薬王堂気まぐれ通信使336  2006・2・19
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

19日の日曜日は友人と端島(はしま)に行くことにしました。
朝、8時過ぎに広島駅で朝食を済ませ9時の快速JR岩国行きに乗車します。
9時38分には岩国駅に着きますのでそこからタクシーで岩国港に向かいました。
端島には10時発の柱島行きに乗船します。
高速船すいせいには私達二人ともう1人の3人しか乗船していませんでした。
途中、岩国の米軍施設を見ながら、左に甲島(かぶとじま)を過ぎ、黒島に立ち寄って50分ほどで端島に到着します。
この島に初めて上陸します。


岩国〜端島間を運航する『すいせい』から見る端島の様子

この島では乗り物の音が全くしません。
時々、岩国基地から聞こえる飛行機の音がするだけです。
終戦直前、60年前の七月にこの島では悲劇が起きたと聞きました。
詳しくは端島小学校の歴史に書いてありました。
私達は上陸後、島に生育する植物を見ることにします。


端島の植物

@からIに至る道順を進むことになります。
人家があるのは@の周りだけでした。
急な斜面を登って行きますとホルトノキが目立ちます。
その他、シロダモヤブニッケイと言ったクスノキ科の常緑樹が目立ちます。
Aの付近で船瀬の浜と呼ばれる綺麗な砂浜に降りる道があります。
この坂道にはオオイタビが他の木に巻きついていました。
イチジクのような実は見当たりませんでしたので雄株かも知れません。
ムべやアケビ・タンキリマメの蔓をかき分けて浜に出てみます。
台風でいろんなものが流されて漂着していました。
浜のすぐそばにはツルナがあります。
それにハマウド↓が多く生育していました。


Bの場所・ハマウドの群落

今は冬ですので植物は枯れています。
Cの岩場にハマナデシコの冬葉が確認できるくらいです。
来た道を帰ってDに向かいます。
ここは伐採を逃れた小さな林になっています。
主にはスダジイが茂っています。
よく似た木にコジイがあるようですがどんぐりを見る限りスダジイのようです。
スダジイのどんぐりは長細く少し三角に角張って実の下に微毛があると言われています。


集落と端島小学校の見える小高い丘

そこを過ぎると墓地に出ます。
土地の歴史を知るには墓地がいいようです。
大きなカクレミノの樹木は守られているようで側にやかんや水桶がぶら下げられていました。
芸予地震では多くの墓石が倒れてといいます。
ここもそうだったのでしょう。
みる人のいない墓石はまだ倒れたままのものがあります。
墓は全て北向きに配置されていました。
島民の団結力の証でしょう。
祭壇らしき石の台には寛永通宝が置かれています。
死者に捧げたものに違いありません。
近くに住む老婦人に話しを聞くことが出来ました。


端島の歴史を話してくれた島の婦人

『江戸時代からこの島では漁業をして島民が暮らしてきました。明治から大正・昭和の時代、イワシを捕ってイリコを生産する頃には他の島からの応援もあって400人近い島民がいたこともありました。その後、鯛やハマチなどの養殖業も盛んだったのですが次第に廃れ今ではする人がいなくなりました。漁業も収穫が減り若手がいなくなって今では島民が40人ばかりです。』
そんな話しをしてくれました。
実際、漁業をすると借金返納や燃料代などの維持費で年間6〜8百万円かかるそうです。
それを越える収入は今の海では出来ないといいます。
でもこの島には数年前から3人の小学生がいると聞きました。

Eから見える瀬戸の風景
草を刈ったばかりの一周道路は快適でした。
Eの付近でモチノキらしい木を見ます。
小高い西向きの山道でセトノジギクフウトウカズラアマチャズル()・ツワブキ・ノシラン()・スイセンなどを確認します。
モウソウチクに混じってマダケが生えていました。
その他、トベラマルバグミ・ヤマハゼ・ヤブツバキ・ヒサカキ・シャシャンボ・テンナンショウタツナミソウハスノハカズラ、植えられたハヤトウリなどがあります。
Gには数軒の人家があり左手に端島神社(画像は境内にある砲弾)、右手の埋立地に端島小学校が建っています。
Hの昔は砂州だった場所を過ぎIの浜に出てみます。
ダンチクの茂みはかつてイワシが干された場所だったと想像できます。
この浜は小石で出来ていて砂浜ではありませんでした。
2時20分の船に乗らねばなりません。
ここの船便は一日4往復だけのようです。
堤防下にいたナマコをお土産に帰路につきました。
もう一度、ゆっくりと来てみたい瀬戸内海の離島でした。

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