に民家が並んでいます。
右側が暗渠になっていましたので昔は溝を登る石段だったろうと想像できます↓

B〜Kに至る坂道
電気は来ているようです。
ガスはプロパンガスですね。
水道は来てるのでしょうか?
山の水系が通っている様にも思いました。
その水道を出しながら道のすぐ横で魚を料理しているおじさんに会います。
朝釣ったホゴメバルを刺身にして昼食のおかずにするそうです。
それにしても美味しそうですね〜!
民家が切れるところまで登りそこからCの竹やぶに下りてみました。
テイカカズラタラノキスダジイヤブニッケイアリドオシクロキコセンダングサセリなどがあります。
Dの砂浜まで下りてみます。
ダンチクトベラモチノキがあります。
DからEに至る山道は黒島のゴミ処理場になっていました。
畑では食べるだけの野菜と仏壇用の花が作られています。
様子からこの島にはイノシシはいないようです。
キクイタダキという日本で一番小さな野鳥(掲示板で教えてもらいました!)が側に来ます。

畑の小路・左遠くに見えるのは柱島

Fの林はアベマキ・コナラ・カクレミノ・ヒサカキが主な樹木です。
峠に出て墓所を横切ってGからHの高台に行ってみます。
ヤマモモ・タブノキ・ムベマサキ・ツルグミ・サネカズラがあります。
それにフユノハナワラビが数本、
柱島の見える高台から安芸灘を見下ろしました↓

左手遠くに柱島、無人島を見ながら右手遠くに愛媛県の中島、手前は黒島前の安芸灘

Iを通ってJに行きますと行き止まりでした。
ホウロクイチゴやナガバノコウヤボウキ・スミレが咲いています。
来た道を引き返してKの人家があるところまで・・・
急な階段になっています。
シロバナタンポポの咲く坂道を港まで下りてMの半島に行ってみます。
ここには自然の海岸が残っていました。
シャリンバイトベラヒメユズリハマルバグミシャシャンボハマユウハマボッス・ハマナデシコがあります。
頂上には祠が一つ、昔から祭られているのでしょう。
15年前に黒島とつながったと聞きます。
それまでは小島と黒島の瀬を小さな船で通り抜けることが出来たと言います。

半島の頂上から端島・柱島、60数年前この海上に陸奥や多くの戦艦が停泊し上空を敵の飛行機が飛んだのでしょう。


ここで黒島の悲しい歴史を紹介してみます。
気まぐれ広島人は帰りの船を待つ間、待合所で出合った島の老人の話しを聞くことが出来ました。
戦時中、島民はお金を出し合って黒島号という飛行機(零戦)を国に献納します。
その翌年、終戦を目前にした昭和20年7月24日、空襲を受けます。
成人男性のいないこの島の上空は呉を襲撃する敵の飛行機の航空路でもありました。
目の前の海上には燃料の乏しい軍艦が数多く停泊しています。
島の老女はこう話してくれました。

『皆が財産を出し合って飛行機を献上したのにどうして爆弾を落とされなけりゃあ〜いけんかったかの!飛行機から子供が防空壕に入るのを見たんじゃろう、そこをめがけて爆弾を落として防空壕の入口がつぶれたんです。近くにおんぶ(背負い)されていた乳飲み子は爆弾の破片で首が飛んで・・・柱島には単射砲(高射砲台)があって兵隊さんなど300人くらい居たけど山が高くて飛行機からは攻撃されずにすんだんじゃ、黒島は丁度見えやすかったんじゃろう・・・』

この空襲で19名の命が亡くなっていました。
港の側の慰霊碑に手を合わせてきました。
黒島の神社にも行ってみました。
社殿中正面に報国第3393号・艦上戦闘機・岩国黒島号の英姿が額装されてあります。
画像の提供者は海軍省となっています。
境内には当時の水雷?や砲弾、碇が置かれてあります。

午後、2時30分の船で黒島を後にしました。
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