広生研トップページに戻る



第63回 2023年広生研大会基調  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2023年8月19日  尾長小学校

テーマ よびかけと応答のある子どもの世界を  -信頼と安心を教室に-

1.コロナ禍の子どもと学校、そして今

第62回広生研大会は、「互いの思いや願いをきき、信頼と安心を教室へ ~すべての子どもを主人公に~」をテーマに開催した。画一化・効率化が進む学校の姿を、子どもと教師双方の側から見つめ、個別化・分断化された子どもたちの実態を明らかにした。そして、個別化・分断化された教室を信頼と安心の教室へと変えていく実践を創り出そうと確認した。

(1)人(関わり)を求め学校に集う子どもたち

経済的な問題をはじめ、家庭のしんどさは学校以上に深刻と言ってもおかしくない。物価高騰による出費が増え、多くの家庭で生活に対する不安を感じている。経済的な不安は子どもたちの学びにも大きな影響を与えており、高校生や大学生がいる家庭では学費やそれに付随する出費に耐えられない状況になっている。働き方改革が叫ばれながら、そんなこととは無縁な環境下で働く親は長時間労働を余儀なくされ、時間的にも余裕をもって子育てがしにくい中で生きている。ひとり親家庭に目を向けると、母子家庭の場合は経済的に、父子家庭の場合は触れ合う時間づくりに苦労する厳しさが依然として強い。
コロナ禍の中での暮らしがが始まった頃、子どもたちは帰宅した後も友だちと触れ合って思い切り遊ぶことができなくなり、オンラインゲームを通じた関わりがより一層増えていった。ゲームに夢中になり興奮が高まるにつれて不適切な言葉がマイクを通して発せられるようになり、それがトラブルに発展する。そうなるとその状況に不安を感じた子は一人二人とオンラインから外れていく。「ああなると抜けるのが一番。」と子どもたちは言う。トラブルになった当事者は問題が解決しないまま怒りや不満が内在化され、悶々とした状態で翌日の学校生活を迎えることになる。そして傍観者としてその場(オンライン)にいた者は、他人事として次の日を迎える。こうして教室は何もなかったかのように朝の会そして1時間目の授業を迎えていく。トラブルが起きることが問題ではなく、解決に向け考えそして動くことを経験することなく、突然その世界から離れることで情緒を安定させる選択肢を子どもが覚えて行っていることの是非を問題にしたい。また、ゲームでつながることができない日は、家の中で子どもが一人ぼっちで過ごすことも当たり前となった。夜になって家族がそろっても、以前のような団欒を味わうことさえ自重する厳しい日々が続いた。家にいても基本マスクを着用する家庭や会話そのものを自粛することでコロナ対策を優先する家庭もあった。家にいてもさみしさや不安をずっと感じながら生きる子どももいた。   

学校にはこうした様々に悲しさや孤独感を抱く子どもたちが人との関わりを求め集っていたし、今もそうだ。このことを私たちは忘れてはいけない。
ではこの間、様々な思いをもって登校した子どもたちに対し、わたしたちはどう返してきたのだろうか。


(2)学びの喪失・・・GIGAスクール構想

 2020年3月、当時の安倍首相による学校への休校要請に端を発し、再開後も学校は大きな規制を強いられ、子どもたちや教職員の自由な活動は制限された。三密(密閉・密集・密接)回避を根拠に、学校は静かな世界へと導かれた。「声」を極力出さない・近付かない・接触しないなどの指導が徹底されるにつれ、いつしか表面的にはもめ事が起きにくく(見えにくく)なり、指導する側にとってはある意味都合の良い世界が広がった。そんな中、国はGIGAスクール構想の実現に向けた動きに拍車をかけてきた。その表れが個別最適な学びと協働的な学びの導入だ。一見対極にも見えるこの両者を軸に、学校の改革を進めていった。

①個別最適な学び

個別最適な学びは、指導の個別化と学習の個別化からなる。指導の個別化は全員に同じ課題を解決させるために、子どもによって違った方法を使って答えや結果を導かせるものだ。一方の学習の個別化は、一人一人が異なる目標や課題を持ち、その課題解決に向けて自分自身で進める学習のことだ。

②協働的な学び
協働的な学びについて文部科学省は以下のように示している。「探究的な学習や体験活動などを通じ、子ども同士であるいは地域の方々をはじめ多様な他者と協働しながらあらゆる他者を価値のある存在として尊重し、様々な社会的な変化を乗り越え、持続可能な社会の創り手となることができるよう、必要な資質能力を育成する協働的な学びを充実することも重要」「令和の日本型学校教育」の構築を目指して(答申)(中教審第228P18協働的な学習については、一見すると私たちがこれまで主張してきたことと似ている。「多様な他者と協働しながらあらゆる他者を価値のある存在として尊重し」の部分はまさにそうだ。しかし次の「様々な社会的な変化を乗り越え、持続可能な社会の創り手となることができるよう、必要な資質能力を育成する」の部分を見ると、子どもが社会の変化に合わせて生きるために協働的な学習が必要であることを述べている。ここは注視したいところだ。これまで私たちが追求し実践してきた共同的な学びと違っている。私たちは、子どもたちの生活の事実を互いが理解し、願いに共感しながらその実現を目指し実践してきた。あくまでも出発点は子どもの今であって、行き着く世界はその集団によって違ってくる。しかし国の方針では、共に活動することを通して、社会が期待する到達点(人になること)を目指しての学習であることが見て取れる。ここに大きな違いがある。

 ICTを活用した教育
個別最適な学びと協働的な学びを進めるためには、タブレット等の端末が中心的な役割を果たす。これを利用することで、一つは多くの他者と関わりながら、しかも自分に合ったやり方で様々に学習することができる。そして積み重ねた自らの学びを次々と保存更新してファイルすることで、キャリヤを積むことができる。国はこれが今からの時代の学びとして捉えている。個別最適な学びそして協働的な学びはいつどこでもできることは確かにそうだ。しかしここで確認したいのは、協働すると言いながらそれは自分の都合のいい部分や自分の必要に応じて関わる相手を決めていくというのが本質であることだ。先にオンラインゲームでつながった子どもたちのことを述べたが、学校の授業の中でも同じようなことになってしまうのではないか。
コロナ禍の中で子どもたちの主体的な動きを規制しながら、他方ではGIGAスクール構想による施策を学校現場に一気に取り入れる動きが進んでいる。人と人との直接的な関わりを通してではなく、目の前にいない人を含めた広い範囲の人と端末を介して関わる中で、社会に役立つ人づくりをしようとしているのが現実だ。本当にこれでいいのか。

(3)小学校での教科担任制

高学年を中心に近年教科担任制が導入され、大規模校だけでなく最近は中小規模校にも広がっている。そもそも教科担任制は指導の専門性を求めることを根拠とし、専科指導教員による指導を目的としている感がある。しかし現状では、各学校に必要な教員が配置されているわけではなく、言葉が先行している。教科担任制導入により、多くの目で学級集団や一人一人の子どもの姿を見ることができ、それまで担任が一人で抱えていた問題を多くの教員で共有し、みんなの力で解決できるという。そして教科担任制の導入で、担当する教科が減ることで教材研究と持ち授業数が減り、それが働き方改革につながるとされている。
 しかし教員数は必要数増えておらず、導入する根拠に乏しい。にもかかわらず違う形で実践を始めた学校が多い。
・学年の学級数を1学級減らし、一人を副担任として位置付ける
・学年内で授業教科を交換する
・道徳を5年生6年生担任4人で順番に回す

これらは多くの目で見ること、課題をみんなで解決することを目指した学校の取り組みであるが、学級数が減ることで学級の人数は増える。また、交換授業で1教科の教材研究は減るのだが、授業する学級は逆に増えることになる。
結局は、教員数が増えていない中での形合わせになっているのが現実だ。

私たちは、子どもが様々に動きながら集団が発展していくよう実践している。そのため、班は自治を学ぶためのものであって、管理するためのものとは考えていない。班によってさまざまな個性があり、それぞれが同一とはならない。しかし、そう考えていないものも存在する。その場合、時として、教科によって席の配置を替えるということが起こっている。班や席は、子どもより教科担の都合が優先されてしまっている。はたして、子どもたちが落ち着いて学習し、大人が描いた目標を達成できるのだろうか。多くの学校で教科担任制を中学年に導入し始めている。今後も検証が必要である。

(4)コロナの規制が解けた今

 5月にマスク着用等による制限が学校でも解除された。それに合わせ、本来なら子どもたちの生活がコロナ前の状態に戻ってもおかしくないはずだ。しかし、現実は厳しい状況に置かれている。
 マスク一つとってみても、待ってましたとばかりに外す子もいれば、夏の猛暑下でも相変わらず多くの子が着用しているのが現実だ。ある小学校では、高学年の学級で一人の子どもと担任以外の全員が着用しているという。またある学校では、6年生は8割くらいの子が依然として着用しており、外すのを恥ずかしく感じている子もいるらしい。学年が下がるにつれて外す子が多いという話だ。
 この3年あまり、マスクをしていることで相手の顔をしっかり見ることができていない。また、関わり合うことが強く制限されてきた。その結果、相手の感情を読み取ることが子どもにとって困難になってきているという実態も報告されている。制限が解除されたからと言って、そう簡単に子どもが互いに関わり合いながら喜怒哀楽を前面に出して成長する権利を回復させることは、予想していた以上にたやすいことではない。

2.実践から学ぶ 

(1)子ども目線での対話を通して 【西海実践】

①さくら
転任先で出会った4年生。西海はさくらについて次のように引き継ぎを受ける

                                                  

 人と関わりをつくることが難しく、自分の思い通りにならないことがあると机の上のものやいろんなものをまき散らしたり、教室を出て行って大声で叫びまわったりすることが多かった。母親に嫌いだと言われたり夜はおばあちゃんの家に泊まりに行かされたりと、自分が大切にされていないことによる愛着障害に苦しむ女の子として知らされていた。昨年度の終わりごろ、保護者に学校に来てもらい頑張ることを約束したという。内容ははっきりと覚えていないが、毎日の授業をふり返って頑張れたことにシールを貼ってもらう活動を取り入れ少し頑張れるようになってきているらしい。

また西海は、さくらと出会った頃の様子をこう綴っている。

                                                                                 
支援員のT先生が昨年度から密に関わってくださっていて、二人で振り返りシールを貼っている。さくらは信頼を置いているのだが、先生とべったりで何かあれば先生を呼び、先生を下の名前で呼び捨てにしていた。わがままを聞いてくれる(自分を出せる)数少ない大人なのだと思った。(中略)友だちや先生が気に入らないときには,もうしつこいくらいに攻め続けたり嫌味を言い続けたりする。大人に対しては「死ね。死ね。死ね。死ね。」と言い続け、また相手の言葉を聞こえるか聞こえない程度の大きさで、オオム返しに言い続ける。T先生も「ごめんちょっと耐え切れないので離れておく。」と言ってそばに居れなくなることもしばしばあった。それは私に対しても同じだった。

目の前にいる子に対し、西海は子どもが何を思い何を願って学校に来ているのか、常にそういう視点で子どもを見つめている。出会って間もないさくらは一見わがままに映る。しかし西海は「(さくらにとってT先生が)わがままを聞いてくれる(自分を出せる)数少ない大人なのだと、教師目線ではなくあくまでもさくらの側に立って思いを巡らせている。さくらとT先生の関わりの中から、西海はなかなか言葉にできないさくらの心の叫びや願いを見つけ出そうとしていることがわかる。子どもの否定的な行為行動の背景には理由が必ず隠されていることを知っているからこそ、こう感じることができたのだろう。「死ね。死ね。死ね。」と大人に罵声を浴びせる、また相手の言葉をオウム返しで言い続けることしかできないさくらを、西海は悩みながらも決して否定的に捉えることをすることなく、何とかして指導の方向性を見つけようとしている。さくらから発せられる言葉は、言語に乏しいさくらにとっては精一杯の表現だ。そして、落ち着きを取り戻すまで必死になってまるで呪文を唱え続ける状態のさくらの姿が見えてくる。そして落ち着きを取り戻すまで様子を見守りながら待っている西海がそこにいる。大切な思考を邪魔することなく近くで待っていてくれる西海の存在は、さくらにとってすでに安心な世界になり始めている。 
 4年生の頃さくらは一人でいることが多く、「自分には友だちがいない。」といっていたらしい。そのさくらが今年は友だちと一緒にいる時間が増えている。さくらと同様少し大柄で口の利き方や態度が気になるユリが一緒だ。当然喧嘩になると罵り合いになる。いやなことを言い続けるさくらに対し、そんなときユリはさくらを無視して他の子と仲良くする。こうなるとこれまでは相手を罵ることしかできなかったさくらだったが、T先生の仲介があったにせよ謝れるようになってきた。「ごめんね。」の一言が自分から出るようになったという。T先生の粘り強い指導は勿論のことだが、さくらが落ち着きを取り戻して次の動きに入るまで慌てることなく待っている西海の指導が間違いなくさくらに響いている。

「わからん。やらん。」と言って投げ出したり荒れたりすることがあっても、少し時間を空けて気持ちを落ち着けると再び授業に参加できるようになってきている。3年生の時はほとんど授業を受けていなかったそうなので、学力はついていない。算数はかなり苦手にしており、なかなか思ったようにはできていない。その分国語や理科・社会は一生懸命にノートを取ろうとすることが増えた。図工は好きで意欲的、道徳でのつぶやきはすかさず拾って発表させている。体育はあまり好きではないようだがみんなと一緒に頑張ろうとしている。鉄棒やマット運動も面倒くさがらずに取り組んでいる。
 とはいっても,学校にいらないものは持ってくるし、宿題はできていないし、休みの日には校区外ーに子供たち同士で買い物に行ったりしている。   

 出会ってここまでの間に、大人にとって気になる存在であるさくらは間違いなく変わり始めている。これは子どもの「思いや願いをきく」ことを西海が何より大切にしてきたからこそだ。「きく」には、聞く・聴く・訊くなどいろいろなニュアンスがあるが、西海の「きく」には、いずれにせよ子どもの立場に立って「きく」という姿勢が貫かれている。

②ナナ
 さくらとユリに影響を受け、一緒に行動し始めたマホ・リリ・ユウ。宿題や提出物が出にくく、忘れ物が多い。チャイムの合図を守れず、3人でつるむことが多い。そしてこのグループにナナがべったりと加わった。真面目でおとなしく、目立たないけどとてもいい子だと聞いていた子だ。そのナナが変わっていった。西海はいじめアンケートを契機に、ナナと個別対話を行った。

「最近、宿題忘れが多いから気になってるんだけど・・・。」
「・・・」
「なんか理由がある?」
「・・・ゲームをしていて時間が無くなる。」
「そうなんだ。ゲームしてるの?それで宿題の時間が無くなっちゃうんだ。そうかぁ。どうしようか。」
「・・・」

「4年生の初めのころは宿題できていたじゃん。最近だよね。できなくなってるのは。だからちょっと気になったんよ。なんか理由があるのかなって?」
「・・・」
「ナナさん。最近お友達が増えたよね。この前なんか、めっちゃ明るい声で挨拶とかしてくれたから。先生ビックリしたんよ。でもうれしかったんよ。みんなと遊んだりして楽しい?」
「うん。たのしい。」
「そうなんじゃ。よかったね。最近は何して遊んでるの?」
「人狼ゲーム」
「へぇ。そんなゲームしてるんじゃ。おもしろい?」
「うん。」
「そういえば,なんかいろいろ紙にカードみたいなのつくってるよね。あれかね?自分たちで作ってるの?」
「うん。」
「先生さ。ナナさんが友だちと楽しく遊んで、元気になってくれてるのはめっちゃうれしいんよ。でもね時々授業中とかにも紙を渡したり違うことをしたりしてるでしょ。ノートも最近あんまり取ってないんじゃない?それが心配なんよ。」
「・・・」
「楽しいのはいいことだけど。授業中にもやっていると先生はやめなさい。やっちゃだめよって言わなきゃならんよ。ルールを守って楽しんでほしいんだけどな。」
「・・・」ちょっと涙が見える。
「ノートもとっていないし。勉強がわからなくなっていない?宿題もできてないでしょ?」
「・・・」
「ちょっと頑張ってみる?」
涙を拭きながら小さくうなずく  

「最近、宿題忘れが多いから気になってるんだけど・・・。」「なんか理由がある?」の問いかけにナナはなかなか答えることができない。なぜならそれは苦しんでいるナナにとって一番聞かれたくないことだからだ。「・・・ゲームをしていて時間が無くなる。」と言葉を絞り出すように言ったこの一言は、担任である大人(先生)に対するナナの配慮を伴った精一杯の応答だ。一応「そうなんだ。(中略)そうかあ。」と共感する西海だが、「どうしようか?」と迫ってしまう。「・・・」と答えに窮するナナに再び宿題の話題にもっていく西海。ここはナナにとって逃げることができないとてもつらい場面だ。そこで西海は180度違う話題を持ちかける。「ナナさん。最近お友達が増えたよね。この前なんか、めっちゃ明るい声で挨拶とかしてくれたから。先生ビックリしたんよ。でもうれしかったんよ。みんなと遊んだりして楽しい?」この問いかけを契機にナナはうれしそうに語り始める。人狼ゲームなどで友だちと遊んでうれしい気持ちを生き生きと語っている。誰かに聞いてほしいこと、自分にとって幸せを感じることを話題にされることで、自然と子どもは本音で話し始める。ナナの行為は確かに気になることではあるが、対話の中で逃げられなくなったナナに追い打ちをかけることをせず、新しく出会った世界を否定するどころか逆にナナに共感する西海。一緒に喜ぶことでナナ安心の世界に戻している。しかし西海はその後再び自分が気にしていることに話題を戻し、ナナ要求をする。共感しながらも、できることはやろうとのメッセージだ。ナナはまた言葉に詰まり葛藤する。最後に西海の「ちょっと頑張ってみる?」にナナは頷いた。西海のこの要求の前に、友だちと遊んで楽しかった思いを伝える機会がナナになかったならば、果たしてナナは頷いただろうか。あるいは頷いたとしてもそれは心からのものだっただろうか。翌々日、ナナは宿題を全部やってくる。「先生。これ。」と言って西海に渡すとすたすたと行ってしまう。そして国語の音読では、しっかりと大きな声を出して読むナナがいた。
 ここでも西海は子ども目線言い換えればナナの目線を大切にして話しかけている。教師の側の都合で語った問いかけに返事は返ってこなかった。そこですかさず子どもの世界に話題を変えている。ナナにとって、さくらやユリなどこれまで自分が知らなかった世界を生きる仲間ができた喜び、そしてそんな今の自分のことをきいて、一緒に喜んでくれる西海に、「先生の言うことも確かにそうだ。やってみようか」としばらくしてナナは思ったのかもしれない。
 対話の翌日ナナはグミを学校に持ってきてユミとさくらに渡したらしい。宿題をしてきたのはその翌日だ。さくらやユミと対極に位置していると見られていたナナ。しかしナナは間違いなくさくらやユミの世界にあこがれを抱いていた。そしてそんな世界を実際に歩み始めた。そのナナをもとの世界に引き戻そうとせず、新たな世界の始まりを一緒に喜んでくれる西海がいた。

(2)関わりをつくることでつながりをつくる【丸山実践】

単級学級の5年生。配慮を要する子どもが多い学級だが、人数の割には静かな印象を丸山は最初に感じる。学級開きの班じゃんけんでは、丸山が出すジャンケンの規則性になかなか気付かない。定番ゲームをすると、班を意識することなく個人の思いで各々がその時の雰囲気を喜ぶ姿に、先生を頼るのではなく自分たちで考えて行動できる集団にという課題を丸山は見つける。

 ①動きをつくることで関わりが広がり深まっていく

 忘れ物が多い、宿題のノートの字が汚い、九九を覚えていない子が多いなど、学年当初の丸山はマイナス思考に陥っていた。「しわが増えそうな毎日が続く」「やばい、どんどん悪いところばかりに目が行ってしまう」「叱ってばかりいるので、子どもたちも私のこと嫌いだろうな」「言いたくないけど言わないと直らないし」と、子どもたちと出会った頃の素直な気持ちを残している。しかし決して丸山は子どもを否定して終わるのではなく、子どもが意欲的に活動する手立てを着実に打っている。学級開きでのレクが最初のそれだ。入学からこれまでほとんど同じメンバーで過ごしてきた子どもたちであるが、丸山は改めて朝の会で日直スピーチを取り入れている。いざ始めてみると、大人から見ればたわいのない話にも、子どもたちは話し終えた後に質問をされるのを喜んでいる。これらは一見どこにでもあるような小さな取り組みだが、こんなことが子どもにとって喜びを伴う大切な世界であることを丸山は経験から気付いている。いつも一緒にいた仲間から質問されるのを楽しみにする子どもたち。本来質問は自分にとって関心のあるものに対して行う行為で、それが集団の中でできている。人が人を求めていることを如実に物語っている場面である。丸山は子どものマイナスが気になって仕方がなかったが、子どもたちは朝のスピーチを通して互いに応答する関係をつくり出している。

「お楽しみ会はやらないんですか?」と話しに来た3人のお楽しみ会社の子。丸山はすかさず「先生はやらないよ。3人が提案するなら、(中略)提案書いてみる?」と返し、原案の書き方を教え学級総会にかける。

T  「班で賛成か、修正したいところがあるかを話し合いましょう。」
T男「えっ、変えてもいいん?」
T  「これは原案だからね。もっといいお楽しみ会になるように、みんなで考えて、みんなで決めたらいいよ。」
1班 「チームはお楽しみ会社が勝手に決めているけど、平等な赤白がいいと思います。」
2班「チームはくじの方が盛り上がっていいと思います。」
提案「ちょっと言ってもいいですか。これは、もっと仲良くなるためのお楽しみ会なので、まだあまり仲良くない人となれるようにチームを考えています。」
3班「楽しそうなので原案に賛成です。」
4班「場所は、学校全体とあるけど、授業中なので他のクラスに迷惑をかけたらいけないから、グランドと体育館だけにしたらいいと思います。」
提案「でも、いろんなクイズを解いて、次は家庭科室へ行け、みたいにしたいから、教室を使いたいです。」
5班「学校全体を使うなら、迷惑になるから、しゃべった班にはマイナスポイントとかつけたらいいんじゃないですか?」
6班「このままでもできそうなので原案に賛成。」  

これまでも子どもたちはお楽しみ会を企画し経験してきている。しかし計画されたものに対して意見を言うこともなく、発案者の指示に従ってすべて行われてきたのだろう。修正案が出た時点で提案者の3人は一気に不満そうな顔になってしまう。「お楽しみ会をしたい」との子どもたちからの質問と要求をもとに、原案というものの意味、そしてみんなの総意で原案は修正されることもあることを、この総会(話し合い)を通して丸山はきちんと教えている。修正されることは決して悪いことではないこと、原案に対してみんなで考えを出し合うことでさらに魅力が広がることを、子どもたちに気付かせようとしている。実際初めての話し合いとも言えるこの場で、思いを伝えることは始まっているし、きくことの入り口にきているのではないだろうか。これを今後も繰り返し行うことで、話し合っている内容がイメージを伴ったものになり、より緻密な合意をつくり出す力になって行くはずだ。担任早々に感じた「みんながそれぞれ」という集まりを、「みんなで決めてみんなで守る」世界に舵を切らせた貴重な場面である。

 K
 配慮を要する課題が多いK。昨年は運動会の練習から逃げて砂場遊びをしていたKだったが、「K君、本当の位置に並んでみようや。」と丸山がいうとやっと並び、本番ではキレッキレで踊る姿を覚えていた。今年そのKの担任となり母親にそのことを聞くと、こだわりが強くて失敗している姿を人に見せられないこと、そして家で相当練習したことを聞く。健康観察で「はい元気です。」が言えないことや体育の時間には砂場遊びをしていることを伝えると、Kはどちらもできるようになった。そこで丸山はお母さんに「どんな魔法を使ったのか。」と教えてもらう。頑張るべきことを忘れるから、筆箱にメモを張り、思い出せるようにしていることをそこで知る。母親に課題を一方的に伝え、何とかしてほしいと見える結果を求めていない。Kの行動を難しくしているもの、Kをしんどくさせているものは何なのかというスタンスで丸山は母親に話しかけている。母親を頼りにすることで、共同して育てていこうとする姿勢が見えてくる。
 4年生の時は休憩時間が終わっても一人返ってこなかったり、授業中いつもタブレットを自由に見たりしていたKが、5年生になってノートをとるようになり、宿題も完ぺきにしてくるようになった。「僕頑張ってるでしょ。」がKの口癖だ。そんなKだが歯科検診の時に歯磨き粉とコップがなくてどうしていいかわからなくなり固まってしまう。また返された90点の漢字テスト結果に固まり、Kは机の下にもぐってしまう。

 

K君、こんなに長くなにやっとんの?」「避難訓練の練習」(とニヤッと笑う)「ジリジリジリーン、訓練終わりです。」

 これまでも何度となく固まることがあったKが初めてこんな反応を見せた。いつも頑張ろうとする自分となかなかできない自分に混乱し固まって自己防御するKだ。今、自分を見放すことをせず、あせらず時間をかけて関わってくれる大人が家にも学校にもいてくれる。だから安心して時間をかけて自分を落ち着かせそして取り戻すことができたのだ。「避難訓練の練習。」と機転の利いた一言を発したKと、それに対し瞬時に「ジリジリジリーン、訓練終わりです。」と返した丸山との間に間違いなく信頼関係ができつつあることがうかがえる。

 5月の修学旅行。最大の問題は、果たしてKが参加するか否かだ。「いろいろ不安なんだよな。」とぼやくK。「行かせようか悩んでいるんですが、一応保健調査を書いてきました。一人で泊まらせたことも、お小遣いを持たせたこともないので、不安で。」と語る母親。結局Kは参加した。副班長のI子は「Kくーん。」と明るく誘ってくれるし、まったり系の女子たちと一緒に活動したが、まだ子どもだけの世界に入ることが不安なKだ。遊園地では丸山と二人で過ごし、好きなゴーカートに乗り続けた。

その後にあった参観日の発表では「水族館チーム」に入るが、一緒に準備することができない。結局丸山と台詞などを一緒に考えて準備する。母親からの連絡ノートには、「家では楽しそうに練習して、ずいぶん覚えてきました。でも、参観日当日は緊張してお休みすると言い出すかもしれません。貴重な経験をくださった先生に感謝しています。」と書いてあった。

 

「覚えたこと聞かせてよ。」「いいよ。もうばっちりだよ。」「上手いじゃん、明日休まずに頑張っておいで。」「休まないよ。僕、頑張って覚えたからね。」                      

 ガッチガチの表情で声は少し小さかったけど、Kは発表した。去年までは参観日は休んでいたKだ。人は自分に共感してほしい時、言葉で発信するのだろう。ガッチガチになったのは、お母さんと先生、そしてもしかしたら学級のみんなに自分が歩んできたことを伝えたいという思いの表れだったのかもしれない。
6月の班替えでは、6班になり席は教室の後ろ側に決まる。

K 「ええ、僕この席がいいよ。ここなら生活ノートも書けるし、ノートも書けるし。」
T 「(4班の子どもたちに)K君がこの席なら勉強できるっていうんだけど、6班と4班の場所を変わってくれないかな?」                                       
4班「えー。」
1班「こっちの前なら変わっていいよ。」

 動かなくなったKKの席は去年1年間はずっと同じ場所だったという。結局教室の後ろに行った6班だが、Kだけが前に来ることで落ち着いた。4班が「えー。」と断った事実は大きい。自分が座る場所を主張することや班という小集団で動くことなどを、この子たちはこれまで考えたことがなかったのかもしれない。しかし4班は自分たちの思いを主張することができた。学級の中に自治の世界が意識され始めていたのかもしれない。残念なのはこの時4班の「えー。」の理由が明らかにされていない点である。あの時4班の思いが読みひらかれて全体に理解されたとしたら、その後話し合いはどう展開たのだろうか。1班の「こっちの前なら変わっていいよ。」も同様だ。もう一点、自分の思いをみんなの前で主張したKの気持ちをみんなで読み広げることはできなかっただろうか。結局6班は後ろに移動し、Kだけが離れる結果となった。結果的にそうなることもあるだろう。ただこの時話し合いが深まっていたら、周りの子どもたちのKに対する思いが変わっていたかもしれない。話し合いを積み重ねるに連れ次第にその質が深まり、より多くの納得と合意が学級の中に得られるようになって行くのだ。

 Kの行為は確かに変わってきている。今は丸山の存在が大きいのだろう。しかし、Kがみんなの世界により安心して入っていくためには、Kの思いや願いがみんなに伝わるようにする場面が必要だ。4月からこれまで、広島サミット・修学旅行・修学旅行のまとめ発表会(授業参観)と高学年の忙しさと向き合いながら進んできた5年生だ。しかし着実にみんなが意見を言い合える関係になってきている。これまでみんながバラバラな状態だと丸山が感じてきた学級は、Kにとっても大切な居場所になってきていることは間違いない。


(3)実践から見通す
 ここで取り上げた2本の実践はいずれも6月初め頃までのものである。この短期間の実践からだけでも、二人は共通して、「(周りから見て)困った子は(自分自身が)困っている子」と見ていることがわかる。大人の目線でなく、あくまでもその子の目線で子どもの行為行動を見つめていることがわかるだろう。
 西海実践に出てくるさくらにとって、教室はすでに大切な場所になっている。授業に参加することも増え、自分自身でトラブルを乗り越えることができるようになっている。言葉はなくても離れた場所からの西海のサムズアップにうれしい表情で応えることができるようになっている。また、そのさくらと全く正反対の位置にいると誰からも思われていたナナがさくらの生き方にあこがれを抱き、同じように動き始める。自分の中で変革を起こそうとしているそのナナを、西海はうれしそうに見つめている。
 丸山実践に出てくるKはそもそも去年までは授業に参加しないことが多く、参観日はすべて欠席していた。丸山もKの願いを大切にし、それを実現させるために双方向で二人一緒に歩んでいる。固まって机の下にもぐった時、「こんなに長くなにやっとんの。」「避難訓練の練習。」「ジリリリリ-ン。訓練終わりです。」のような会話が成立し、しんどさを一緒に解消できる関係を築き上げている。
 さくらやユリに対する西海の個別接近はナナにも広がっていく。またKに対する丸山の個別接近を間違いなく周りの子どもたちは見ている。学級の中に様々な新たな波が起き、応答関係ができはじめている。今回の報告に出なかった子どもの世界でもそれは同じはずだ。子どもは誰もが他者にあこがれを抱きそして羨ましさを感じている。教師の仕事は、そういう子どもたちを意識的にじっくりと見つめ、互いを結び付け、それを広げていくことだろう。

3.子どもが直接関わる教室に・・・子どもの呼びかけに子どもが応答する世界に

 コロナ禍の制限が緩和した今、子どもと子どもが直接関わる世界を取り戻すことがまず何よりも必要だろう。直接関わることで五感(見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れる)がバランスよく発達し、喜び・怒り・悲しみ・楽しみなどの情も育まれる。自己肯定感の高まりと他者の尊重、そして他者への尊敬といった感情の発達は、これらの直接経験なしには難しい。
 学校生活で最も基本となるのは学級だが、自分が所属する学級を子ども自ら決めることはできない。大人によって所属を決められた学級に子どもは集う。そして様々な基準や規則に従い、違う者が同じように導かれているのが今の学校の特徴と言って間違いないだろう。学習指導要領を頂点として到達点が示され、それに向けて教師も子どもも進んで行く。そうとう苦しく感じる世界だ。だがその苦しさを感じさせないよう、効率よく指導を進めるために取り入れられているのがGIGAスクール構想によるICTを活用した教育である。電子教科書を最大限活用した授業やタブレット端末を使った学習などである。これが休みなく繰り返され、使いこなすスキルが磨かれる。こうしてスキなく物事は進み、不要なストレスがかかりにくくなる。子どもにとっては取り入れやすいし困った時に助けてくれる正義の味方のような存在にもなる。
 が、いつの間にか機器と同化していき、教室にいても子ども同士の関わりが希薄になって行く。一人一人の違いや個性を発見することがこれによって難しくなっていくのではないだろうか。反対に、一人一人の違いを互いが発見・理解し、それぞれの願いを受け入れ共感する学級集団づくりを進めれば、願いを実現させるための様々な意見やアイデアが出され、自分たち自身で進むべき道を見つけ、実際に進み始めることができる。異に出会い混ざり合うことは子どもにとっては新鮮で、自分を見つめ新たな自分を発見する大きな力になる。今こそ私たちは、目の前にいる今の子どもそして子どもの明日を信じて、子どもと子どもが当たり前に関わることができる世界をつくり、子どもの関係性を深めていきたい。

以下、西海実践と丸山実践をヒントに、一人の願いをみんなできき、共に実現させる関係、言い換えれば、呼びかけと応答のある世界をつくるため、具体的にできる手立てを提起する。

(1)私的な世界を充分に育てよう

目の前にいる子どもがどんな思いをしているのか、あるいはどんな願いをもち悩みを抱えているのか、教師がまず最初にやるべきことは子どもたちの今を知ることだ。子どもの思いや願いよりも教師が設定した課題に取り組むことが優先され、子どもの内面を置き忘れる世界から方向転換し、安心して自分を教師や学級のなかまに出せる関係をつくりたい。

①おしゃべりを通してつながろう    
 2022年4月に改訂された「生徒指導提要1.5.1児童生徒の権利の理解」に「児童生徒は自由に自分の意見を表明する権利を持っている」(P33)とあり、子どもの権利条約(生徒指導提要では児童の権利に関する条約)第12条の意見を表明する権利が示されている。これからも子ども不在の教育実践の限界が見て取れる。今こそ子どもの願いや呼びかけに応答し、自分たちの世界をつくる学級集団づくりを進めたい。コロナ対策による活動制限が取れた今、教師と子どもそして子どもと子どものおしゃべりや対話をたくさん味わいたい。
 教師が子どもの声をきく方法はいくらでもある。    

 1.教師から話しかける。 2.日記や作文を通して知る。 3.休憩時間に教師がぼーっとして、話しかけられるのを待つ。 4.一緒に遊ぶ など様々だ。

教師は間違いなく今でも子どもとよく話している。ただそれが、子どもが教師と話したい時にしているか、そして子どもが教師と話したい話の内容かどうかの問題がある。よくあるのは、トラブルが生じた時に、その問題に特化して話を聞き込むことだ。そういうときは両者から話を聞いて指導をするというのが一般的である。「お互いの考えていたことがよくわかりました。解決しました。」と職員室でよく聞く。本当だろうか。これを子どもの目線で考えた時、「ただ先生の話を聞いてその場は終わった」と、子どもの中に満たされない何かが残っている場合がよくある。トラブル以外でも、例えば「どうしたんだ、今日も遅刻だぞ。」などと、話の中身が聞かれたくないことだったり子どもの興味関心とは関係のない学校臭さを感じるものであったりすれば、子どもが本音を言うことはないだろう。そうではなくて、日ごろから前を向いた対話、言い換えれば子ども目線のおしゃべりをすることが必要となる。それが充分になされたとき、「どうしたんだ、今日も遅刻だぞ。」と話しかけても子どもは答えるようになるだろう。
 Aさんと教師・Bさんと教師の一対一のおしゃべり・対話を通して関係は容易につくることができる。しかしAさんとBさんが似たような思いを持っていても、二人の関係性が薄いと共通した思いを持っていることを互いに知らないままのことが多い。だがAB2人と教師の信頼関係がそれぞれあれば、共通な思いを持つ者同士を教師を通して出会わせることはできる。

②私的な世界を教室に・・・楽しみを共有させよう
 今の学校体制のもとで私的な関わりを充実させることができるのは、休憩時間くらいだろうか。子どもたちにとって仲の良い友だちと一緒にいたいのは当然で、その関係性は新しい何かを創り出す力を持つ。学級でそれを実現させやすいものに学級内クラブや会社活動がある。学級内クラブは同じ思いを持つ者が集まったサークル活動のようなもので、会社活動は係活動を少し形を変えたものだ。

〇学級内クラブ・・・・参加自由。同じ趣向の者が集まり、楽しむ。休憩時間だけでなく放課後も可能。個人的活動である学級内クラブがやがて学級へ影響を与えていくことも多い。

             (例)・ダンスクラブ ・放課後サッカークラブ ・将棋倶楽部

〇会社活動・・・・・・・いくつつくってもよい。一人でも二人以上でもよい。朝の会や帰りの会でみんなの承認を得てスタートする。会社を辞める(抜ける)時も同じように承認を得る。学級独自のお金をつくって動かすこともできる。常に学級に影響を与える。

              (例)フラワーショップ ・救急車 ・宝くじ ・イベント会社

 私的な活動に端を発した自由度が大きい活動は、間違いなく学級が活性化される。活動が進むにつれやがて学級の問題点が見えはじめ、それに気付く子や心配し始める子、そしてそれに対して何らかの動きを始める子が必ずいる。そうなると、教師の中にいつの間にか学級地図(相関図)が鮮明に浮かび上がることになる。

(2)公的な動きを同時につくり出そう
 学級は秩序によって成り立っている。ただそれが集団の納得によってつくられたものでなければ、集団の発展が難しくなる。子どもたちの呼びかけと応答が繰り返され、次第にその集団に適した秩序がつくられまた修正されていく。話し合い、決めたことを取り組み、まとめをして次の目標を見出す。そしていつしか〇組の秩序が形成される。突然約束事などを決めさせようとしても、経験の乏しい子どもたちにはそう簡単にはできない。だから小集団での活動だったり意見を吸い上げる働きをする組織が必要になる。
 学級には班、グループ、給食当番、掃除当番などいくつかの小集団が存在するが、子どもの意見を尊重し納得を得た上でメンバー構成がされているだろうか。

①誰のための集団なのか、あらためて問い直そう
 子どもからよく「席がえ」の声を聞くが、「班替え」とは聞かなくなった。教師が席を決め、その前後左右を集めて「班」とする教師が増えている。落ち着きがなく周りにすぐに手が出る子の近くには、その子の行為に耐えられる子やスルーができる子を座らせる教師が多くなった。1年を通してそれが繰り返される。教師の都合で学級がつくられる典型的な例である。そんな子はまた教師に対し何も言わないから、教師はその子らにあまえ続けることになる。しかしその裏で子どもたちはそれに気付いている。それをおかしいと思っている子もいれば、自分に被害が及ばないことに安心している子などいろいろだ。重要なのは、教師自身が見えないところで生じている問題点に気付いているかどうかということだ。改訂生徒指導提要に子どもの意見表明権が記されたのは、このように問題が水面下で数多く生じ、それらが大きくなって表面化したときには取り返しが難しくなる実態が増えているからではなかろうか。私たちは私的な活動を充実させながらも、班の存在理由や公的な仕事に取り組む意義をみんなで学ぶことは重要である。

②席ではなく班があることを問い直そう
 掃除や給食準備では必然的に小集団がつくられる。一人一人の役割が決められ、それを適切にこなしているか否かで評価される。授業では、隣とペアで確認をし、前後左右の子で集まって(それを班と位置付ける教師が多い)順番に発表し聞き合うことはある。ただそれは、一人一人の違いを見つけてみんなでそれを解明していくためではない。活発に見えるが深まりがない。学校は、みんなで学ぶ喜びを感じにくくなっている。
 班は、一人一人の違いを見つけ、それを尊重してみんなの課題とし、全体の場で解決させたり合意形成をつくったりするための基礎的な集団である。何となく掃除する、何となく給食当番をするなど、自分の行動に価値づけることなしに取り組むのではなく、一つ一つ苦労を共にしながら行動を意味付け、成長を確認するために不可欠なものだ。よびかけと応答のある子どもの世界をつくるには、班は大きな役割を果たす。物事を決めるために話し合う、問題を解決するために話し合う、困っている仲間をどうするか話し合うなど、関わることを学ばせるためのものだ。

③決めること
 その班だが、とかくその決め方に目が向きがちだ。しかし大事なことは、決め方ではなくどんな意図をもって決めるかではないか。大切なことは、教師が指導しやすい環境をつくるためではなく、子どもの求めや必要性から出発しているかどうかだ。
 アンケートを取って決める、班長を決めて班長会が決めるなど様々実践されているが、教師が決めるということを含め、その視点だけは忘れてはならない。

④呼びかけに応答する子どもを学級に

自己肯定感の高まりに他者の存在が不可欠なことはコロナ禍の中で誰もが実感した。これから学級を成長させるためには、一人の呼びかけに周りが応答していく道筋をどうつけるかが課題となる。班長が班のなかまの悩み、授業であれば「わからない。」などの思いに共感し、みんなに呼びかける。場合によっては教師に報告する、班長会を開く、その子のことを一番知っている子に相談するなど、多様に動きをつくることで次第にみんなの問題となっていく。このように応答し合える機会ができているにもかかわらず、残念ながら多くの学級で子どもの苦悩をすべて担任が受け入れ、当人から聞き取って個別の対応が繰り返されている。それが対応しきれなくなった時、みなが閉塞感を感じる学級になり、モグラたたきのような状態になっていく。教師が直接に対応しようとせず、可能性を無限に秘める子ども自身が動く世界をつくれば、共感的な動きは波紋が広がるようにつくられていくのではないだろうか。

4.終わりに
 今回の実践には出ていないが、小学校教師の西野はいつも子どもに「ナンデ。ナンデ。」と気軽に声をかける。子どもの行為行動の背景を大人が勝手に判断せず、思いを知るため子どもに語ってもらう。そうすると子どもは本音で自分を語り出す。そしてその様子を周りの子は自分事として見始める。私たち大人より子どもの方が世界をはるかにリアルに見つめている。大人が否定的に見ていることでも、子どもは先入観なく物事を見つめている。だから大人のように規範にとらわれず、肯定を見つけ出すことができる。
 子どもは誰の味方にもなれる力(センス)がある。これから1年間、子どもを信じて、呼びかけと応答のある実践をつくり出していこう。            (広生研基調小委員会 )

 

 




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


広生研トップページに戻る

    2022広生研大会基調提案(ZOOM開催)
                         2022,8,20

    「互いの思いや願いをきき,信頼と安心を教室に」

                         ~すべての子どもを主人公に~

1,はじめに

   今の学校は,どんな姿に見えているのだろうか。ある若い先生のつぶやきだ

   

 今年は特別支援学級の担任になった。国語,算数以外は,交流級に行き,サポートをする。今までとはガラリと環境が変わった。先生方の授業を見に行く余裕もできて,今年は「勉強する」年になりそうだと思った。様々な授業を見て勉強できるのは,始めは楽しかった。しかし,同時に苦しくも あることに気付いた。その理由の一つは,教室で排除される子が目に見えて分かる ことだ。立ち歩き,暴言が止まらない子,みんなと同じようにできない子,その子たちは“異質”とみなされ,酷く叱られたり,教室から机を出されたりする。その子たちなりの言い分や,思いがあるはずなのに…。目の当たりにしたのはそれだけじゃなかった。ある教師は運動会の全体指導で毅然と振る舞いながら,「できて当 たり前です」と指導のまずさをすべて子どもに押し付け,「言われなくてもできるようになれ」「空気を読め」と𠮟りつけていた。交流の先生にはじめに言い放たれたことは,「配慮はしません」だった。ある主幹教諭がやったことは,スタンダードのポスターをあちこちに貼ることだった。子どもの思いに寄り添っていた若い教員は,いつの間にか腰に手を当てて,子ども達を見下ろすようになっていた。出会いとは恐ろしいものだと思う。これが本当に,教師の仕事なんだろうか。
  子どもも教師も,自己責任と競争の中で生きている。その中で生き延びるためには,学び続けることしか無いのだと改めて思う。何を学び,どう実践するのか。私は声を大にして,「今こそ生活指導だ!」と言いたい。子どもの願いを聞き取り, 応答し合いながら,安心・信頼できるクラスを目指して,今自分にできることをやりたい。たとえその力が小さくても,目の前の子どもを大切にできるなら,それでいい。それがいいと思うのだ。                                                        


2,画一化・効率化が進む教育

(1)子どもたち

  人格の完成を目指しているはずの教育が,人材の育成を目指すものにすり替えられ, 学校は,大きく変容した。上意下達の体制が整ったのだ。

  教室では,○○スタンダードや○○のきまりなどの掲示物が統一され,号令の掛け方 や持ち物まで,管理されている。当番や係では,一役一人制がよしとされる傾向にある。 責任の所在が明らかで,指導が楽なのだそうだ。そういう風土の中で,子どもたちは, 靴箱調べやはてな調べなど,できているかできていないかをチェックする仕事を喜んで 行い,いつの間にか優越感に浸っているように見える。なぜ,できていないのかと理由 を考えたり,どうすればできるようになるのかなどを考えたりはしないのである。でき て当たり前,できないのが悪いと刷り込まれていくのである。
   ここ数年,新型コロナウイルス感染症対策のため,学校生活は,さらに,大きく規制 された。検温・マスクの着用・手洗い・消毒に始まり,机の配置や話し合いの制限,授 業内容の制限なども行われた。ソーシャルディスタンスが合言葉のようになり,人と距 離をとることが当たり前となった。また,マスクを外す給食の時間では,黙食という言 葉も生まれ,コミュニケーションをとることが悪者のように扱われてしまっている。
 感染症対策マニュアルが示され,各学校ごとに,具体化されていくのだが,これが, 新しい生活様式として導入され,これまでのマニュアルやスタンダードと結びつき,必 ず守らなければならないものとして,位置付いてしまった。
   そして,分散登校,長期欠席,臨時休校などの対応のためにとICT化の動きが前倒 しされて,入ってきた。準備,検討が不十分なまま,一人一台タブレットが配布され, 急遽タブレットびらきを行うように通達された。タブレットは万能選手で,導入しさえ すれば,課題が解決できるといった扱いであった。タブレットやソフト,アプリなどは, ツールであって,使えばいいというものではない。メリット,デメリットなど特徴を把 握して,目的をもって使用すべきものである。
 そのような状況で,子どもたちは,個別化され,分断されてしまい,意見や疑問,拒 否など自分の気持ちを押さえ込んだり,学校生活を豊かにすることを諦めてしまったり している。
  人と人との関係は,対面で相手の様子を感じながら,関わることで深まっていくもの だからである。

(2)教師たち
 働き方改革については,業務の効率化の名の下,大切なものが削ぎ落とされている。実際には,新しい施策が導入されても,スクラップされるものはなく,導入に伴う労力の方が負担になっているのが現状である。準備不足であったり,導入後の不具合に追わ れているからである。
 そもそも超過勤務の解消は,人を増やすか仕事を減らすしかないはずなのだが,ここにメスを入れず,効率的に物事を進めるための仕組みとそれをそつなくこなす個人の力量に委ねられた改革では,全く意味がないのである。
 例えば,多くの学校で導入されている定時退校日であるが,実質は,その日学校を追い出されることとなり,処理できなかった仕事は,次の日に上乗せされるだけなのである。
 また,会議や打ち合わせの時間を短縮させるため,ペーパーレスでの会議や掲示板の利用を推奨している。分掌の仕事も一役一人(メインが)とされることが多く,一つの仕事をみんなでつくり上げていくことがなくなってしまっている。
 働き方改革を進めるために,効率を上げることが重視され,マニュアル化が強化される。教師も,個別化され,分断されてしまい,意見や疑問,拒否など自分の気持ちを押さえ込んだり,「明日はこんな実践してみたい」「子どもたちはどんな反応するかな」 など学校教育に対する思いや願いを語り合い難い状況に陥っている。
 子どもの学びも,教師の仕事も,画一化・効率化による個別化と分断が進行し,互いの思いや願いを聞き取り合いながら主体的に考え行動する意欲が削がれてしまっている。

3,個別化・分断された子どもたち

   画一化・効率化が進む中で,様々な子どもたちが存在している。

 現状を受け入れて(≒能力主義の優越感を享受して)いる子。自己を押さえて諦めて いる(自分の願い・思いを声に出すことを諦めている)子もいる。関わりを求めて足掻 いている子もいるが,残念ながら,その子たちの声はかき消され,聞き取られることは ない。
 コロナ対策のもと,様々な制限が設けられたことにより,子どもたちはこれまで以上 に多様な欲求不満や不安を抱え込まされている。だが,そうした子どもたちの声を聴き 取る余裕がない教室では,子どもたちの不安やしんどさはますます大きくなり,互いを 攻撃し合う姿も目立つようになる。
 画一化・効率化が進む中で,様々な子どもたちが存在している。
 例えば,アレルギーがあり,マスクを長時間使用することができない優花は,クラスのみんなに説明はしているにもかかわらず,クラスのみんなから「マスクして」と攻められ,落ち込む。
    「授業がつまらない」と叫ぶ司に,理由を聞くと「できんし。わからんし。」と答えた。仲間との共同作業や思考のための体験などが制限される中,学習の苦手な子は,悲鳴をあげている。そして,その声すらあげられなくなっていく。
    光一は,口の中に何か加えていないと不安で,落ち着かないと言う。しかし,その光一を見て,不安な気持ちになる孝史。「マスクして,さわらんで。」と注意し続けてしまう。お互い相手の思いを聞けていないのである,
 「明日,発表会するよ。」と予告すると次の日,それが不安で登校を渋る真澄や「次は,信也で。」と指名すると泣き出してしまう信也は,クラスの反応を恐れている。
 教室では,目立たない梨花だが,長期欠席となり,放課後オンラインで繋ぐと,30分ずっとしゃべり続けた。
「静かにしてください。」「席に着いてください。」と注意をされる雄基は,「どうしたん。」と聞くと,「まだ遊びたいもん。」と答える。雄基の思いは聞き取られないまま,
 できない子というレッテルを貼られる。
 運動会などの学校行事,校外学習,学年集会,学級集会なども中止や制限付きの実施となり,楽しい活動を体験できない子どもたちは,仲間と活動する機会を奪われてしま っている。そのため,教室が安心空間となっていないのである。
 また,マスクをしているために表情が見えないことや個別化によって複数で活動する場面や時間が減っていることで,友だちが広がらなかったり,友だちのことがわからな かったりしていることも大きく影響している。
   さらに,家庭内のことはあまり情報が入ってきていないが,ここでの不安を抱えている子もたくさんいると想像できる。
   だからこそ,個別化・分断された状況を越えて,「互いの思いや願いをきき,信頼と 安心を教室に」広げていく必要がある。

 4,個別化・分断化された教室を信頼と安心の教室へ

 (1)思いや願いを実現する活動の展開

  Ⅰ「自分たちで決める」ということ

  「決める場面を多く持ち,積極的に活動してほしい」「コロナ渦ではあるが,友だち同士で支えられる関係をたくさんつくってほしい。」というねがいを胸に実践をスタートした。
 例年とちがったのは,ロッカー・靴箱の位置を決めていなかったことだ。ランドセル を入れるロッカーは,後ろに24個しかなく,大きさの違うロッカーが横にある。何人かは,小さなロッカーを使用することになるため,最初の話し合いの場面とした。
 小さいのでいいよと言ってくれた子どもがいたため,すんなり決まった。その後,靴箱も決めた。
 割り当てられたものを黙って使うことが当たり前ではないということと,自分たちのことは自分たちで決めていいことを伝えるために,ロッカー,靴箱の話し合いを仕組んだ。

 Ⅱ 思いや願いをともに実現していく価値に出会う

  -班活動が生み出す喜びと矛盾に向き合う-

    生活班とは,「学校では,いろいろな人たちといっしょに生活しています。楽しいこ とや困ったことがたくさんあります。また,勉強や仕事もいろいろしなくてはいけませ ん。自分一人では,何かと大変です。そんなとき,仲間がいると安心です。楽しいこと は,もっと楽しく,困ったことは助けてもらえます。勉強も仕事も仲間といっしょのほ うが,楽しいです。そういうところが,生活班です。」と話し,1回目班の提案をした。   出席番号順の座席をそのまま使った班を提案した。ねらいは新しいクラスになれ,新 しい仲間を知るためとした。まずは,居場所としての生活班を実感してもらうためだ。 生活班では,①みんながわかるように勉強をする。②給食,掃除,日直の仕事をする。 ③困ったことがあったら,助ける。④楽しそうなことを考えて,楽しいことをする。と提案した。   ①と③は,安心して生活するための居場所と感じてもらい,②は,毎日,話し合いと 共同作業を仕組むためである。
   2回目班は,人数と班の数を決め,自由にメンバーを選ばせた。班長は,班内互選と した。現在の学級の様子から,チャイムの合図で行動するというねらいを掲げた。
 クラスがスタートしたばかりなので,活動がしやすいメンバーとなることと学級地図を描きやすくするためである。
 また,人数制限を設けているため,必ずもめ事が起こることになる。このとき,誰がどのような動きをするかにも注目しておきたい。
 そして,班の目標と①~④の実現のための取り組みを積極的に進めるように声を掛けていく。この中で,矛盾を顕在化し,乗り越えるための取り組みを行うこととなる。
   この年は,4回目班で,班長立候補制を導入した。班のねらいを達成するためには,達成の中心となるリーダー(班長)をみんなで選んで,選ばれたリーダー(班長)が責 任をもって,班編制を行う方がよいと子どもたちに提案した。話し合いの結果,班長になりたい子どもたちの多くが賛成し,原案通りで決まった。学級分析と学級づくりの本格的なスタートとなった。(=基礎集団としてスタート)
 班は,すべての子どもたちにとって安心できる場所であることが求められる。こまっ たことがあれば,班で相談すればいいと思えるようにしたい。つまり,ヘルプを出す場 であり,ヘルプを見つける場として位置づけたい。
   また,仲間を理解する場としても大切にしたい。したがって,班で何を体験するのか が大切になる。そこで,班編制の仕方も重要になると考えている。
 少なくとも,原案を提示し,リーダーとしての班長を中心に,自治的集団の基礎集団 としての班を構築したい。

  思いや願いを聞き合う道筋を多様化する

  -会社活動を通してルールをつくりかえ続ける子どもたち-

 多様な活動(様々な子と様々な活動)を行うために,会社活動を提案した。
   会社とは,3人集まることだけを条件にして,楽しい活動ができるものなら,自由につくっていいよと提案した。また,新規,倒産,掛け持ち,移動も自由にした。ただし,誰が何をしているのかを明らかにするために,朝の会か帰りの会で,報告して了解をとることを確認した。
   なぞなぞ,クイズ,ジェスチャー,なぞときなどの問題型,イラスト,折り紙,マンガなどの文化系,お笑い,ダンスなどのエンタメ系,ご褒美,チャンピオンなどのプレゼント型,マッサージやお手伝いなど,先生を気遣うものまで,たくさんの会社が設立され,盛り上がった。
   活発な奈々は,なぞなぞ会社を立ち上げ,毎日帰りの会になぞなぞを出した。下校時 刻は決まっており,なぞなぞが終わると時間切れとなる日が続いた。お笑いをやりたい 治やジェスチャーをやりたい凜などから,「自分たちもやりたい。」「奈々ばかりずるい。」と声が上がった。どうすればいいかを話し合った結果,回数の制限や曜日の指定,朝の 会や休憩時間の利用などのルールをつくることができた。
 また,静かに過ごしたい柚などの思いを受けて,発表なしの日を設けることもできた。   会社がたくさんできると,すべての会社の活動が保障できなくなってきた。「先生, 会社がやりたいけど,人が集まりません。」掛け持ちをしている子どもが増えたことが 原因だと考え,話し合いを得て,夏休み明けは,掛け持ちを禁止するルールができた。今度は,掛け持ちを禁止したことで,3人集まるというルールが足枷になる場面が出てきた。それに対しては,条件付きで,2人の会社も認めることになった。「2つやりたい。」という声もあり,その都度,子どもたちと話し合って決めていった。
   願い(矛盾)→話し合い→解決→願い(矛盾),話し合いの母体は様々であったが,このサイクルを繰り返すことで会社はより豊かなものになっていった。  学級は,子どもたちの要求をかなえるためのものであり,子ども活動を豊かにしていくものである。そうであれば,会社だけでなく,スタンダードや学級のルールも子ども たちが必要な活動を行っていくためのものであり,そのときそのときでつくりかえられていくべきものだといえる。

(2)信頼と安心を紡ぐ学び                                        

  自分を取り巻く“世界”とつながる学び

   教科の学習において,単元の導入を子どもたちの関心や声から,構成することはとても大切なことだ。学びは,生活に基づいて展開していかなければ(生活からかけ離れた状況では)実際の生活場面で学んだことを生かせないと考えるからだ。
   社会生活の変化(近代化)により,子どもたちは,就学前の自然体験や生活体験が乏しくなってきている。また,現在コロナ禍において体験活動が制限される状況も出てきている。
 ICT教育の導入で,グーグルアースやストリートビューの利用など,便利になったり,疑似体験ができるようになったりしたメリットはある。しかし,本物を味わう(体験)ことが,おろそかになってしまってはいけない。
 二年生は,町探検に出かけた。店の人に話を聞き,実際に店を見ることで,本物を感 じることができた。また,実際に歩く中で,見つけたもの,体験したこと,も学びを深 めるものとなる。「百聞は一見にしかず」というが,時間はかかっても,体験すること, そこから思考することを大切にしていきたい。
 そして,すべてのことを直接体験することは不可能であるが,間接体験や疑似体験を 含め,体験を通した得た気付きを認識へとつなげていきたい。
 ICT教育の導入は,子どもたちに「わかった気分」を味わわせることができるかも 知れないが,個々の生活実感とつないで理解するには限界もある。そして何よりICT 教育が「一人でできる」ように子どもたちを分断し,大切な少年期の活動を奪ってしま うことが危惧される。「一人でできる」(できた気分になる)のではなく,一人一人の 生活実感を交わし合いながら,「みんなでわかる・できる」世界へとつながる学びを大 切にしていきたい。

 Ⅱ 他者とつながる学び(≒学び合い)

   他者とつながる学びを安佐口実践を例にして見てみよう。

                                                                             
     

76×54=9504をもとにして,次の積を求めましょう。
 17.6×54  ②176×5.4  ③1.76×5.4                                              

  わかった子が順に説明し,理解が広がっていく。だが,4人ほどなかなか理解できない。
  ③の答えと理由をじっと聞いていた上田の顔が動いたので,上田を指名した。1.76は176の百分の一なので小数点が二つ左により1.76になる。5.4は54 の十分の一になるから小数点が一つ左に動いて5.4になる。こんな感じで子どもた ちは答えていた。上田は前に出て説明するがなかなかおぼつかない。みんなも真剣に 聞いている。2度3度やり直すうち,周りから笑い声が上がりそれは次第に広がって いった。上田自身が何度も何度もあきらめずに真剣に挑む姿に対する喜びの笑いだっ た。そしてついに「小数点が全部でいち・に・さんと3つ動く。」と黒板の数字を指 さしながら説明したとき,一生懸命説明する上田への笑いに包まれた歓声と拍手がわ き起こった。

  説明がおぼつかない上田を学級のみんなが温かく見守っている。上田は,学級のみんなを信頼し,最後まで諦めることなく安心して,説明をやりきった。
    理科でマッチを擦る実験がある。コロナ禍では理科室が使えない。安佐口は,どうし たらよいか,子どもたちと考え,グランドで実験をするという方法を決めた。知恵を出 すことで,ピンチを学びのチャンスに変えている。個別化と分断させない実践が,子ど もたちに,授業場面でも安心空間を生み出している。

(3)思いや願いを聞き取られる「信頼と安心の教室」へ

  卓の思いを受け止めて(風野実践)

   

 4回目班では,やりたいことはあるけど,優先順位がバラバラになって,はぶてることがよくあったが,やることを整理しながら,活動している。
 この日は,計算ドリルの学習をしていた。班ごとに答え合わせをして,次の課題に進むという流れで学習していた。

泰  :卓くんがやってくれません。
  :どうしたん。
卓  :漢字,先にやらんといけん。
T  :朱里,どう。
朱里 :漢字やってからでいいよ。
T  :卓 やること言って。
卓  :漢字やって,詩やってから,算数。
T  :6班それでいい。
6班 :オッケー。

 結局,6班は,卓抜きで答え合わせをしていくことになるが,朱里は,卓に漢字や詩についてアドバイスをしている。
 朱里は,卓の思いを優先してあげることができるのだった。                                                                                             

  班学習での場面である。本来は,算数の答え合わせを優先させるべき場面に見えるが, 朱里は,卓の思いをきき,それを受け止めている。
  やっている内容は違うが,しっかり班学習が成立しているのである。

  アオの思いを受け止める(西瓜実践)

 

  後日それが判明した。道徳の時間に,「クラスのいいとこみつけ」をしたときだ。
カードにそれぞれ思いを書き,画用紙に貼って飾ろうと提案した。すると,アオが大きな声で,
「先生!僕は先生と班の人には見せてもいいけど,他の人には見せたくない!」

と言った。先生だけじゃなく,信じられる人が増えている!!それだけでも嬉しかったが,ここで終わらせるのはなんだかもったいない気がして,子どもたちに問うた。                                                                



    

私:ねぇねぇ,アオはこう言ってるけどさ。みんなはどう思ってるの?先生はアオの意見が見たいんだけどなぁ。
子どもたち:(ポカンとしている子が多数。)
コバ:え,でもさぁ,見せたくないなら無理させんでいいんじゃない?はれる人だけはろうよ。
私:たしかに。でも,それでいいのかなぁ…
スミ:アオくんはどうして見せたくないのかなぁ?
私:なんかね,なっちゃんから聞いたんだけど…なっちゃん:自分の意見を馬鹿にされたことがあって,いやだったんだって。
私:そうか。みんなはどうなの?アオの意見を見て馬鹿にする?
子どもたち:いいや,それはせん。
私:だって。アオ。
アオ:でもね…僕はね…
なっちゃん:(アオがぶつぶつ言っていることを代弁して)女の子はいいけど,男の子の一部がまだ信用できないって。
私:そうか。みんな,アオが不安そうだよ。どうしたら信じてもらえるかな。
  (何人かが声をかけに行く)
 あんまり話し合いはうまくできずに,半分くらいの子は自分の作業に戻った。
何人
かの子が,「アオくんに信じてもらえたよ」と私に言ってきた。
アオの班はアオの気
持ちを聞き続けていた。すると,コバが小さな声で,私にこんなことを言ってきた。
コバ:あのね,先生。僕は馬鹿にしたつもりはなかったんだけど,いつかのアオの図工の作品を見て,僕が笑ったことが嫌だったんだって。
   だから謝ってきた。

私:そうか,そんなことがあったんだね。

 結局アオは「もし笑われたりしたら,はがす」と言いながらも,はることをオッケーしてくれた。

                                                                                             

  誰にも見せたくないと言っていたアオが「班の人には見せてもいい。」と言った。班が安心できる場となっているのである。なっちゃんを中心に,アオの思いを班がききと ってきた積み重ねの中で,信頼関係が生まれた。そして,西瓜先生はこの変化を学級に広げている。
 ここでも,なっちゃんはアオの思いを代弁し,アオと学級を繋いでいるのだ。

  駆の思いを受け止めるリン(西野実践)

  

(1)荒れていく駆
 その後も,駆の荒れた様子は続いていく。丸への執拗な攻撃に母親からの苦情の電話。三年生との観察池でのトラブル。どれも相手の故意ではない行動に対して,腹を立て,そのことで執拗に相手を攻撃し,そうしながら自分の感情を高め,何かストレスを発散しているように見える。どうしたものかと思いながら,学校は体育学習発表会の練習の時期に入っていった。私は新しい班をつくって,新しい人間関係をつくっていくことで,なんとかきっかけをつかめないかと思い,原案を提示し,取り組みを進めることにした。

   *冒頭の提案が、ここに入ります。
*
                                                                                              

(2)新しい班のスタート
 新しい班の班長に,リンが出てきた。初めての立候補であったが,最多の票を集めて当選をした。
 そのリンが,班長会で駆を自分の班に入れると宣言した。さらに周大を副班長に指名した。リンの方針は,「徹底的に駆にやさしくする。」であった。リンは周大と駆のトラブルの時も「周大がいらないことを言う。」と言っていた。駆の側に立とうとしているのだと思った。それにしても,周大を副班長に指名するとは。もめるもとになるのではないかと私も他の班長も心配したが,リンは大丈夫だと言い張った。そして新しい班はそのメンバーと他3人で決定された。班がスタートして間もなく,周大と駆のもめごとは始まった。副班長になった周大はいちいち駆を注意する。子ども同士の注意はダメだと言っているが,周大はしつこく駆を注意していた。周大と話をしてみると,周大は「リンのようなやり方では,駆は調子に乗って自分でやろうとしないから駆にとって良くないと思う。」と言った。私は「その気持ちはわかるが,今までそうしてきてもダメだったんだし,班長のリンが優しく接することを決めたのだから,副班長になった君もその考え方に沿ってやらないといけないの?」と周大に話した。周大は納得できない顔をしていたが,その後から,駆に対して優しく接しようと頑張っていた。翌日,周大に
私 「頑張ってるね。でも腹立つだろ?」
 と聞いてみた。
周大「そりゃあ立つよ。だってあいつ・・・」
私 「わかるわかる。まあこの方法がうまくいくかどうかわからんけど,今まで誰もしてないんだから,やってみればいいんじゃないん。リンにはうまくいかなくても,班長のリンが決めたんだから,先生は何にも文句は言わないからねって言ってあるよ。」                                                                                              

  新しい班をつくり,新しい関わりの中で,駆の思いをききたいと考えた西野の提案に 手を挙げたのは,リンだった。リンは「徹底的に駆にやさしくする。」という方針を立 てる。西野は,駆と周大がもめることが予想できたが,リンの思いを大切にした。そして,周大にもリンの思いを伝えた。駆,リン,周大,それぞれが関わりながら,安心空 間をつくっていく。

5,おわりに

 人との関わりが激減している世界で,他者を感じてほしいという思いを強く持ってい る。
 オンラインゲームでトラブルになる場面と対面でトラブルになる場面を比べると,やっぱり対面でやり合いたいと思う。相手の思いや願いが感じられるからだ。そして,それが解決の糸口を見つけることになるからだ。オンラインでは,ましてやアバターでは,相手を感じることができない。

     

  緩和されたとはいえ,コロナ禍でいつしか成長を止められ奪われてきた子どもたち。
  この2年余り,天真爛漫だったこの子たちからも本来の笑いが失われていたのではない。そういえば2年前の5年生に最初にしたことは,笑い袋の声を聴かせることだった。
 今のこの子たちには遅ればせながらギャングエイジの喜びをあらためて味わわせ, 同時に高学年としての誇りを感じさせることが必要ではないかと思う。居場所づくりから友だちづくり,そして生活づくりと歩みを進め,この1年間で何とか一人一 人の仲間の存在に気付き直させたいと考えている。元気なこの子たちに,関わる喜びをたくさん感じさせる1年にしたい。                                                                                                

  6月に開催したパワーアップ講座全体レポート(山口俊幸)の実践構想である。
   子どもたちの日常(つぶやき)から願いを聞き取り,広げ,活動内容を決める。実際  に行動し,願いを聞き取り,広げ,活動内容を決め直す。そして,行動し,願いを聞き  取り,広げ,活動内容を進化させる。これを繰り返すことを続けたい。
   緩やかでいい。幼くていい。アナログでいい。先を読まなくていい。安心して生活できる空間をみんなとつくっていきたい。

       文責  基調小委員会

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

大和久先生(生活指導研究所)から、メッセージが。


広島生研基調提案に学ぶ   2022.8  大和久勝

 広島生研大会にオンラインで参加させていただいた。

どうしても参加してみたいと思った理由は、1週間ほど前の全生研メールへの松井さんの発信だった。
「いまの学校は、どんな姿に見えているのだろうか。ある若い先生のつぶやきだ」として、短い文章が紹介されていた。
それを読んで共感したからだった。

 今の学校状況を鋭く指摘している。そして「子どもと教師も、自己責任と競争の中で生きている。
その中で生き延びるためには、学び続けるしかないのだと改めて思う」と言っている。その言葉にも共感したからだ。
特に「学び続ける」という教員の専門性への追及の大事さを、今こそ強調しなければならない時はないと思うからだ。
「学び続ける」という教職を持つものに課せられた研究・研修の権利と義務の観点に立つことの重要さに触れている。

 そして送られてきた「2022広生研大会基調提案」を、一気に読んだ。
 基調のテーマは、「互いの思いや願いをきき、信頼と安心を教室に」サブタイトルは~すべての子どもを主人公に~であった。
「きき」が「聴き」や「聞き」でなく「きき」なのか。読んで初めに気になった。
基調学習の中で質問させてもらい、意図を理解した。平仮名の「きく」は、「語らせる」を意味しているのだと猪野さんが言われた。
なるほどと納得。

 基調提案の内容は次の通り。
1,はじめに(ある若い先生のつぶやき)
2,画一化・効率化が進む教育
3,個別化・分断された子どもたち
4,個別化・分断化された教室を信頼と安心の教室へ
 (1)思いや願いを実現する活動の展開
 (2)信頼と安心を紡ぐ学び
 (3)思いや願いを聞き取られる「信頼と安心の教室」へ
5,おわりに

本文は、2の「画一化・効率化が進む教育」から始まっている。(1)子どもたち(2)教師たち、と分けて記述している。
はじめに、「人格の完成を目指しているはずの教育が、人材育成を目指すものにすり替えられて、学校は、大きく変容した」と指摘する。
明確な情勢分析に立って変容した学校の中にいる「子ども」と「教師」の姿を点描している。

「子どもたち」は、○○学校スタンダードや○○学校のきまりなどによって、号令のかけ方や持ち物まで管理されている。当番や係は、1人1役制。
責任の所在が明らかで指導が楽だとか。教師の身勝手から来るのだろう。
子どもたちは筆箱調べやはてな調べ(?)など、できているかできていないかをチェックする仕事を喜んでするという。
優越感に浸っている。なぜ、できていないのかと理由を考えたり、どうすればできるようになるのかなどを考えたりしない。
できて当たり前、できないのが悪いと刷り込まれていくという。こういう考えが、教師たちにあるからなのだろう。

そういう傾向にさらに拍車をかけているのが、コロナ感染症対策による学校生活・授業内容の規制。
さらにICT化の動きが前倒しになって、子どもたちは個別化され分断されて・・・と、情勢分析と実態分析が重なり合って、とても分かりやすい。

次に「教師たち」はどうか。働き方改革の中、業務の効率化の名の下、大切なものがそぎ落とされている。
会議や打ち合わせの時間短縮、一人一役の校務分掌、教師もまた個別化され、分断されて、学校教育に対する思いや願いを語り合い難い状況に陥っている。

子どもの学びも、教師の仕事も、画一化・効率化による個別化と分断が進行し、互いの思いや願いを聞き取り会いながら、主体的に行動する意欲が削がれてしまっている。こうした矛盾に目を向けるならば、ピンチはチャンスであるのだろう。学校づくりのポイントになるように思う。

 3は「個別化・分断された子どもたち」を取り上げている。画一化・効率化が進む中で、様々な子どもたちが存在している、という指摘である。
 この章では、「聞き取る」「聴き取る」などの記述が数多くある。「聴く」「聞く」「きき」という表現の違いに興味を持った。
 それぞれの言葉の意味あいは大事にしなければと思った。

 最後に、『だからこそ、個別化・分断された状況を越えて、「互いの思いや願いをきき、信頼と安心を教室に」広げていく必要がある』と結んでいる。
基調提案のテーマの由来であろう。

 4は「個別化・分断化された教室を信頼と安心の教室へ」という表題で、基調提案の主要なところとなる。
 まず、「思いや願いを実現する活動の展開」ということで、ひとつは「自分たちで決める」(当事者主権を軸として)
 二つ目は「思いや願いをともに実現していく価値に出会う」(班活動に焦点を当てている)生活班の意義(役割)を4つで示している。
 1と3は、安心して生活するための居場所の要件として、2は子ども同士が関わり合う活動、4は必要と要求でつくりだす学級生活と授業(学習)活動ということだが、「班づくり」「班活動」の課題について、現状をとらえながらよくまとめられている。

「学級分析と学級づくりの本格的なスタート」という当面目指すべき展望を語っている。「基礎集団としてのスタート」としているあたりは納得できる。
 集団づくりの見通しを持つことの大事さに触れている。「自治的集団の基礎集団としての班」を構築したいという強い思いが伝わる。

 三つめは、「思いや願いを聞きあう道筋を多様化する」とある。会社活動(学級内クラブとどう違うのか)を取り上げている。
 「学級は、子どもたちの要求をかなえるためのものであり、子ども活動を豊かにしていくものである。
そうであれば、会社だけでなく、スタンダードや学級のルールも、子どもたちが必要な活動を行っていくためのものであり、そのときそのときでつくりかえられていくべきものだといえる」と結んでいる。

 ここで、対立し合ったような二つの大きな提案に気づく。一つは「班生活」「班活動」を軸とした集団発展の構想である。
 もう一つは、アソシエーション活動を軸とした(基調では会社活動、全国的な実践傾向の中では「学級内クラブ」)集団発展の構想である。

 この二つの構想を、リンクさせていくことが求められているのではないか。
 集団状況や発達段階の問題も加味しながら、二つの構想をリンクさせていくことが出来ないものなのだろうか。

前者のような構想はイメージしにくい教員が多くなっている。
「基礎集団」というイメージは「自治的集団」というイメージ同様、分かりにくくなっていないだろうか。全生研会員の中でもそうである。
この点はぜひ分かりやすくしていってほしいと思う。

 後者の実践のイメージは持ちやすい。学級内クラブ実践は、全国大会の小学校実践のほとんどに展開されている。
子どもの思いや願いに沿いながら、子どもの必要と要求をもとにした学級づくりを進めることが出来ている。子どもの居場所づくりにも応えている。

 さて、そのベースに「班」や「班長会」「総会」はどのように位置づいているのだろうか。
さらに「班生活」「班活動」を軸とした集団発展の構想と、どのようにかみ合っているのだろうか。

基調討論の途中で、八木さんのコメントが目に入った。
 居場所づくりから自治へという段階論は違うのではないか。
居場所づくりが自治を求め、自治が居場所づくりを進化させる。・・・という双方向の回路を「見通して」実践を展開していく必要がある。

 なるほど、考えてみるべきことが見つかったように思えた。



  大和久先生。本当にありがとうございました。
 長時間の、ZOOMでの参加。そして、このようなメッセージ。
 コロナのため、対面ではできませんでしたが、県外からもたくさんの参加があったことは、良かったです。
 興味深い話し合いも、できました。
 広生研で一緒に学んでいた仲間が、久しぶりに参加してくれたり。
 感謝、感謝です。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・松井(広生研会長)

 

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 
『2021年広生研大会(オンライン) 基調提案』
   ↑クリック


第59回広生研大会(呉・安芸大会) 基調提案
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2019年8月3日、船越公民館

テーマ
「子どもの願いと出会い,共同の世界を広げよう」

1,はじめに
 第58回広生研大会基調では,「他者との出会いを通して子ども同士のつながりを創り出そう!」とテーマを設定し,次のように論じた。
「生徒指導規程を始め,学校にある様々な“スタンダード”は,教師と子どもの関係性,子どもたち同士の関係性を変えてきた。例えば,子どもたちの中において,いじられることで居場所を確保する『いじる-いじられる』関係性が見られたり,授業中,立ち歩いたり大声を出したり授業のじゃまをする子どもどもを排除の対象とする等である。
 そういった関係性から,子どもを主体者として育てていくつながりを学級集団の中に生み出す必要がある。」
 しかし,学校は,ますます画一化され,マニュアル化してきている。その中で,思考を停止している・させられている子ども・教師が増えている。いやもしかしたら,そのことにすら気がついていないのかもしれない。
 今の学校は,決められた枠組がすべてであるかのように運営され,一人一人が大切にされているようには見えない。
 枠組に従う子がよい子とされ,それに従わない子を決まりだからと従わせようとする。極端にはみ出すと特別扱いされ,排除される。「優しい無視」という言葉も聞いた。ここには,子ども一人一人の願いが何なのかは,意識されていない。
 今後も,学校のマニュアル化は進み,決められたことを言われたとおりにする子ども・教師が増えていくだろう。
 このような学校は,望ましいのだろうか。
ここには,子ども一人一人の願いが何なのかは,意識されたいない。
 このような学校では,子どもたちは主権者として育つことはできない。
 画一化・マニュアル化した学校で,子どもたち一人一人の声を聞くことから実践をスタートさせたい。そして,その子どもたちの願いに出会い,知ったとき,教師は,思考停止状態から脱却できるはずである。教師が思考停止状態から脱却すれば,子どもたちにとって居心地のよい学校を取り戻せるだろう。

2,学校の様子
(1)子どもたちの様子
 教室では,席に着いていられない,教室から飛び出す,かたまってしまう,学習に取り組めない等の姿が見られる。
 それは,経済優先の自己責任と新自由主義の蔓延で格差と貧困が広がった。また,少子化の影響で,他者との関わり乏しくなった。そのことにより,自己コントロールが苦手になったり,コミュニケーションの力が弱かったりしている。さらに,元々持っている発達の課題などがその背景にあると考えられる。
 そこへ,スタンダードによって,できるかできないかで評価されるため,ストレスをため,自己否定をしてしまう。できない自分がつらくなるのだ。その結果が,上のような状態を招く。さらに,トラブルが頻発したり,パニックになったりし,暴力行為に走ることにつながる。学校は,そういう子どもに対しては,スタンダードの対象から外して,解決を図る。また,感情を内面に押し込め,自己否定をする子は,学校に行き渋る。
 現在の学校は,こういう子どもが複数存在し,学級が落ち着かない。
 また,こういう状況の中で,学級の上位層に位置するために,「よい子」を演じている子どもたちが多く存在する。

(2)PDCAサイクル
現在,学校現場では,数値による評価・管理が進んでいる。学校評価など,様々なアンケートが実施され,校内や校外に数値が示される。当然,この数値をどう見るのかを示す考察つきである。
 例えば,学校評価では,知徳体の3つの観点から,学校目標を決め,具体的な方策が立てられる。そして,アンケートにより数値化され,達成したかどうかが問われる。達成されていない項目については,達成のための具体的な対応を求められ,PDCAサイクルの渦に巻き込まれていく。
 また,アセスなど,個人の状態から学級全体を分類し,指導に生かそうとする動きもある。これらも数値で学級の状態を位置づけ,数値を上げるためのプログラムが用意される。当然PDCAサイクルの渦に巻き込まれていく。
 PDCAサイクルでは,Cで出てきた課題に対して,Aで改善策が出され,次のサイクルに進む。ここで,改善されたAが提案され,次のサイクルへのPとなるのである。つまり,PDCAサイクルは,常に繰り返され,ゴールのない迷宮となってしまう。信頼の置けるかどうかはさておき,データに基づいた資料として,数値が示されるので,サイクルから,抜けられなくなってしまう。また,学校全体での取り組みになるため,スタンダードやマニュアルと結びつき,画一化がますます強まっていく。
 学校生活の基盤づくりとして,「当たり前のことを当たり前にできるようにしましょう。」と提案された。「当たり前のこと」とはどんなことなのだろうか。
 子どもたち一人一人は,性格も育ってきた環境もちがうわけであるから,その子にとっての「当たり前」は同じではないはずである。わたしたち教師もそれは同じである。
 そこで,集団生活を送るために,きまりが必要になってくるのである。つまり,きまりは,そこで生活する人がお互いの利益のために,必然的につくられていくものでなくてはいけないものである。
 しかし,実際は,どうだろうか。学校が決めた(一部の人たちの)「当たり前」が,スタンダードやマニュアルとして,押しつけられている。しかもそれは,「当たり前」のこととして表出されるので,できないことが許されないのである。その結果,適応できない子どもたちは,特別な子どもとして扱われてしまうこととなり,その子どもたちの声を聞く必然に気がつかない状態にさせられてしまう。
生徒指導においては,「毅然とした対応」の名のもとに,細かなチェックと指導がマニュアル化され,「例外なき指導」として行われる。マニュアル化された生徒指導は,子どもの権利を抑圧することも多々ある。子どもの困り感や願いに寄り添わないからである。
 授業においても,画一化の流れは強まる一方である。広島市では,めあての提示(板書する)・個人思考・集団思考・まとめという四過程の授業スタンダードが定着させられている。最近は,ふりかえりを加え,五過程といってもいいのかも知れない。
 すべての授業において,研究推進の名の下で枠(授業スタンダード)が決められているのであるから,教科の特性や単元の特性は,もちろん,子どもたちの実態も,考慮されなくなっているように思える。
 言葉を理解することが難しく学力が低い子は,個人思考の時間は,何をすればいいのか理解できず,ただ時間が過ぎるのを待つことになる。個人思考・集団思考・ペア学習など,厳密に運用すればするほど,つらい時間が増えていくことになる。
 また,このようにパターン化することで,子どもの必要性からかけ離れていき,話し合いも形骸化してしまう。
 さらに,「学習の基盤」「基礎学力」などと言いながら,細かな学習規律が押しつけられる。具体的には,授業始まりや終わりのあいさつの仕方に始まり,挙手の仕方,発表の仕方,ノートの取り方まで,例が示される。担任が代わっても,学年が上がっても,子どもたちが迷わないようにと全校で揃えることに意義を見いだしている。また,筆箱の形や道具箱・道具袋など,持ち物についても細かく規定されている学校もある。
 子どもたちは,勝手に決められたスタンダードに従うことで,よい子を演じさせられる。
 教師は,数値を上げることに縛られ,子どもたちは,スタンダードに縛られる。どちらも与えられたことをそつなくこなすことがよいとなってしまう。

3,実践課題
(1)子どもの行動から願いを見つける
 道徳の教科化や学校スタンダードで正しい行為行動として,決められた一つの価値だけが押しつけられることは,行為行動の裏にある子どもの願いを無視してしまうこととなり,そこから子どもたちの思考停止を招き,子どもたちの発達に悪影響を及ぼすことになる。
 奈々は,元気いっぱいで体育に参加する。運動能力も高くいつも活躍している。ドッジボールが大好きなのだが,特別ルールを付け加えると「おもんない。」と機嫌が悪くなる。少し時間が経過するといつもの奈々に戻るのだった。
 特別ルールは,苦手な子のためにつくられることが多いため,周りの子どもたちは奈々を,自分が活躍できないことへの不満だと誤解してしまう。
奈々の行動をスタンダードに照らして,正しくない行動と位置づけたり,きまりだから従えとせまったりしてしまうとどうなるのだろうか。当然,奈々の願いや困り感にはたどり着けないだろう。
 実際に,奈々は,いつもと違うルールがすぐに理解できず,混乱していたのである。「おもんない。」は,「ルールがよくわからない。ちゃんと教えてくれ。」という要求だったのだ。
 このように,子どもたちの行為行動のなぜを問うことで,子どもたちの願いと出会い,子どもたちの成長につなげていくことができる。

(2)願いを共有する
 スタンダードやルールは,必要ないということではなく,子どもたちにとって必要なものを子どもたちといっしょにつくっていくことが大切であり,求められる。しかし,現実は,子ども不在の状態で押しつけられている。
 今の押しつけられたスタンダードやルールから脱却していくためには,子どもたち一人一人の願いを顕在化させ,子どもたちにとって価値あるものにしていくことが求められる。
つまり,学級の中にあるさまざまな願いを聴き取り,要求とするよう励ます。学級の中に合意を創り出すことを大切にしなければいけない。
 班替えの提案を行った。男女それぞれ2人組をつくり,合体するやり方とくじ引きで行うやり方の意見があった。くじ引きに賛成の子どもたちは,「早く決まる」ということを全面に打ち出した。圧倒的多数であった。2人組にこだわったのは,愛と沙羅だった。「班の目標達成のためには,じっくり考えた方がよい。」「これから1か月いっしょに過ごすのだから自分で選びたい。」などと繰り返した。愛は,班のリーダーとなって活動していきたいという願いがあり,沙羅は,安心して話せる人といっしょになりたいという願いが見えた。話し合いをする中で,くじ引きで行うが,1週間のお試し期間を設けるという条件付きでまとまった。お試し期間の後,うまくいかない班が複数でき,話し合いの結果,愛と沙羅の案で班づくりをした。

(3)願いを学級のルールに
 トラブルが起きたとき,学級全員で話し合うことは大切だ。「必ずわけがある。」というスタンスで話し合いを進め,自分も同じような気持ちになることがあると共感的に理解する。それが,「マイナスの中にプラスを見つける」ことにつながる。
 トラブルを起こす子をできない子として,批難したり,排除したりするのではなくみんなができるようにするためには,どうすればいいのかを追求したい。そこには,学級の課題が存在しているからだ。
 子どもたちが主体的に活動するためには,自分たちの問題を自分たちで解決していくことが必要である。
 学校生活に適応させるのではなく,子どもたちの要求を引き出し,活動を仕組み,実現していく。つまり,トラブルが起きたとき,話し合って自分たちのためのルールをつくり,解決していく経験こそが,子どもたちが主体的に活動する力になる。そして,子どもたちの関係をも深めていくことにつながる。
 
4,実践から学ぶ
実際に,実践課題に即して,3つの実践場面を取り上げた。

(1)T田実践(4年生)~視点を変えることで,本来の願いを共有する
 ある日の大休憩の後,数名の女子がドッジボールでの出来事で不満を言ってきたので学級で話をすることにする。
 T「大休憩に何があったん?」
女子「全然ボールが投げれん。ゆずってくれん。」
男子「だって女子は後ろにいたり,立っているだけだったりするじゃん。」
女子「男子が前におるけ~前にいけんのよ。」
男子「○○は前におるで。」
  なかなか前に進まない話となっていたので
 T「ドッジボールの楽しみって何?」と問いかけた。
ある男子「ボールを取って,ボールを投げて,相手に当てること。」
 T「そうなん?」
 C「そう!!」自信満々に言い切る子ども達。
 T「逃げることって楽しみにならんの?逃げ切って生き残って勝つのって意外と難しいことだよ。逃げるのも技術がいるし,それで生き残った人ってすごくない?」
C「あっ!!確かに!!」 → 初めて知ったような顔つきとなっていた。
 最後にドッジボールの目的を聞いた。結局はこの目的が大切なのだと思う。
 T「みんなは何のためにドッジボールをやっているの?」
 C「みんなと楽しむため,みんなとの仲を深めるため。」 その日の昼休憩にはほとんど全員の子どもが一斉に外へ出てドッジボールをしていた。帰ってきた子ども達はとても満足そうな笑顔汗びっしょりの顔で帰ってきた。
 第一声が「なんかすごく楽しかった。みんなパスもゆずってくれた。」
 「俺,何回もゆずったよ。」と今まで周りが見えず自分が取ったボールは自分が投げたいと常々思っていたM君からそういう声が出たのがとても嬉しく思った。そして,「逃げ切ったよ!」という女子。
 子どもに違う視点の価値を与えていくことで喜びや楽しみは広がっていくような感じがした。 ドッジボールをめぐり,男子と女子が対立した。T田は,「暴力ではない解決方法は『対話』であると考えている。」とレポートに記してある。その通りだと思う。
よくある実践として,女子の「全然ボールが投げれん。ゆずってくれん。」という声を取り上げ,女子にボールを渡す(回す)ことをドッジボールのルールにする。というのがある。
 しかし,T田は,「逃げることって楽しみにならんの?逃げ切って生き残って勝つのって意外と難しいことだよ。逃げるのも技術がいるし,それで生き残った人ってすごくない?」と問いかけることで,ボールをとって投げるだけではない,ドッジボールの楽しみ方に目を向けさせ,子どもたちの視点を変えた。
 そして,「みんなは何のためにドッジボールをやっているの?」と問いかけ,「みんなと楽しむため,みんなとの仲を深めるため。」とドッジボールをする本来の願いを子どもたちから引き出した。
 子どもたちは,多様な楽しみ方・参加の仕方を認め,満足した笑顔で教室に帰ってくるのだった。「ドッジボールを楽しむ」という願いを共有することができ,共有することで,男女の対立を乗り越えた。
 このように,視点を変える実践は対立を乗り越えたりトラブルを解決する場面で重要である。

(2)ひぃちゃん実践(6年生)~願いを開くことでトラブルを乗り越えていく
 毎日,帰りの会に振り返りジャーナル(振りジャ)を書かせている。振り返りジャーナルは,その日の振り返りを書かせるものである。相談があればそれも書いてね,と伝えている。ある日,Mさんがこんなことを書いた。相談ごと
今日音楽に行くとき,TくんとKくんが目を合わせてにやにやしていました。家庭科の時も。音楽の時間にせきで呼び合って笑っています。先生がいない間,ずっとにやけている。注意するけどやめません。見ているこっちがイライラする。
 TくんとKくんが授業中,目くばせをしてにやにやする様子は,以前から気になっていた。何度かそのことを注意したこともあったが,なかなかにやにやはなくならなかった。1つ嬉しかったことは,MさんとTくん,Kくんは同じサッカーチームでとても仲がいいこと。仲がいい友達だからこそ,見過ごすのではなく,「Tくん,Kくんのために,クラスの為にどうにかしたい。」というMさんの気持ちが嬉しかった。学級代表に話を持ち掛けると,大きくうなずいて,話し合いましょうと言ってくれた。
 学級会が始まると,Mさんは手を挙げた。

中略

 学級代表が「この件で今自分が思っていることを言ってください。」と投げかけると,子どもたちはそれぞれが感じていることを話し始めた。

中略

厳しい意見もあったが,「2人はがんばっているのに目くばせをしたらもったいない」という意見が出たのもうれしかった。

 学級代表が「そのことで2人の意見を聞かせてください」というと,2人は,口をそろえて,「もうしません。」と言い,どうやったら目くばせがなくなるか,という話し合いが始まってしまった。思わず,口をはさんだ。「すごく大切なことをNさんが聞いてくれたよ。大切なのは,どうやったらなくせるか,ではなく,なんで目くばせをしてしまうのか。ということ。先生も二人の気持ちが知りたいな。」と話をした。
 2人は「5年生の時もしとって,またおもしろくてやってしまった。」「5年のころもやっとって,6年でもやってしまった。」と言った。
 6年になって,何度か私が注意をして,Kくんは,「目くばせをしないようにしたい」と書いていた。私は,「2人は,このままじゃいけない,変わりたいって思っとるんよ。だけど,またしてしまった。くせになっとるんよねえ。くせってさ,だれにだってあるじゃん。無意識にしてしまうこと。先生もすぐに靴を脱いでしまう。(たくさんの子どもが大きくうなづいた。)これをどうにかしていくのは,2人だけの問題じゃないと思うな。みんなで,この問題を乗り越えんといけんと思うんよね。」これからどうしていくか話し合いの続きが行われ,みんなで声を掛け合いながら,1週間様子を見てみることになった。
「MさんのTくん,Kくんのため,クラスの為に話し合いたいっていう思いもうれしかったし,みんながどうにかしようと話し合う姿もうれしかったです。きっと2人にみんなの思いが伝わっていると思うよ。」と話をして学級会が終わった。

その日の振りジャには,学級会のことを書いた子どもが多くいた。<相談を最初にしてくれたMさん>
 今日は,TくんとKくんのことについて話し合いました。私が相談したことを話しました。Tくんたちのために言ったから,とどいてほしいです。Tくんとは仲がいいので,言ってしまったら友達の仲がこわれるかなと思っててがまんしてきたけど,言った方がいいなと思い言いました。友達の仲がこわれそうでも覚悟はできていました。みんなで話し合ったから,とどいてほしいです。省略 ひぃちゃん学級は,トラブルの度に学級会が開かれ,話し合いでトラブルを乗り越えてきている。
 Mさんが友だちの気になる行動を学級の問題として提起し,学級代表が議題として取り上げる。学級が主体的で民主的な成長をしていることがうかがえる。Mさんは,Tくんと友だちであり,スルーする選択肢もあるはずであるが,悩んだ結果,相談することを選んだ。学級内の問題を指摘し,解決することを「この学級のみんななら,できる」と考えたからであろう。ここに,話し合いでトラブルを乗り越えてきた体験が生きている。
 また,ひぃちゃん先生は,レポートの中で,思わず,口をはさんだ。
「すごく大切なことをNさんが聞いてくれたよ。大切なのは,どうやったらなくせるか,ではなく,なんで目くばせをしてしまうのか。という
こと。先生も二人の気持ちが知りたいな。」と話をした。
とある。日頃から,行為行動のうらにある願いを問うことを大切にしてきていることがわかる。

(3)えんあんごんし実践(1年生)~願いを引き出すことで子どもたちをつなぐ
 11月から学級内クラブ風なことを始めてみることにした。行事が終わり少し心に余裕ができたこと。10月頃からひびきがクラスの友達と鬼ごっこをして遊ぶことが増えてきていたこと。友達関係で数名気になる子がいたこと。クラスの中で,ひびきへの見方が少しずつかわってきていたこと。これらを踏まえて,担任とひびきだった関係からもっとみんなとひびきについて考えていけたらと思った。提案としては,楽しいことをして,もっともっと仲良くなろうと始めた。ひびきたちは,鬼ごっこ会社をつくった。そして社長はひびき。どんな様子か見に行くと早速もめていた。ひびきはのぼり棒の上一人ぷんぷん怒っていた。聞いて見ると,社長として,ひびきは変わり鬼をしたかったが,みんながいうことを聞いてくれずに怒っていた。ひびきの中で社長だからえらい。社長だからみんなが言うことを聞いてくれると思っていた。
 ひびきと,ちがうおにごを始めていたメンバーを呼び,話をした。
まず,ひびちゃんの思いを聞いた。
T  「ひびちゃんはなんで怒ってたん?」
ひびき 「ひびきは変わり鬼がしたいねん!だから社長やからみんなに変わり鬼しようっていうのに,みんな聞いてくれんねん。だからひびきいややねん!もうひびきおにご会社辞める!」
T  「まあちょっと待って!ひびちゃんは変わり鬼がしたかってんな!でもみんなが聞いてくれへんくて怒ってるけど,みんなの意見も聞いてみよう。」
ひびき 「もういややし・・・。」
T  「どうなってこうなったん?」
C  「あんな,おにご会社やからみんなでおにごしにきてん,ほんでわんぱく山の上で鬼決めててんけど,ひびちゃんばっかり決めんねん。」
T  「どういうこと?」
ゆうり 「ゆうりはな増え鬼がいいのにひびちゃんばっかり決めんねん。」
T  「みんなしたいおにごがちがったん?」
C  「そう!氷鬼したい人もおったし」
T  「それでひびちゃんだけが決めるんがいややったんか」
C  「そう!」
T  「じゃあどうする?みんなそれぞれしたいおにごするか!そしたらけんかせ     んでいいんちゃうん?」
C  「そしたらおにご会社の意味ないやん」
T  「みんなで絶対いっしょにせなあかんの」
C  「そうでもないけど・・」
C  「一緒の会社やもん」
C  「別れたら人数少なくなるやん」
T  「そうか,別れた人数少なくなるな。じゃあみんなで変わり鬼したら?」
C  「でも,こおり鬼したいもん」
T  「そうか~どうする?一個に決めれる?社長が決める?」
C  「でもそれやったらひびちゃんばっかり決めるやん!自分たちがやりたいのはできんやん」
T  「じゃあどうする?」
はるの 「順番にやったら?」
T   「どういうこと?」
はるの 「みんながやりたいやつ順番にやっていくねん。そしたらどう?」
T   「なるほどね!みんなはどう?」
C   「まあそれなら」
T   「ひびちゃんは?」
ひびき 「それならひびきもいいで」
T   「じゃあ今日はどうする?」
C   「じゃあ今日はひびちゃんのしよ!明日はこおりな!」
C   「その次増えな!」
 ひびちゃんには,社長やから自分の思い通りにするんじゃなくて,社長やからこそ,みんなの気持ちを聞けたらいいね!と伝えた。 えんあんさんは,入学当初から,ひびちゃんの声を聞くことを大切にしてきた。レポートには,「ひびきのことを困った子と見ないようにしよう」「ひびきのいい面をみんなに伝えよう」と考えていたとある。
 4月当初からのひびきの行動に対して「どうしたん?」「どうしたいん?」と声を掛け続けていった。
おにご会社での対話でも,えんあんさんは聞き役に徹し,ひびちゃんやゆうりちゃんの願いを引き出している。さらに,「じゃあどうする?みんなそれぞれしたいおにごするか!そしたらけんかせんでいいんちゃうん?」と揺さぶりをかける。子どもたちが主体となって対話を続けていくことができたのは,えんあんさんが,行動を提示するよりも願いを聞くことを優先しているからだ。
 だから,ひびちゃんも納得して,おにごに参加できるのだ。

5,終わりに
育てるべき力は,多様な人々と共同する力やコミュニケーションの力であるはずなのに,学校は,画一化され,多様性に対応できない。
 「トラブルを起こす子」「指導を受け入れない子」は,排除の対象とされ,できないあなたが悪いと自己責任論を振りかざし,処罰される。子どもたちは,その中で自分の思いを押し込め,よい子を演じてしまう。
 我々は,こうした子どもたちの願いを見つけ,それを声にしていくことを実現していきたい。学校をつくっていくのは,子どもたちなのだから。



 <トップにもどる>


第58回広生研大会(安佐大会) 基調提案
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2018年8月24日、祇園公民館

テーマ

『他者との出会いを通して子どもたち同士のつながりを創り出そう!』


広生研基調小委員会

Ⅰ はじめに
 
 昨年の大会テーマは「子どもと教師の自由と幸せを広げる学級・学校を目指して~グ
 ループ活動を仕組んで~」であった。
 そして,実践課題として次の3点をあげた。
 (1)自立とは,相互に依存すること
 (2)意味ある活動を仕組む
 (3)話し合いをさせよう
 また,実践課題の解決の道筋として次のようにまとめている。
  ・自己責任や説明責任の名で分断されてしまっている状況から人に依存してよい,ヘ
   ルプを出してよい。 
  ・グループ活動で起こる矛盾や対立を自治的に解決する。
  ・自治的に解決するためには話し合いが必要。個人の要求を学級で共有し,合意形成
   する。
 私たちは,このテーマに即しながら一年間実践してきた。
 さて,今回の大会のテーマの設定に関わって次のように考えている。
 生徒指導規程を始め,学校にある様々な“スタンダード”は,教師と子どもの関係性,子ど
もたち同士の関係性を変えてきた。例えば,子どもたちの中において,いじられることで居場
所を確保する「いじる-いじられる」関係性が見られたり,授業中,立ち歩いたり大声を出した
り授業のじゃまをする子どもどもを排除の対象とする等である。
 そういった関係性から,子どもを主体者として育てていくつながりを学級集団の中に生み出す
必要がある。その指導を考えていきたい。
 また,学習指導要領が改訂され,今年度から小学校で移行措置が始まった。中でも道徳の
授業がどんな表れになっているのか,交流してみたい。


Ⅱ 今の,子どもの特徴的な様子

(1)小学生の場合
 中学年の状況を取り上げてみる。この時期は少年期ともよばれ,「9・10歳の発達の節目」の
時期である。この時期は「係活動や学級内クラブ活動などの多様な活動を通して自己や他者へ
の多面的な理解が育まれていく時期」(注1)である。そして,自己や他者へ一面的でない見方が
できるようになる。しかし,それが困難な子ども達がいる。具体例を挙げる。
 3年生の奈々は,外遊びが大好きで,いろいろなことに興味を示すが,できなかったり,思い通り
にならないとまわりに当たる。常に,おしゃべりをし,注目を集めようとしている。好き嫌いがはっき
りしており,嫌いな子には,何かとちょっかいを出す。
 3年生の藤夫は,思ったことがすべて言葉になる。欠席者がいると「やった~。牛乳が飲める。」
挙手して指名しないと「何で当てんのん。」と大きな声で「ハイハイ,ハ~イ。」と「黙って手を挙げます。」
と言うと「死ね。じじい。」と呟く。相手の気持ちはまだ考えられないのである。友だちとトラブルになり,
1対1で話をすると「もういい。ほっといてくれ。」とめんどくさがる。
 菜々のまわりに当たる行為や藤夫の1対1で話をしようとしてもめんどくさがる行為には様々な要因
が考えられるが,その一つに自他への多面的な理解が育っていないことがある。また,自己肯定感
が低く,自信のなさが表れる。そのため,できることや好きなことには執着し,他の子が自分より目立
つと機嫌が悪くなる。

(2)中学生の場合
 いじめにより中学生が自ら命を絶つ事件が断続的に伝えられている。
 様々なトラブルや出来事が重なりあい,深刻ないじめとなり最悪の結果になったものと思われる。
最悪の結果には至らなかったものの,根深いいじめや不登校,解決の目途が立たないトラブルは
頻繁に起こっている。
 今,子どもたちの関係性はどうなっているのだろうか?
 少し前までは,友達との会話や手紙の中でのうわさや悪口がいじめのきっかけになることが多かっ
た。今一番多いのはSNS上でのやりとりからいじめが水面下で広がるケースだ。その広がりの速さと
関係者の数の多さは以前とは比べものにならない。SNS上では,いとも簡単な操作でいじめに参加
することができ,いじめのハードルは以前より低くなり,ターゲットを孤立させる速さと広がりが私たち
の想定を超えている。ターゲットとなった子どもは見えない多数の者から傷つけられ,深刻なダメージ
を受ける。このような関係性の中で中学生は生活をしている。

【注】
(1)全生研第57回大会基調報告からの引用。大会紀要21頁下段。
 なお,発達とその課題や指導については次のような参考図書がある。
 楠凡之『いじめと児童虐待の臨床教育学』(ミネルヴァ書房,2002年)
 楠凡之『自閉症スペクトラム障害の子どもへの発達援助と学級づくり』(高文研,2012年)等。


Ⅲ 子どもたちを取り巻く教育の状況

(1)エビデンスに基づくPDCAサイクルの徹底
 P(プラン)D(ドゥー)C(チェック)A(アクション)サイクルは企業の品質管理の手法として早くから
導入されていた。このビジネスモデルによる学校経営は経営効率重視の学校運営として,今では
当たり前になっている。経営効率重視とは「『投資に見合うリターン』重視であり,『役に立ってなん
ぼ』ですべての価値をみる考え方」(注1)であり,教員の業績(自己)評価に直結している。それが,
この数年来,さらに強化されている。それは説明責任のさらなる重視であり,そのためのエビデンス
(事実を裏付けるもの)が何よりも優先される。
 そのために,学校評価アンケート・努力事項のアンケート・生活アンケートなど,様々なアンケート
を実施し,その結果を受け,改善策が検討され,実施される。
 数値に表れるものが大切にされ,数値の変動に振り回されることになってしまっている。学力テスト
における過度の過去問の強要だけでなく,あいさつや清掃活動など,行動面もアンケートで数値化
される。また,いじめ問題でも報告数が全国平均より少ないということで数値の見直しをするようにと
管理職から指導されたという報告も聞いている。
PDCAは,その行為のサイクルのみが優先され,数値目標を掲げ,それが達成されたかどうか,また
その数値を達成させる取り組みが問題となる。子どもとの対話や子どもの揺れにどう寄り添ったかは
問われない。PDCAサイクルの学校運営は,教師に有無を言わせずに上からの指示命令を効率よく
達成させていくために教師や子どもたちを統制していくものである。
それに対抗する実践構想として,折出は先に行われた広生研フロンティア学習会での講座で仮説的
にとしながら,次のように提案(注2)した。
Design(デザイン) 授業でも教科外活動でも,一定の活動単位で,全体の構想と到達の目標を描き
出す。

Practice(実践) デザインを核としながらも実際に行動して子どもたちの活動や応答を受け止め,働
きかけ・働きかけられる関係を原理とし展開していく。

Reflection(振り返り) 実践の過程で生じたことを受け止め,どのような指導がどのような子どもたち
の反応を生み出したかを振り返り,その意味づけや価値づけを行う。

Study(学習) 授業での発問・助言の検証,教科外では子どもたちの参加をより引き出す活動内容
構成について同僚や仲間の見方も交えて,学習する。   「プラン」ではなく「デザイン」としている。
「プラン」は学校経営目標に則って立てるが,「デザイン」ではそうではなく,教師の自主性が生かされ
る。また,「実践」では子どもの実態を受け止め,その受け止めた実態からデザインを描き直すことを
含んでいる。子どもとの相互の信頼関係の上に成立するものである。そして,「振り返り」は総括である。
 PDCAサイクルにはない「学習」が折出提案にはある。子どもの関係性がどう変わったのか,子どもの
行為・行動がどう変わっていったのか,学習する。そして,学んだことを次に生かしていく。
 PDCAサイクルに対して,私たちがこれまで大事にしてきた実践のサイクルを再確認し,対置していこ
うと提案している。

(2)道徳科が始まって
 本年度より,新学習指導要領の移行措置により「特別の教科 道徳」(以下道徳科)が始まった。検定
教科書の内容,評価の仕方など様々な課題が考えられる。
 2017年に告示された小学校学指導要領・道徳科の目標の冒頭に,「第1章総則の第1の2の(2)に示す
道徳教育の目標に基づき,・・・」とある。そこで,総則から該当部分を見ると,道徳教育の目標は「道徳
教育は・・・・・・自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく
生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とする」とある。さらに,小学校学習指導要領解説・第2節
道徳科の目標に,「特定の価値観を児童に押し付けたり,主体性を持たずに言われるままに行動するよう
指導したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。多様な価値観
の,時に対立がある場合を含めて,自立した個人として,また,国家・社会の形成者としてよりよく生きるた
めに道徳的価値に向き合い,いかに生きるべきかを自ら考え続ける姿勢こそ道徳教育が求めるものである。」
と書かれている部分もある。
 上記の解説書「特定の価値観を児童に押し付けたり,主体性を持たずに言われるままに行動するよう指
導したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。」のところは教材
に対する子どもの自由な意見表明を保障していると読める。
 しかし,同じ解説書に「学校教育においては,・・・・・・児童一人一人が道徳的価値観を形成する上で必要
なものを内容項目として取り上げている。」とあり,この内容項目(いわゆる徳目)をすべて扱わなければな
らない縛りがかけられている。道徳の教科書はすべての内容項目が網羅されている。つまり,教師は教科
書に示されている,徳目に沿った道徳的価値を子どもたちに教え込むことになる。
 実際の例を示してみる。
 6年生の教材「星野君の二塁打」がある。
 バントを命じられたときやその指示に反して二塁打を打ち選手権大会出場が決まった時の星野くんの気
持ちを子どもたちはよく考え自由闊達に意見を出す。翌日になり星野くんは監督から出場禁止を申し渡さ
れる。その時の星野くんの気持ちに共感したり批判したりする意見が子どもたちから次々と出る。みんなの
論議の中で意見が変わることはあることは当然ある。
 この教材を通した授業のねらい(徳目のねらい)は「自分の立場を理解し,責任を果たそうとする態度」を
養うことである。論議の最後まで,星野くんが2塁打を打った行為とその時の気持ちに共感する子どもたち
もいる。しかし,教師が徳目のねらいに沿った授業のまとめをした瞬間,その子どもたちの思いは否定され
る。この教材を通して「約束や役割を守る」ことを学習(押しつけられる)する。
 このような授業を積み重ねていくに従い,子どもたちは徳目に沿った意見,教師受けしそうな意見を出す
ようにならないだろうか。
 教科書,教師用指導書,教科書に付いているワークシートどおりに授業を進めると,学習指導要領解説に
書かれている「特定の価値観を児童に押し付けたり,主体性を持たずに言われるままに行動するよう指導
したりすることは,道徳教育の目指す方向の対極にあるものと言わなければならない。」に相反することに
なってしまう。
 学習展開を少し見直し,学校生活や集団生活での約束や役割はみんなで決めてみんなで守ること,みん
なで決めたことを実際にやってみてみんなで見直すことこそが大切であることを教えることはできないだろうか。
 私たちが実践する生活指導・集団づくりは,内心の自由なくして成立しない。この視点からも私たち自身が
主体的に実践をつくり出す必要に迫られている。

【注】
(1)広生研フロンティア学習会(2018.2.17)での折出健二先生のレジュメによる。
(2)同上


Ⅳ 私たちの実践課題と実践課題に迫る視点
 
(1)学校スタンダードの両義性
 生徒指導規程を始め,学校には様々な“スタンダード”がある。そして,このスタンダードには、相反する
二つの解釈が含まれている。
 例えば,「ロッカーの整理整頓をする」というスタンダードがあったとしよう。
 一人ではなかなかロッカーを整理できない子どもと一緒になって教師は整理整頓をし,その子にいろいろ
話しかける。そのことによって,その子の背景や思いを知っていく。スタンダードを使って,その子との出会い
をつくったり,会話の糸口をつくることができる。この場合,スタンダードを“手段”として使っている。
 他方,スタンダードを子どもに守らせることが第一義であり,“目的”としてのスタンダートである。
 この場合,私たち教師に「安心感」を与えてくれる。なぜなら,スタンダードは学校が決めた規範であり,学
校での「正義」だからである。このスタンダードに則って子どもを「指導」することは正しく,周りの教師達と同
一歩調をとれるからである。
 しかし,目的化した学校スタンダードは徹底した分断と自己責任の世界である。この学校スタンダードの求
めている子ども像は次のように言える。
①ひとりで何でもできる“強い”子ども
②集団の中での自分の役割を自覚しその責務を果たせる子ども
③周りの子どもたちとトラブルを起こさない調整能力を持った子ども
 そして,そのような子どもたちを“見栄えの良い”学級,学校の支えと評価している。

(2)いじめの関係性
 中学生の子どもたちの様子で取り上げたいじめについて述べたい。
 いじめに同調している子どもたちは,いつ自分が攻撃され孤立させられるか常に不安を感じながら細心の
気遣いで応答している。そして,教室の中ではあえて明るく振る舞い,いじめる側の仲間であることを演じる。
一方,教室の片隅では,いじめを横目で見ながら目立たず関わらず巻き込まれないように過ごす子どもたち
がいる。いずれの子どもたちも,いつ自分がターゲットになるのだろうかと疑心暗鬼を抱きながら過ごしている。
 子どもたちの間に「傷つけ,傷つけられる」関係性とそれを見ながら「関わらないようにする」関係性が混在
している。
 
(3)子どもたち同士のつながり~実践課題に迫る視点
 子どもたちの関係性を恢復していく柱は,相互承認の関係性を積み上げていくことである。具体的には,行
事や日常の出来事を取り上げ,さまざまな思いや本当の願いを掘り起こし,子どもたちの姿を共有し承認し
あう経験を積み上げていくことである。
 そのために,他者(自己ではないもの,異質なもの,自己にとって関わりのあるもの,自己にとってある意味
のある存在)との出会いが最も決定的になる。その他者が信頼できる他者であり,子どもたちが相互に信頼的
他者になることによって,子どもたち同士が真の「つながり」を創り出せる。
 では,このような実践課題に迫る視点は何か。
①どんな子どもであっても,成長したいという願いを持った子どもと見る。
②トラブルが起こったときに,起こったわけが必ずあると見る。なぜ起こったのかという 視点で子どもたちを
見ていく。
③トラブルがなぜ起こったのか,そのわけをみんなで考える。そのことによって,考えの 多様性(いろいろな
見方がある)を学んでいく。
④子ども達自身でつながりを創り出し,広げていく指導構想を持つ。


Ⅴ 実践から学ぶ
     ーK実践「トラブルを通して子どもたちをつなぐ」(4年生の実践)よりー
 (この章では,K先生のレポートを引用した部分を斜体・太字で表記する。)
 実践課題に迫る視点に即しながら,K実践から学んでいこう。

(1)どの子も排除しないという決意
 4月から,暴力・暴言で,トラブル続きだったA。理由がないのに暴力をふるうことはないということは分かって
いたけど,その「理由」がなかなか分からず,2ヶ月くらいまともに授業ができない状態が続いていた。

 なぜ,K先生はトラブルを頻発させるAを指導の中心に据えるのか。それは,決して周りの子どもたちや教師に
とって「困った子」だからではない。「トラブルメーカー」を「チャンスメーカー」と見ているからである。その見方に
よって,同じような課題を抱える子どもへのエンパワーメントにもなり,また,課題の大きい子どもへの見方が「困っ
た子」から,トラブルの原因のために「困っている子」と変わる。そうすると,その子を仲間と見て放っておけなくなる。
周りの子どもたちが変わるのである。そのキーマンがAである。このような指導構想を持ち,実践している。
 しかし,学校スタンダードの求めているのは,Aに対してトラブルを起こさないようにすることだ。大きな秩序の中
に埋没させる,できなければ排除する。
 K先生は「理由がないのに暴力をふるうことはない」という信念,つまり,どの子も排除しないという決意で実践を
スタートしている。

(2)Aへの理解を深める
 「分かりにくいAのしんどさ」とレポートにある。そのためにいじわるなAと誤解されている。
 10月,運動会のソーランの練習の際に起こったトラブルを見てみよう。

 ソーランの練習中。たて割り班の3・4年で教え合っていた時,同じグループのSになにやらこしょこしょと耳打ちして,
にやにや笑っていると思ったら,3年生のちくちさんという女の子に,ちくわがどうのこうのと言ったらしく,ちくちさんが
泣いてしまった。
O先生に聞かれ,Aは「わざとじゃない。悪口じゃない。」と言ったが,O先生に「この状況で『ちくわが…』って言ったら,
からかわれたって思っても仕方ないじゃろう。」とたしなめられる。
 クラスの子どもたちも,なんでAは3年生の子にいじわるするのかなあと思っていたのだが,その日の給食の時間に
なり,私もAのことがよくわかっている子どもたちも「あー!!これか!」と思わず叫んでしまった。その日の給食のおか
ずはちくわだった。
 いろんなことにアンテナをはっているA。人も物もよく見ている。もちろん毎日の給食もチェック済み。ちくちさんの名前
も知っている(体操服にも書いてある)ので,ふと,給食がちくわだったことが頭に浮かび,ちくわとちくちさんがつながり,
おもしろくなったらしい。

 Aはちくちさんを泣かせたことを「わざとじゃない」と言っている。クラスの子どもたちも(K先生も)そのわけが分からな
かった。しかし,給食時間になってそのわけが分かった。どの子も排除しないという決意で4月から実践がスタートして
6か月余り。おもしろいことが頭に浮かぶと頭から離れなくなり笑っちゃいけんと思っても笑ってしまうAのことが「やっと
分かってきた気がする」のである。
 K先生はAと「権威的な言葉」(注1)ではなく「対話的な言葉」(注2)によるやりとりの積み重ねにより,K先生はAと出
会う。Aを理解していく。理解というよりも,知っていくといった方がいいかもしれない。そして,AはK先生を信頼的他者と
見るようになり,またK先生もAが無くてはならない存在になってきている。レポートからそのことが分かる。

 10月。ソーランの練習前。「赤白帽子がない。どうしたらいい?」ときくA。➡4月当初,困っていることが伝えられず
暴力につながっていた。だんだんと,自分から「どうしたらいい?」と聞きに来ることが増えてきた。

 授業後,O先生に「なぜやらなかったのか。」と問われ,だまるA。➡いろいろな思いが交錯しているので,言葉にする
までに時間がかかることは,今ならとてもよく分かる。

 K先生を信頼しているから相談に来る,また,黙っているのは反抗ではなく言葉にするまでに,Aは時間がかかること
を分かっている。
 「対話的な言葉」の積み重ねによりAの理解が深まっていくのである。

(3)みんなの問題へ
 教室で,「今日の体育はどうだった?」とみんなに聞くと,「Aがおこられてどうしたらいいかわからなかった。」「ソーランが
苦手だけど最近がんばっていたのに,今日はどうしたんだろう?」「見学していたゆうきにこしょこしょ話しかけてゆうきも迷
惑そうだった。」 ゆうきも「Rはデブいから足が遅いんかねとか悪口を言ってきて嫌だった」と言っていた。
 「でも,Aだけじゃなく,みんな今日はだらけていたと思う。」「うん。いい雰囲気を作れなかった。」「みんながちゃんとしてい
たらAもふざけなかったかもしれない。」…男子からも女子からもそんな声が聞こえ,「みんなAのことを心配していたんだ。
Aにも一生懸命練習してほしいとみんなが思っていたんだ。」ということを感じていた時,Aがちょっと照れ臭そうに,でも,ふ
らーっと教室に入ってきて,自分の席に行った。
 「だまって帰ってくるんですか?」と言うと,いっしょについてこられていた教頭先生が「さっき教頭先生に言ったことを先生
にもちゃんといってごらん」と言われた。教頭先生には申し訳なかったが,「先生にじゃないじゃろ。あなたのことを心配して
いた仲間に言わんといけんのじゃないん?みんな心配しとったんよ。あなたがおこられたとき誰もざまあみろなんて思ってな
い。注意できんかったことをみんな後悔しとるんよ。」とどなると,神妙な顔で「うんうん」とうなずき,「明日からちゃんとやる。」
とつぶやいていた。

 K先生は,Aのことを話題に取り上げ,周りの子どもたちはAを仲間として心配し,困っている仲間という見方をしていると知る。
だからこそ,Aに「あなたのことを心配していた仲間」に言わないといけないと要求できる。
 なぜ,周りの子どもたちはAを「困っている仲間」という見方に変わってきたのか。
 K先生はトラブルをおこすAを周りの子どもたちが「A」だからしかたないと思ってほしくない。トラブルが起こるとそのつどK先
生が間に入り,Aとトラブルを起こした子との分けを聴き取り,トラブルの原因を探る。その過程で,Aとの関係を親密な関係に
変えていく。また,このやりとりをクラスに公にする。

 私が「みっしーと仲良くしたいのに,自分が近づくと嫌がられているようで寂しかったんだと思う。みっしーは,意地悪されてい
るように思っていたんじゃないかな。仲良くしたい気持ちは信じてあげてね。嫌いにならないでね。」とみっしーに話しているのを,
Iは,「うんうん」と頷きながら聞き,「ぼく,Aの気持ちわかるよ。」と言ってくれたのが,とてもうれしかった。
 教室に帰ると,Aがすぐ私のところに来た。やはり,気になっていた様子。
 みっしーと話した内容を伝え,Iの言葉を付け足すととてもうれしそうな顔をした。
 心配していたクラスの子たちにも話をし,「このクラスに誰も悪い人はいない。どこかに誤解や行き違いがあるはずだから,そ
れが分かればいい解決ができるはず。」ということを確認した。

 また,学級集団にも要求をしている。別のレポートだが,「しんどい思いをしている仲間がいるのに,何でそんなに浮かれてい
るのか。『A』が騒ぎを起こしたとおもしろがっているように思える。はずかしいことだと思わないのか。」と学級集団に迫る。
 この繰り返しの中で,周りの子どもたちはAを「困っている仲間」という見方に変わってきた。
 給食の配膳での出来事である。Mがおかずを配ったときAはおぼんをちょっと引くそぶりをして,Mが配ったから減らしてもいい
か,と言う。Aがおぼんを引いたのは,以前,給食当番のMが手を洗わずにおかずを配り嫌な顔をした子がいた。MはK先生の
言葉かけにより手を洗うようになったのだが,Aはずっと引きずっていた。
 ここで,K先生はAとMの関係をみんなで討論することにより解決していき,二人の関係改善につなげようとした。レポートを見て
みよう。

 休憩時間に,AがMにひどいことを言ったというトラブルをきっかけに,本音で,一部の人だけでなく,みんなが思いを伝え合った。
「A君のMさんに対する態度はいじめなのではないか。」「クラスでいじめがおきているのにほっといていいのか。」「無関心ではい
けない。」「自分に何ができるか考えよう。」
・・・2時間かけて,思いを伝え合った。
 「誰も悪くしたくない。」「A君にA君のために注意ができるほんとの友達になりたい。」というAが信頼するダイキ。
 ミサが「おかしいことには声を挙げよう。」というので,「本当にできるの?」と問うと,「自信がない。」と涙ぐむサラ。「一人で言わん
でもいい。何人かで声を挙げればいいし,みんなで話し合えばいい。一人ががんばるのはおかしい。」というI。
 「自分が○○君に嫌なことを言ってしまった。Mを差別しとった。」とAが素直に自分から言い,みんなとてもうれしくなった。
 大休憩には,みんなで楽しく遊び,Mも「今までで一番楽しかった。」と帰ってきた。

 AのK先生への信頼,周りの子どもたちもAを仲間としてみている。このような条件での全体での「思いの伝え合い」である。だから
こそ,成功したのである。学級に相互信頼的な応答が生まれている。その後の班替えでは「ぼくは○○さんを支えたい。」「ぼくは○
○君に支えてほしい。」など話し合いで行っている。本音で語り合えている。傷つけ合う関係からお互いを支え合う関係へと変わって
きた。

(4)つながりを自ら広げていく子どもたち
 11月の音楽の時間。人前で表現することが苦手なOがみんなの前で演奏した。その姿を見てAは「Oちゃんさすが」と自分事のよう
に言ったところ,Mが「たいしたことないじゃん。あんなんでほめたら甘やかしになる」とけなす。これがきっかけとなりトラブルに発展し
た。
 K先生は学級集団と共にこのトラブルの原因を探っていく。そして,AとMの関係を子ども達自身が何とかしようと立ち上がる。

 音楽の件のあと,いつものように黒板にセリフやできごとを書き出して,「どうしたもんかね。」とみんなに問いかけると,ズバッともの
をいうイヨが「二人ともあらさがしばっかりじゃん!」と怒ったようにずばり!
 「みんなでいいところを認め合っていこう。」「注意をしてもいいのは,本当にその人のことを思ってするときだけ。」というようなことを
みんなで確認した。
 
 K先生の「どうしたもんかね。」という問いかけが秀逸である。「さあ,みんなで考えてあげよう。何とかしよう。」ではない。本音で言い
合える関係が育っているK学級。「二人ともあら探しばかり」と批判もできる。「どうしたもんかね。」に応答したのは学級代表を中心とし
た数人だった。

 子どもたちの成長を感じたのは,チャイムが鳴った後のこと。
 学級代表を中心に数人が「AとMが仲良くなるために,今,悪いところばかり見ているから,ハッピーレターを二人限定にして,みん
なが二人のいいところを書いて渡そうと思う。どうでしょうか。」と言いに来た。うれしくなって「今,こんなこと言ってくれてるんだけどど
う?」というと,「うん。やろうやろう。」とみんな大賛成。
 「一人も放っておかない」「みんなでみんなが笑顔のクラスを創る」という学級全体の高まりを感じた。
 
 学級全体の高まり,つまりAから「他者との出会い」を学び,相互信頼に裏打ちされた「つながり」を学び,「つながり」を創り出してい
く力をつけてきた。レポートの最後に次のように記されている。 

 今は,トラブルがあってもよい方向に解決できるという自信がもてる。
 実際,子どもたちだけで解決できることも増えてきた。私は「解決したけどこういうことがあった。」という報告をきくだけのことも多い。
 トラブルをみんなで乗り越えることで,みんなが成長できていると思う。

 レポートに出てきた子たちだけでなく,他の個性的な子も,仲間の支えを力に成長を見せている。

 個性的な子どもたちが集まったからこそ,子どもたちも私も学んでいることがたくさんある。
 「いろんな個性のある子がそのままに認められる空間」。そんな空間は,誰もが安心できると思う。
 子どもたちは,まだまだ成長していくはず。これからも「どんなことがあろうとも,一人でも欠けたらクラスは成り立たない。」という信念
を持ち続け,どんな学習も行事もみんなでやりとげるにはどうしたらよいかを徹底的に考えていきたいと思う。

 
【注】
1 一方的に受容と承認を強いる教師の言葉は,権威性・公式性を盾にして,世界に対す る特定のかかわり方,特定の見解と行動を
一方的に強制する「権威的な言葉」である。
  それは,自分を肯定したり,賞賛したりする言葉を組織することはあっても,けっし て周囲の人々のことばと交流したり,融合したり
することはない。竹内常一『新・生活 指導の理論』(高文研,2016年)118頁 
2 対話的なことば,話し手と聞き手は横並びになって対象と対面して,それについてこ とばを交わすのである。竹内常一『新・生活指
導の理論』(高文研,2016年)121頁 レポートで例を出せば教師の次のような対話である。(下線は引用者)

 IとAがつかみ合いになり,IがAになぐりかかった手がAの目の下に当たったとのこと。保健室で手当てをしてもらったあと,状況をきいた。
I「いつもおれのことをバカにしてくる」
私「どんなふうに?」
I「『どうせ当たらんのじゃけ,投げるな』ってAが言ってきた。ドッジが弱いと決めつけてバカにしてきた。」
私「なんでそんなこと言ったの?」
A「自分ばっかり投げて,譲らんから…。どうせ当たらんのに…。」
女子「Aは,女子にもボールを譲ったり,わざと軽気で投げたりしていた。」
A「しかもふざけとったし…」
女子「ふざけとったというか,Iはいつもあんな感じで…」「でも,Iも盛り上げようとしとったと思う」
A「それだけじゃない。自分だって足が出ていたのに,きつく注意してきた。」
I「ぼくはこれくらい。でも,そっちはちょっとじゃない。しかも,何回も。」
私「Aは,自分だって出とるのに…って思ったん?」
A「じゃけえ,『じゃあ,出てもいいんじゃね』『これもいいんじゃろ』と,石にしつこくボールを投げつけた。」
私「Aの今の気持ちは?」
A「しつこく,しかもすぐ近くから何回も投げつけていけんかった。ごめん。」
私「Iは?」
I「…」
私「Aは,Iのことをバカにしたりからかったりしようとしたんじゃないと思うよ。仲間を信じよう。悔しい気持ちを暴力では絶対解決できないよ。」
I「うん。なぐりかかってごめん。」


Ⅵ 終わりに~まとめに変えて~
 広生研フロンティア学習会の後に,折出先生が「PDCA信奉と本気でたたかわなければ」を表されました。その中に「PDCAに対してはルーズ
でもいい・下手でもいいから,反対に良識を取り戻す教師であるには,教師論的不服従・不同意の考え方・生き方・思想が必要です。」とある。
 私たちはこれにどう実践的に応答していくか,教育研究運動をどう進めていくのかが問われている。



~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


第57回広生研(広島)大会基調   2017.8.12. <二葉公民館>

「子どもと教師の自由と幸せを広げる学級・学校を目指して」
     ~ グループ活動を仕組んで ~

1.はじめに
 今,学校は,生徒指導規程やスタンダードの押しつけが横行し,画一的な指導が,広がっている。教師は,「同調圧力」「環境介入権力」の影響も受け,本人の意図に関係なく,子どもに寄り添えない・例外を認めない・子どもが抱える背景を考えない状態が生み出されてきている。
 文科省は,子ども達の居場所を「安心でき,自己存在感や充実感を感じる場所」と位置づけている。わたしたち生活指導教師は,居場所をそれだけでなく,子どもたちの要求(存在要求や発達要求)の実現に向けて共同していく場としての「成長のための居場所」と捉えている。「成長のための居場所」としていくために,私たちは,子どもたちが自分たちの必要と要求に基づいて,学級生活の中に様々な決まりやルール,活動(自治的活動,文化的活動など)や組織(班やグループ)をつくり出していく=自治を追求していきたい。
 第56回広生研大会では,居場所は,与えられるものではなくつくり出すものであると考えた。そして,居場所づくりの実践を進めていくために,応答し合う世界を学校に広げることを提起し,「今,学校という場所では,子どもたちも,そして教師までもが『みんなぼっち』になっているかも知れない。しかし,愚直なまでに『あの子』の声(願い)に耳を傾け,ときにぶつかり合いながら,応答し合う関係を育む取り組みを通して,その子も,子ども集団も,職員集団までもが,ともに成長・発達を成し遂げていく世界をつくり出すことができるのである。」※1とまとめた。
 第57回広生研大会は,子どもと教師の自由と幸せを広げる子ども集団づくりについて論議していきたい。

※1 第56回広生研大会基調より引用


2.子どもたちを取り巻く環境

(1)子どもの姿
①小学生のようす
  5年生は荒れていた。
鷹斗は,大人を信用していない。興味のあることしかやらない。気に入らないこ とがあると暴言を吐き,暴力を振るう。止めに入るとさらに興奮する。行動を止め られることを極端に嫌う。そして,「何でお前がくるんや。」「上から目線で偉そう にするな。」と言う。家庭に連絡をすると告げられるとさらに暴れる。
  和之は,孤立している。低学年のときからのトラブルが原因で,子どもたちから 排除され続けている。トラブルになったとき,周りの子から攻撃される。しつこく悪口を言われ,切れてしまう。「家に帰る。」と騒ぎ,暴れ,疲れ果てて落ち着く。
  城二は,勉強がわからない。発言できるときはいいのだが,ほとんどはおもしろくない。「がんばろう。」と声を掛けると暴言で返してくる。
  宏は,「学校へ行かない。」と泣き叫ぶ。いじわるをされると言うのだが,よく聞くと「レゴで遊びたい。」「ジャムが嫌い。」など,別の話になる。習い事へは,何の問題も無く通っている。
  彼らの行動の原因はどこから来ているのだろうか。

②中学生のようす
  ある中学校。生徒指導規程のもと「強い指導」により,数年前の「荒れ」の姿は 全くない。子どもたちに強制しているものの一つに「無言集合」がある。教室前の 廊下から集合場所の体育館まで無言を強いられている。時に,校長の罵声がとぶ。「そこの3年生!口があいとる!担任の先生も指導して下さいよ!」子どもたちの 表情は生気がない。また,「立礼・5秒」も毎時間の授業の始まりと終わりに強制させられる。代議員は礼の間5秒を数える。他の中学校では「校門一礼」というのもあるそうだ。
  「強制」,「強い指導」で,一見落ち着いているように見える。しかし,子どもたちの多くは,こんなことはしたくないと言っている。面従腹背だ。
  また,自分の言いたいことをいえず我慢している子どもも,ずばずばものを言っている子どもも友達のことを非常に考えながらコミュニケーションをとっている。子どもたちは,次のように言っている。「私は人を傷つけてたりしていなのでよかった。」「自分の言いたいことは言いたいけれど,それを言って相手を傷つけるんだったら言いたいことを我慢して相手と話をした方が自分も相手もいいと思いました。」「自分は口調(話し方)が強めの方かなと思っていたけど,まわりの人からは 強めじゃないよと言われたのでほっとしました。」
  子どもたちは平静を装いながら,敏感な空気の中で生活している。

 ③学校の様子
 
  新指導要領では,「前文」をもうけて,教育基本法(※2)が掲げる教育の目的 と5つの目標を記した。「社会に開かれた教育課程」という考え方を示し,指導要 領は,その実現のために「教育課程の基準を大綱的に定めるもの」として位置づけ られた。そして,「生きる力」として,①知識・技能②思考力・判断力・表現力③ 学びに向かう力・人間性育むための資質・能力の3つの育てるべき資質・能力を示 した。
  社会が求めている「資質・能力」を獲得するために,「何ができるようになるか」 「何を学ぶか」「どのように学ぶか」を教育課程ではっきりさせて,家庭や地域と 連携しながら進めていくとされた。
  また,道徳の教科化でも,子どもの現実に切り込み対話しながら子どもの内面を育むのではなく,教材を通して徳目に沿った一定の行動パターンだけを押しつけ,調教していくことが教師に求められている。
  新自由主義的教育施策の下,学校はさらに不自由なところになってしまう。ただ,多忙な現場で,経験の浅い教師の中には,細かく指示されることを親切と捉えてし まっている場合がある。
 学校の中では,チーム○○など,複数対応やベクトルを揃えることを高らかに掲げている学校は多い。一役一人制(一つの仕事を一人で担当する)が導入されている実態もある。教師や子ども一人一人の責任の所在を明らかにすることが目的で管 理と分断が進む。個々の仕事が細分化され,自分の仕事だけに目が行き,やったか やらないかだけの関係になってしまい,子どもたちや他の職員の関わりが薄まっていく。
 また,子どもたちが討論し,討議で決めることはほとんどない。効率よく物事を進めていくことが是とされる今の学校では,みんなの意見を吸い上げ,一人一人の願いを尊重し,合意し,決定することは難しい。時間がかかるからだ。だから,じゃんけんやくじ,論議しないで多数決で決定する。従って,子どもたちの願いは,封じ込められてしまう。
 校内授業研では,めあてを板書し,ゴールを決めてから計画を練るようにと指導され,シナリオ通りに授業が流れることが評価される。そして,関わり合いを掲げるが,誰がどのようになど,その内容ではなく,どこでグループ学習を入れるのかが検討される。ある中学校区の研究会では,あいさつや手の挙げ方などをどのクラスも揃えることが要求された。子ども研究や教材研究ではなく,ましてや子どもの声を聞こうという発想はまったくない。

※2 教育基本法 第1条
  教育は,人格の完成を目指し,平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
   教育基本法 第2条
  教育は,その目的を実現するため,学問の自由を尊重しつつ,次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
  一 幅広い知識と教養を身に付け,真理を求める態度を養い,豊かな情操と道徳心を培うとともに,健やかな身体を養うこと。
  二 個人の価値を尊重して,その能力を伸ばし,創造性を培い,自主及び自律の精神を養うとともに,職業及び生活との関連を重視し,勤労を重んずる態度を養うこと。
  三 正義と責任,男女の平等,自他の敬愛と協力を重んずるとともに,公共の精神に基づき,主体的に社会の形成に参画し,その発展に寄与する態度を養うこと。
  四 生命を尊び,自然を大切にし,環境の保全に寄与する態度を養うこと。
  五 伝統と文化を尊重し,それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに,他国を尊重し,国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


3,実践課題
(1)自立とは,相互に依存すること
  自立とは,「他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。」 と広辞苑にあった。自立を「自分のことは自分でする。」というように,他者に依存しない・頼らないことだと捉えている人がいる。
  しかし,人は,一人では生きていけない存在であり,多くの人に支えられて生きている。自立を個ではなく他者との関係性の中で捉えると,他者に相互に依存しな がら,成長していくこととなる。
  わたしたちは,自立している人を,他者に依存していない人ではなく,他者に上手に依存している人と考え,子どもたちの間にたくさんの相互依存を創り出していく。
  子どもたちに,自分にできること・できないことを見極め,仲間にヘルプを求めることを教えたい。

(2)意味ある活動を仕組む
  どの学級の中にも班がつくられているが,実際には,何のためにや班で何をするのかが見えてこない。授業の中で関わりをテーマにするために使われているぐらいで,生活班とはなっていない。
  例えば,学校目標で「チャイムの合図を守って生活しよう」と下りてきた。そのときできない子を叱るのではなく,「なぜできないのか」「なぜ,こんなことをしな いといけないのか」を学級で共有し,作戦を班や学級で考えて実践していくとよい。
また,公的な枠にとらわれない私的グループの活動も充実させたい。学級内クラ ブや会社活動は,おすすめである。
  学級内クラブは,遊びや好きなことを通して仲間とつながっていける。好きなも のを通して関わるので,集まりやすいし,人を選ぶのではないことが利点となる。さらに,会社活動では,集団(学級)を意識した活動となる。
  今,係や当番でも,個人の役割を明確にし,個人ができたかできていないかで,評価されることが多い中で,誰かと一緒に何かをする経験は,大切となる。
  グループで活動をすることによって,子どもの思いや願い,あるいは辛さや苦しさをお互いに知り合い,誰かの思いや願いを成就するために知恵を出し合い,力を合わせることに意味がある。

(3)話し合いをさせよう
  学級には,多様な個人や私的グループが存在する。そこには,さまざまな要求がある。通常,これらは対立することが多い。そこで,要求を整理し,合意をつくり ださなくてはならない。
たくさんの意見が出れば,合意をつくることは難しいし,時間もかかる。そこで,多数決で決定することがあるが,これは,少数意見を切り捨ててしまうことになる。白か黒かで決めていくのではなく,一人一人の思いを反映していくために話し合いを進めたい。
  例えば,お楽しみ会で「ドッジボール」をする提案が出たとき,運動の苦手な浩一は「おもしろくない。」と反対した。提案者は,浩一のように苦手な子でも参加 しやすく,全員がボールを投げられるようなルールを加えた形で提案していたのだが,浩一は反対した。そこで,浩一におもしろくないわけを聞くと「内野にいるときは楽しめるが,外野に出たら終わってしまう。」と答えた。学級の子どもたちは この思いを共有し,外野に出なくてもいい「ポイント制ドッジボール」に修正した。
  子どもたちが個の願いを把握し,作戦を考え,他者を意識しながら活動する。その中で話し合いで解決する学級ができていくのだ。
また,学級に活動を仕組むためには,リーダーの位置にいる子どもたちと相談しながら,活動のねらいや内容を原案にし,学級に提案し,話し合いを得て,合意のもとに活動を展開していく流れを大切にしたい。そして,この中で学級の課題が明らかになっていくであろう。
  主体的に活動するためには,自分たちのことは自分たちで決める自由が必要である。


4,実践から学ぶ
(1)実践課題の解決の道筋
  子どもや教師は,他者に相互依存しながら成長していく。そのためには,学校は,民主的な集団でなくてはならない。
  まずは,自己責任や説明責任の名で分断されてしまっている状況から,たくさんの人に依存してよいこと,たくさんヘルプを出してよいことを共有しよう。
  つぎに,個ではなくグループでの活動を仕組もう。活動は,枠組みに合わせるのではなく子ども一人一人の思いを大切にし,その中で,それぞれの差異に気づかせ,そして,当然のように起こる矛盾や対立を読み開き,自治的に解決していこう。
  自治的に解決していくためには,話し合いは欠かせない。話し合いでは,多数・少数に限らず,個人の要求を学級で共有し,合意形成することを目指そう。
  具体的に,生活班での活動と学級内クラブの2つの実践を紹介する。

(2)生活班の活動
  志波和人は,学校での生活を班を基礎集団とすることとし,3つの方針を立てた。

①班を生活班にして,班で係活動,班で掃除をすることなど活動の拠点とするこ と。
②班に班長を置くこと。また,班長会をつくる。
③学級総会を開き,「みんなで決めること」を追求する。

  3つの方針は,学級を自治的集団に育てるための方針であり,生活班での活動を意味あるものへつながるものと考える。
  また,「みんなで決めること」を追求することは,学級の主体が誰なのかを生徒に示すこととなっている。

  野外活動を5つの目標を掲げて取り組みました。
 野外活動で活躍した人の名前が24人もあがったことがすばらしい。これは, みんながどこかの場面で活躍したことを意味します。自分ではきづいていないと ころでも,他の人から見れば,「よくしてくれたな」「いいことをしているな」と いうことです。
 課題としては「ケンカをして,解決方法を考えず,そのままほったらかしてし まった」と正直に書いてくれた人(感謝です!!)のところではないでしょうか。
 このことを課題として。2回目班への班替えを提案します。     

 班長の仕事は,まずは,班の要求を引き出すことであり,班内の課題を解決する ための働きかけをすることである。そして,班長指導を通して,リーダーを育成していき,班長会がリーダー集団として学級分析をできるようになっていく。ここでは,初期の指導(1回目班)として,教師とリーダー(班長)との話し合い(班長 会)で子ども・学級の分析をしている。生徒たちは活動の主体が自分たちであり,3つの方針に合わせて学級がスタートしていると感じた。

 私  「Fくんのことだけど,班長のみんながどう見ているか,知りたいんよ。それで,集まってもらいました。私が見ていると,Fくんって,通りす がりに手を出すよね?で,誰かがじゃれ合っていると,そこに入ってい くよね。」

Mくん「小4ごろから急に暴力的になり出した。5年生の時に,殴られて脳しん とうを起こしたことがある。(Fくんの)親は怒らんし・・・,といって いる。」

Kくん「こわい先生や部活の顧問の先生の前ではおとなしくしている。小学校の 時からケンカで勝つ,といっている。」

Yさん「でも,保健室に行ったことを心配してくれたことがある。」

私 「優しいところもあるんやね。Fくんには暴力をやめてほしいよね。班の人がFくんに暴力を受けたら,班長会がその人の話を聞いてくれる?」      

 子どもが自立するためには,その子を支え,励ます他者(集団)が必要となる。
 仲間を見つめ,学級に内在している問題を自分たちで解決していくための話し合いをさせたい。
 ここでは,困った子として進学してきたFを通して,学級づくりの実践が始まった。これからの実践の中で,Fも学級の子どもたちも変わっていく。

(3)学級内クラブの活動
 あん礼は,学級内クラブを始めた理由を次のように語っている。

 子どもたちは,全体的に落ち着いた雰囲気で,人なつっこく,大きく無茶をすることは少ない。けれど,子どもたちの中には,家庭的にいろいろな事情を抱えてい る子どもも多い。


  「寂しさやつらさを抱えて学校に来ている子どもたちは多い。『助けて』や『○○したい。』『○○はいや。』がなかなか言えない子どもたちもいる。これまでも誕生会や好きな者同士の係活動に取り組んできたが,3年生を前にして,もっと子どもたちが自分たちで友だちとの結びつきを広げていけないかと思い,学級内クラブをやってみることにした。

 子どもたちは,活動することを通してつながり合う関係を築くことがとても難しくなっている。あん礼は,子どもたちからそのことを感じ取り,学級内クラブで他者との関係をつくっていくことを狙っている。

 
I  先生,お絵かきクラブつくりたい。
先生 いいねえ。絵かくの好きな人多いものね。
I  ポスターかいてもいい?
先生 いいよ。紙は,これでいい?それと名前は,イラストクラブっていうのどう?
I  いいね。そうする。

 Iは,誕生会でも劇をするときの中心人物。お笑いのセンスもいいし,統率力もある。友だちみんなを活躍させようとする気持ちがある。はじめてできたクラブには,16人の名前が書かれていた。AからFの6人のうち,Fくん以外は,参加していた。昼休憩に椅子を並べてその上でかいていた。絵の得意なCさんの絵を女の子2人で見せに来る。

K  先生,先生すごいよ!Cちゃんうまいんよ。2枚もあるんよ。
先生 すごーい!中庭と教室の中!?うまいなあ!

 Cさんは,はにかんだように笑っていて,うれしそう。ところが今は,イラストクラブは解散してしまった。        

  気になる子どもとして報告された6人のうち5人が参加し,つながりをつくっていく。その中でCさんは,得意なことを認めてもらった。日常の生活では見えない姿が表出され,認められたのだ。
 また,イラストクラブが解散したのは,つながりが一歩すすんだCさんたちにとって,他者との媒介であったイラストクラブは必要なくなったからであろう。

 今週の火曜日,Eくん(友だちクラブ)とIくん(友情クラブ)が帰りの会で発表。同じような内容だったので,放課後話し合うことにした。がEくんは帰ってしまう。

先生 どんなクラブにしたいの。
I  みんなで話し合って仲良くなりたい。
先生 どんなことをするの?おしゃべりするの?
I  う~んおしゃべりしたり,いっしょに遊んだりする。
先生 そうかあ。何で友だちクラブつくろうと思ったの?
I みんながもっと仲良くなって,この学校を楽しくしたい。
先生 そうか。楽しい学校にしたいよね。分かった。明日,Eくんと話し合って,もし同じこと考えているなら,一緒にみんなに知らせてね。
I  はあい。

 水曜日,2人だけで話し合ったようで,一緒に活動することになったこと,名前は,友だちクラブになったことを教えてくれた。帰りの会で,みんなに

IE 友だちクラブをつくりました。みんなで話し合って遊ぶことを決めて遊びます。ぜひクラブに入ってください。

 と伝えた。        

 あん礼は,日頃から話し合いを大切にしている。子どもたちが主体となって活動をするためである。
 あん礼は,「この指止まれ方式で,子どもたちが遊ぼうと呼びかけている。ポスターを書いた子は,名前が増えるとうれしいし,声をかけやすくなる。個人的には,声をかけられない子も朝の会や帰りの会の公的な場で,お知らせができる。」と言っている。学級内クラブが,子どもたちにとって意味のあるものになっているのだ。また,学級内クラブがもとでIとEの話し合いの場ができ,ともに活動することととなった。これまで,接点のなかった二人の間に相互理解が少しすすんだ。


5,終わりに
  広汎性発達障害の洋は,今,朝休けいに友だちとドッジボールがしたくて,朝早く登校し,朝の支度を終わらせている。「生活ノート書いて。外,行くで。」「先,行っとくで,早く来てね。」などの声が聞こえてくる。
  4月当初は,兄としか遊べていなかった洋の姿からは想像ができない。
  「空気を読めや。」こんな言葉がいつの間にか普通に聞こえてくる教室。まわりに気をつかえと言うことなのだろう。実際,洋も排除されていた。
  「何で,あの二人がいっしょの班になっとるん。」「チャレンジャーじゃね。」という同僚からの声も聞こえた。しかし,あの二人と言われた弾と洋だが班の中での 交流を通して,排除されていた洋の行動が広がっていったことは間違いない。そして,洋と活動する子が増えたことで洋の理解が広がっていったのだ。洋は,宿題を減らしている。字を書くのが,苦手で時間がとてもかかるからだ。他の子どもたちから不満は出てこない。学級の子どもたちが差異を認めたからだ。
  個別の実態を子どもたちと共有し,その子にとってベストというところから,実践を広げていきたい。
  学校は,「ゼロトレランス」方式で,学校の規則や規範,教師の指導に従わない子(従えない子)を排除していく。子ども集団をひとかたまりと見なして,一人一人ちがう子どもの背景に配慮すること自体を排除してしまっている。そんな中で,目立たないようにまわりに気を使いながら,排除されないように振る舞ってしまっている。
  これは,子どもたちだけでなく教師も「ゼロトレランス」方式で,排除される。
  子どもたち一人一人は集団の中でこそ成長する。子どもたちが互いを認め,関心を持ち,対立や共感を得て,成長していく。学校生活の中で自分の感情を自由に表現できる。子どもの声も教師の声ものびのびと響き合う学級・学校をつくっていきたい。




~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
第56回広生研(佐伯)大会基調     2016.8.7. <佐伯区民文化C>

「子どもの願いに応答する世界を広げよう」
基調小委員会

Ⅰ 子どもたちを取り巻く環境

1 子どもの貧困
 貧困とは,生活していくために必要なものがあるのに,その必要を満たすお金が欠如すること。結果,生活は破壊され,権利は奪われてしまう。
 子どもの貧困とは,子ども個人に焦点をあてる捉え方で,子どもを主体に考えると,子どもの成長や日々の幸せに経済問題がどう影響しているかが見えてくる。日本の子どもの貧困率※は,16.3%(2016年)。ひとり親など大人が1人の家庭に限ると54.6%(2014年)で,先進国のなかでも最悪の水準である。
 具体的にイメージすると次のようなことが考えられる。不十分な衣食住,虐待・ネグレクト,文化的体験・環境の欠如,低学力・低学歴,低い自己評価,不安感・不信感,孤立・排除などである。つまり,生きていく上で必要な様々なものを与えられないまま生活していくしかないのである。
 病気やひとり親世帯のようなケースだけでなく教育格差は広がっている。親(家庭)の格差がそのまま子どもの世界に持ち込まれ,さらに広がっている。
 ある知事が「この国の原則は自己責任。それが嫌なら政治家になって変えるか,この国を出て行けばいい。」と発言した。教育は,人間らしく生きることを学ぶものであって,「自分の責任ですから」と現状を受け入れることを学ぶものではないはずだ。
 原因は,新自由主義に基づく社会の構造改革である。新自由主義(政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方)は,あらゆるものを商品化し,自己選択・自己責任の原則に従って生きることを強要する。当然,格差が広がっていき,上のような状況になっている。経済的貧困だけでなく,社会的貧困と一体であることを指摘しておく。
 具体的には,関係性や社会性の欠如の問題が考えられる。本来子どもが形成しているはずの基本的信頼感や自尊感情を育むことが難しい。子どもは自己を否定し,他者を傷つけてしまう。知識・技能や学歴・資格にも影響が及び,子どもは,自らの貧困を背負わされていくのである。
 ※ 世帯収入から子どもを含めて一人ひとりの所得を試算し,その国で真ん中の人の所得の半分に届か  ない人の割合。

2 学校の様子
「みんなぼっち」という言葉がある。グループをつくり,親密な関係なはずなのに,一人のときより孤独で悩んでいるという状態のことだ。あらかじめ共通点をリサーチしてから,声を掛けグループの中にとりあえず入って,所属場所だけは確保する子どもたち。新自由主義がつくり出した競争的・排他的な価値観によって,異質排除のまなざしと同調圧力が強化され,上辺だけの同質性を演じ合う「みんなぼっち」の状態が生み出されているのである。
 こうした同調圧力と異質排除の暗雲は,教育界全体を覆っている。生徒指導規程の押しつけ・スタンダード化,教師に画一的な指導を強要する「上からの同調圧力」が強まる一方で,それを積極的に引き受けて自ら同質化しようとする「横からの同調圧力」も強まっている。2つの「同調圧力」が,子どもに寄り添えない,例外を認めない,子どもが抱える背景を考えない教師を生み出している。
 そこで,54回大会では,テーマを「一元化する教育に抗して,異質共同の教育を」とし,異質共同の教育を進めるために,他者と出会い,認め合うことの必要性を指摘した。
 小中連携の名の下に,中学校区の合い言葉や豊かな○○っ子等,「あいさつの仕方を揃えよう。」「家庭学習の取組を行おう。」など頭越しに導入されるケースも散見される。また,学習場面でも生徒指導の三機能(自己決定・自己存在感・共感的人間関係)を生かした授業づくりの名でスタンダード化が進んでいる。
 昨年のフロンティア学習会での高橋英児氏の講演の中で,「環境介入権力」についての話があった。方向性が決められ,それに抗うことが許されず,レールに載せられているということが進行している。生徒指導規程等で管理しなくても,環境(システム)をつくることで,管理体制が強まっていく現状が改めてわかった。
 給食当番は,出席番号順に2つのグループに分け,個人に仕事を振り分けていく方法をとっている(レンジャー制)。また,掃除当番でも,教室ほうき1・教室ほうき2のように,人数分の仕事を用意し,個人に割り当てている場合が多い。サボる子を指導するためには,責任の所在を明らかにする必要があるということらしい。所見に,「掃除当番では,手薄になった場所を見つけ,自分から進んで」というようなことを書くと「なぜ,手薄になる場所ができるのか。そうならないシステムをつくることが大切だ。」と言われた。そればかりか「来年,困るからね。」という理屈で,学校全体を何かと揃えようとする。
言葉の問題も指摘したい。協同(協働)・班・リーダーなど,自治の思想で使われてきた言葉が,管理する側の都合のよい解釈のもとで使われ,浸透してきている。
 居場所の捉えもそうである。管理する側にとっての子どもたちの居場所は,場所を割り当てることであり,そのために一人一人に役割が必要だと主張する。何年か前に押しつけられた予防的生徒指導でのグループ学習は,全員に役割を振ることであり,そこは単に管理者が宛がった整理番号のようなものでしかなかった。
 本来の意味における居場所とは,そんな個々に割り当てられた飼育ケージのような空間とは違う。子どもたちが互いの願いを実現しようとするなかで成長・発達を成し遂げていく関わり合いの場である。そこで,居場所づくりを生活指導・集団づくり実践の重要な柱と位置づけ,さらに,居場所づくりの発展の視点が必要であることを合わせ,55回大会では,「居場所づくりを子どもと共に進めよう」と提案した。
 
3 特徴的な子どもたち
(1)小学校の子どものようす
 1年生の良太は,友だちとトラブルがあると固まってしまう。そして,「家に帰らない。」と泣くのである。子育てに一生懸命な母親は,「なぜいけないのか。」「どうして,こんなことをしてしまうのか。」延々と説教する。正座をさせられ,2時間に及ぶこともある。自分の思いを伝えられず,母親に許してもらう言葉を探すのだが,見つからないのである。 5年生の慎二は,大人を信用していない。友だちにちょっかいを出し,トラブルになる。教師が間に入り,話を聞こうとするが,興奮は収まらずますますエスカレートしてくる。口癖は,「何でお前が来るんや。」「上から目線で,言うこと聞かそうとするな。」朝は,6時40分に起き,朝ごはんはコーンフレークを食べる。ルーティーンが崩れるともう登校はしない。
 6年生の誠一は,発達の課題を抱え,友だちの気持ちを考えることが苦手である。そして,思ったことをすぐ口に出してしまう。授業中,よい発言をしても「全部,言うなや。」「えらそうにするな。」「そんなん,知っとるわ。」と周りから責められてしまい,彼の行動は全否定されてしまうのである。 
 ある高学年のクラスでは,「○○しようや。」と言う肯定的な言葉が掛けられない。真面目な裕介が「静かにしようや。」と言うと「お,出た。優等生。」と冷やかしの言葉が跳ぶ。当然,教師からの「いいことしたね。」などの肯定的な評価も冷やかしの対象になってしまう。
大人も焦っているから「こうあるべきだ」と子どもに強要してしまうのだろう。しかし,子どもは,大人に対する恐怖心や不信感を募らせるばかりだ。その息苦しさと苛立ちが,自暴自棄の感情や,他者への攻撃性となって暴走してしまうのである。

(2)中学校の子どものようす
 今年度,中学1年生の担任になった。“中学校に入学しても困らないように”という小中連携の一環で,中学校で昨年から行っている「立礼(りつれい)・5秒」をマスターしてきている。
 また,全校朝会のときなどは「無言集合」を徹底して強制される。体育館に向かう道中でも「無言」を強いられる。集会中に少しでも声がすると,校長はそのクラスの担任に向かって,その生徒を外に連れ出すことを大声で指示する。恫喝である。どちらが,「無言集合」を破っているのかと思う。
 この「無言集合」と「立礼・5秒」を強制された子どもは,「先生」にたてつくとろくなことにはならない,ということを学習する。あるいは,その「容儀」に違反する子どもは,自己責任の名の下に学校そのものから排除されていく。
 また,もう一つ指摘しておかなければならないのは,いわゆる「発達障がい」の様相を見せる子どもたちが,特別支援アシスタントに委ねられる形で学級集団からソフトに排除されていくことである。
 これで,「落ち着いた学校」と称している。校長は「気を許すと元に戻る,まだまだ気を引き締めないといけない」という。このような,中学校で子どもたちと信頼関係が結べるのだろうか。
 ※ 立礼とは 起立して敬礼を行うこと。また,その敬礼。(出典:デジタル大辞泉)


Ⅱ 実践課題

1 願いを持つ主体として子どもたちを見る
 Ⅰ章では,子どもたちの置かれている状況を語った。規律権力と環境介入権力によって,子どもたち自身の願いが抑え込まれているのである。
 私たちは,子どもの願いに気付き,応答していきたい。
 しかし,子どもの願いは,表面的な言葉や態度で分かるとは限らない。「うぜぇ,あっち行け」と言葉では言っていても,本当は孤独感に堪えかねているだけなのかも知れない。逆に表面上はとても「よい子」を演じてはいるが,本当は「よい子」のポジションから滑り落ちる恐怖に怯えているのかも知れない。嘘ばかりついて,友達や大人を散々振り回す「困った子」は,自分の存在価値を知りたくて,ぽっかり空いた心の穴を自らが生み出した虚像で埋め合わせようとしているだけかも知れない。
 私たち生活指導教師は子どもたちの中に発達要求としての願いをみなければいけない。そして,子どもたち自身にその願いを発見させ,要求として実現していくちからをつけなければならない。
 この節では子どもたちの願いを引き出すための視点を挙げてみたい。それは,“子どもの声をきく”ことである。
 子どもの呼びかけに応じて,その声を聞く。その子の気持ちにより添い,対話を試みる。そして,その子の願いを,言葉の奥にあるその子の思いを聴き取る。
 全生研・研究全国委員の福田敦志(大阪教育大学)が子どもの声を聴くことについて,次のように述べている。「『子どもの声をきく』という行為は,言うまでもなく,音声として発せられた言葉を聞くことのみを意味してはいない。」(1)
 では,音声として発せられていない「言葉」とは何か。表情やしぐさの変化の意味を読み取り,子どもの行為から子どもの願いを探るのである。
 註(1)福田敦志「『子どもの声をきく』ことの意味と課題」
         『生活指導』第702号,高文研,2012年6/7月号6頁

2 子どもたちの願いを応答の回路にひらく
 願いに気付いてあげなくてはならない子ほど,その願いは表面的な言動に攪乱されて,私たちからは見えない深い闇の中に隠されてしまっていることが多い。教師の目だけで見ていても,子どもの本当の願いは見えてこないことがある。その子本人に聞いてみる手もあるのだが,彼は語る言葉をもたないかも知れないし,そもそも自分自身の願いに気付いていないことさえ多い。周りにいる子ども達の力も借りながら,願いに接近する努力を重ねていこう。
 しかし,隠れた願いは,実は本人すら驚くような場面で発現することがある。それは,彼に何かのトラブルが起きたときだ。ケンカやイジメが起きたなら,それは何かに対する「怒り」や「苦しさ」の感情の発露であろう。つまり,「この状況はイヤだ。我慢できないんだ!」というサインである。「こうじゃない状況にしたい。本当はこうありたい」という願いを,その子の言葉で紡ぎ出すチャンスにしていこう。
 子どもが「嘘をついた」「物を盗んだ」という時,その行動の裏側に何があるのか,接近するチャンスが来たと思いたい。その行動を選択せずに居られなかった心の苦しさに,何とか接近したい。その苦しさを安心して吐露できる関係を育みながら,「本当はこうありたい」という隠れた願いに気付く教師でありたい。
 とかく,トラブルが起きたとき,教師はその現象(臭い物)に「蓋」をしようとすることがある。「それは絶対にしてはならないことだ」「もう二度とするな」と。しかし,そのトラブルこそ,子どもの願いを発見する最大のヒントであることを,私たちは知っている。
 様々なトラブル・厄介事をこそ,子どもの隠れた願いを発見するチャンスに変えていきたい。そして,その子の辛さ・苦しさを解決する方途を他の仲間とともに探っていこう。「もっとこうしたい」という願いを聞き取り,彼らが生きたいと思える学校・学級の文化を創造していこう。 

3 自治的集団を育てる
 この世界には,「与えられる世界」と「つくり出す世界」とがある。
 一方の「与えられる世界」は,スタンダードに支配される世界である。誰かが定めたスタンダードな形式やルーティーンが準備されていて,一見とても分かり易い。期待された通りに動きさえすれば評価され,その立場は守られる。ささやかな自由(班替えのくじなど)を享受することもできる。しかし,スタンダードを遵守できない・しない者は,目に付きやすく,自己責任の名の下に排除される。スタンダードを遵守している者でさえ,現状を維持するために,本当の自分(願い)を封印して「よい子」のキャラを演じ続けていく他に道はない。
 他方の「つくり出す世界」は,自治の世界=自分たちのことは自分たちで決める世界だ。そこでは,人は意見表明し,権利者として主体性を持つことができる。ただし,主体として生きることは魅力的なことだが,スタンダードな形式やルーティーンを誰かが与えてくれるわけではない。スタンダードに身を委ねることしか学んでこなかった者にとっては苦しい世界でもある。
だから,自治の世界をつくり出す筋道を学ぶ場が必要なのである。それぞれの学級で,主体が誰にあるのかを問い直し,学級のルールを一つずつつくり出していく取り組みから始めたい。当然,ルールをつくるためのルールも必要となってくる。これらをつくり出すためには,相応のエネルギーと時間も必要だ。特に,効率と管理を是とする今の教育施策の下では大変な労力が必要となるという覚悟もいるだろう。しかし,これらは全生研の討議づくりの中で実践され蓄積されてきた取り組みでもある。「自分の不利益には黙っていない。」「みんなで決めて,必ず守る。」といった原則を確かめていきたい。
いま私たちが焦点を当てている「居場所」も,まさに与えられるものではなくつくり出すものである。あらためて「居場所」について捉え直すことを通して,つくり出す世界=自治の世界を取り戻していきたい。
 第55回大会基調で取り上げた西海実践は,子どもの声を丁寧に聞き合う討議づくりを通して,子どもが自ら居場所をつくり出していく一つの筋道を提示した。第56回広生研大会においても,「子どもの願いに応答する世界を広げよう」をテーマに掲げ,引き続き「居場所」について考えていきたい。一方通行ではなく,子どもが互いの声(願い)に耳を傾け,応答し合って成長・発達を成し遂げていく世界を広げていこう。

Ⅲ 実践から学ぶ

1 日常で豊かな応答をつくり出す(Km実践)
(1)ゆうとに関わって

  ゆうと(男子)・・あまり関わりのなかった子には,乱暴,わがまま,怖いという 印象が強い・・・・その偏った見方は,保護者にも拡がっていた・・・・
 完璧主義というか,0か100か的な思考のためか,苦手なことは最初からやろう としなかったり,・・・上手くいかなかったら早々にあきらめて撤退したり・・・
 人に対しても「味方」か「敵」かという両極端に見ることがあり,・・・・その人 との関係を絶ち,殻に閉じこもってしまう。逆に,「この人は分かってくれている。」
(分かろうとしてくれている)と思うと,良い関係が築ける。・・・

と,何かあると殻に閉じこもってしまうゆうとが起こす「むかつき」事件

 むかつく①「ぱくりはきらいじゃ」
 ・・・・ゆうとが「いいことみつけ」を自主勉でやってきた。同じことをかずとも自主勉でやってきたのを知って,「ぱくりやがった。」とキレる。・・・・「・・・よいことをまねされるのはいいことだから・・・。」といくら言ってもかずとをにらむ。
 こんなときも,解決してくれるのは子どもたち。おそらく,ゆうとが何にこだわっているのか,子どもたちだから分かったのかもしれない。・・・「最初にやった人は,偉いよね。」「そうそう。最初に始めたのは・・・?」「(一斉に)ゆうと!」「ゆうとさすが!」「ゆうとありがとう。」その後,かずとを責めることはなくなった。


 Kmは「いいこと」と評価したが,「いいこと」はゆうとにとっては90点でしかなかった。だが,ゆうとが0か100かの世界にいることを知っているクラスの子どもたちは「最初にやった人」=「1番にやった人」という言い方で100点と評価し,それによってゆうとは,認められ,むかつきを収めることができたのである。
 つまり,子どもたちは,ゆうとの真の願いに応答したのである。

 むかつく②「あいつがまじめにやらんかっただけじゃん。」
 7月・・・「お楽しみ会やりたいな。」と言う声に,・・・・みんなで何かをやり遂
げてお楽しみ会をしようということにした。・・・子どもたちは,みんなが今日の宿
題を明日びしっと出したら・・・ということにしてもらえないかという案が出た。り
ょうたは同じ宿題は難しいのでりょうた用の宿題でみんなは同意したが・・・・ゆう
とは怒り始めた。・・・「なんでりょうたは許されるんか。」「今まであいつがまじめ にやらんかっただけじゃん。」とドアを強くけって出て行ったとき,「ちょっと待ちな
なさい。二人で話をしようや。」呼び戻した。二人になるととても素直になり,「宿題
の中に,『社会を明るくする運動』の応募作文があったので,苦手な作文だし,何を どう書くか分からなかったのでイライラした。」と話してくれた。・・・「宿題を完璧 にやろうと思ったんじゃね。自分がやってこなくてお楽しみ会ができんかったらみん なに迷惑をかけると思ったん?』と聞くと頷いたので,「書くのが苦手なのは知って いるから,完璧にいい作文を書こうと思わなくていいよ。ゆうとの一生懸命で書いた のと先生が思える作文なら,先生はそれで大満足よ。」・・・・そして,「りょうたの ことなんじゃけどね,もしかしたら,先生よりゆうとの方がよく分かっているかもし れないけど・・・。」と言いながらりょうたの苦手なこと,今何に頑張っているかな どを話し,「りょうたのことを理解し,応援してあげて欲しい。」と言うと,大きく頷 いた。


 この場面においてもKmがゆうとに適切に応答する姿を見ることができる。
 ドアをけって出て行くゆうとに,勿論「そんな行動は許されない!」と言う思いがあった。しかしそれ以上に「彼の真の願いは何なんだろうか?」を知りそれに応答しようという思いが強い。だからこそ「何をどう書くか分からんかったのでイライラした。」というゆうとの真の願いを聞き出し,応答できたのである。それは,作文の書き方をもう一度丁寧に教え,教師の思いを伝えることができたところに表れている。

 むかつく③「調子にのんなや!」
 授業中,授業を盛り上げようと進んで発表しようとするよっしーとなっとうに対し
てゆうとは,「うるさい。あいつらムカつく。」と敵意をむき出しにしていた。(2人 はみんなの役に立ちたいという気持ちが育ってきているのであるが)
 そんな2人にたいして,クラスのみんなは,うまく合わせていたが,ゆうとは・・
特になっとうを「ムカつく」とにらんだりしていた。
 「二人・・というより,なっとうに強く当たるのはなぜなんだろう?」「なっとうの
ことを下に見ているのだろうか?」と気になった。・・・後日そのときの気持ちが分
かり,私も反省することになった。


 「ゆうとといえども,人を上下関係で見ることは許せない。それを見逃しているクラスのみんなの態度も許せない。」という思いを読み取ることが出来る。どの子も同じように大切にしようとするKmの思想性の見える場面である。
 だいぶ経ってこのときの思いも聞き出しているのであるが,もともとKmの実践スタイルでは,子どもたちが毎日綴る日記のなかで,互いの思いや願いを鋭敏に感じ取って分かち合おうとする子どもを育てている。さらにこういった場面では,班長会などを通して子どもの力を借りて相互理解を深める道もある。いずれにせよ,ゆうとの思いを受け止める事の重要性やその方法をリーダー集団にも拡大していこうとする集団づくりの手法も適宜取り入れたなら,さらに実践のチャンネルが多様化するのではなかろうか。

(2)ゆうと応援団

 給食のパンをぐしゃっとつぶしたことに対して,急用で対処できなくて,私がゆうとを責めるようなことを言ったからととらえ,「後で話しをするから,・・・」とつぶれたパンを先生のところに置くよう指示をして出たが,いただきますのときには,そのパンは別の子が食べていて,・・・ゆうとを見ると友だちと楽しそうにしゃべりながらパンを食べていた。・・・ゆうとの様子を見ているとだんだん腹が立ってきて,
「何で楽しそうに食べれるん?Mちゃんは,先生に嫌な思いをさせないように,あんたが腹立ち紛れにつぶしたパンを自分で食べようとしとったんよ。何で平気なん?」
とどなってしまった。・・・「やってしまったかも・・・」と後悔したが,・・・・。
 彼に対しては,信頼関係がしっかり築けるまでは追い詰めないようにしようとしていたにもかかわらず,そういう自分を手本にして子どもたちに見せてしまっているので彼のわがままを許している雰囲気があることが気になっていたので,
「・・・・・。みんな,なんでゆうとには甘いの?『やめて』とか『それは許せん』
とか,何でゆうとには言わんの?言えないの?ゆうともみんなに甘えとると思う。みんなの優しさはホントにゆうとのためになっとるんじゃろうか?」
と言ってしまった。そして,「みんなも考えてみて。」と投げかけておいた。


 ここで重要なのは,「みんなも考えてみて。」とクラスのみんなに投げかけ一人一人の考えや思いを発露させようとしているところである。クラスのみんなもそれに応えそれぞれ日記に書いてくるのである。Kmは,それをクラスで読み合い,学級通信にも載せ一人一人のゆうと(クラスの仲間)に対する認識を揺さぶったり,考えを交流させているのである。こういう細かい意見交流こそがお互いの人権や思いを大切にし,民主的な人格を形成する力になっていると思う。

(3)Km実践における応答
 Km実践における応答は,一人一人の子どもの行動の裏にある本当の願いを先ずKm自信が汲み取ろうとし,引き受け,それをさらに子ども集団に拡げていく応答である。その中で,ゆうとの変革を作り出していることが分かる。
 Kmは子どもの行動や問題の裏には必ず理由があり,それが分かるまでいい加減にしない。子どもの側に立って,人としての権利主体が子どもにあることを大切にし,どの子も排除しないことを中心に置いて実践をしている。
 子ども集団との関わりで言えば,ここには実践として挙げてはいないが,Km実践には,「みんな遊び」という取り組みがある。その中で起こるトラブルの指導を通して,ルールの改変=その時その時の学級集団の要求に合うように話し合いによってルールを改変していく過程も記されている。これも「豊かな応答をつくり出す」実践のポイントである。

2 学校行事における豊かな応答をつくり出す(大波・平山・藤田実践)
はじめに
 こうたは体が大きく意欲的で活発な子だが,その分トラブルも多い。「言葉がふえればきっと克服できる」と見守ってきたが,衝動的な行動は増え,クラスからも浮いてくる。子どもたちは,こうたの「力づく」での接し方が怖く顔色を伺い,我慢してしまう。
 「こうたの課題は,こうた個人のものではなく,クラスみんなの課題なのでは!」の方針の下で実践が行われた。
 この実践は,保育園での実践であるが,「子どもの願いに応答する」とはどういうことなのかを考えることができる実践として取り上げた。

運動会での取組から3つの応答をあげる
(1)こうたの願いに応答する
運動会の種目を決定するとき,当然,こうたのように配慮を要する子を頭に置く。こうたを排除するのではなく,彼が活躍できるように種目を工夫する。
 しかし,一度決定したものが,大きく変わることはほとんどない。

 ①一人ずつカラーコーンを回って帰り,早く揃った方が勝ちという班競争。
・コーンを迂回。飽きて遊ぶ。
  ○こうたは,コーンを倒して逃げていった。順番が待てない。
②怪獣にごはんを食べさせる競争。
  → コーンを怪獣の模型にし,ごはん(カラーボール)を口に入れて帰ってくる。
  ・ボールを入れるまではOK。帰ってからは遊ぶ。
   ○こうたは,入れに行ったついでに,ボールを全部ばらまいて逃げていった。
③逆に,リンゴやバナナの絵の描かれたカードを持って帰ってくる。
・何となく成立したが,カードを持ち帰るため,カードトラブル発生。
④最後まで楽しめるように,大好き絵本のイラストでパズルをつくり,ピースを
   持ち帰り,パズルを完成させる。
・パズルをつくるのはいつも同じ人で,難しい人は見ているだけ。
○こうたの良さをみんなのものにはできない。
⑤こうたの背の高さを活かすため,上からつるし,高さに差をつけた。
   ・高いところのピースを取りたがり,みんなのワクワクにはつながらない。
   ○手が届かなくて泣いている子を助けに行き,抱え上げようとした。  
⑥試行錯誤の結果,「オロチ競争」に決定。
→ 班対抗で,4人で6つの大型ブロックを持ち帰り,組み立てて最後一番上に,オロチの顔を乗せる。ブロックは大きさがちがい誰がどのブロックを取りに行くかがポイントとなる。
・夢中になった。
   ○こうたは,重たい物・大きい物を運ぶという役割があり,夢中になった。


 ①~⑥は,種目の変遷である。こうたに種目に適応するように働きかけるわけではなくこうたが夢中になれるものをこうたの願いに応答しながら,追求していった結果,オロチ競争にたどり着く。種目が先ではなく子どもの願いが主なのである。
※ 夏祭りに神楽団を呼んで,子どもたちの目の前で舞っている。こうたも子どもたちもスサノオやオ   ロチごっこで遊んでいた。

(2)職員同士も応答し,子どもの願いに応答する
 「ダメでした。」担任の平山先生・藤田先生が大波に報告に来る。こうたがダメと言っているわけではなく=種目に対してダメと言っているのだ。そして,こうたの願いに応答し,次の種目を相談する。オロチ競争が生まれた背景には,種目を一緒に考え,うまくいかなくても一緒に悩み,こうたの願いに応え続けた職員集団があった。子どもの願いに応答するために職員同士も応答している。

(3)こうた以外の子どもの願いに応答する

  偶発的な出来事ではなく意図的な活動の中での仕掛けとして,あえて矛盾が起きる顔」を取り入れた。「話し合って,自分がどれを運ぶか決める。」ルールを設け,“きっと顔をめぐって物申す”場面に直面するだろうと期待したのです。


 日頃から班をベースに活動している大波は,子どもの願いを引き出す仕掛けを仕組んでいた。(オロチの顔と大きさの違うブロック)
こうたもみんなも練習を重ねるごとに夢中になっていった。当然,顔の部分を運びたい子どもが続出し,話し合いで顔運びの役が決まっていった。しかし,こうたの班はちがっていた。こうたが一番に威圧的に「おれ,顔するけー」の言葉で,せいしろう,そうたはいつも譲っていた。そんな中で迎えたある日の話し合い。

 こうた  「おれ,顔するけー。」
せいしろう「オロチの顔のブロックがいい。」
そうた 「オロチの顔のブロックがいい。」

  二人は今まで顔のブロックを運んだことがないので,今日は譲ろうとしません。

こうた  「もーーー。いいじゃん。だって,こうたがしたいんじゃけー。」
「みんなは他のを運べばいいじゃん。」
 
涙を浮かべるせいしろう。

平山 「みんなやりたいんじゃね。どうしたらいいかねー。みんなやりたいのに こうたがするって決めていいん?」
せいしろう「だってだって,いーーーーーっつもこうたよ。」

泣きながら,大声で言った。
  こうたはうつむいて何も言わずしばらく悩んだ表情を見せた後

こうた  「えー,じゃあいいよー。おれ,でっかいブロックする。」
そうた  「よっしゃーー。そうた,顔するー。」

せいしろう「じゃあいいよー,せいしろうは二番目のする。」 


「自分だって顔運びがやりたい。」という気持ちはあっても,いつも譲っていたせいしろうとそうただが,オロチ競争を重ねていく中で,「自分もやりたい。」という気持ちが大きくなっていったのだろう。それは,こうたのためのルールが,みんなで共通の楽しさと
して浸透していったからだ。オロチ競争が優れている点だ。
そして,せいしろうの「だってだって,いーーーーーっつもこうたよ!!」の必死な訴えを引き出したのは,その場面を想定し,いつか言う時が来ると信じて見守っていた平山の姿勢と「・・・・・みんなやりたいのにこうたがするって決めていいん。」の一言だった。
 オロチ競争の楽しさと平山先生の指導言(タイミングも含めて)がせいしろうの要求を引き出したのだ。
せいしろうは,顔ではなく二番目のブロックを運ぶこととなった。平山先生は,顔のブロックを運べる可能性ができた以上に,力づくでの関わりが多かったこうたと,話し合いの中で役割を決めていけたことの中に本当の願いがあったようなスッキリとした表情と書いている。せいしろうの願いに応答し,そうたの願いもふくめ,こうたに広がった。
 この後,こうたは大きな体を活かして,ブロック2つを一度に運ぶという作戦で活躍し,自分が必要とされていることを実感することとなる。
 こうたの願いに応答することがこうたの世界を広げ,こうたに関わったせいしろうの「だってだって,いーーーーーっつもこうたよ!!」という願いも引き出し,さらに,こうたの世界が広がっていった。それは,単にこうたが自分の願いを引き下げたというお話ではない。他者の願いに応答してブロック(=願い)を分かち合うことが,こうたの新たな願いに成長していったということを意味するのである。

Ⅳ 終わりに

 学校の主人公は,子どもたちである。今,学校は子どもたちの声を聞いているのだろうか。そして,その声に応えているのだろうか。
子どもの願いに応答するとは,単に声を聞き,相づちを打つことではない。願いに答えることであり,共に成長することである。
 子どもと教師がつながる。子どもと子どもがつながる。教師と保護者がつながる。教師と教師がつながる。そこには,真の応答が欠かせない。
 第51回広生研大会基調の中で,「気になる子」を大切にし,その子の発達を保障することが他の子どもたちの発達も保障することにつながることが指摘された。それは,我々の生活指導実践において大切にしてきた「個人指導と集団指導の統一的展開」という大原則である。
 ゆうとの願いに真摯に耳を傾けることは,単にゆうとだけを救済することを意味しない。それは,ゆうとの願いに応答するちからが他の子たち(学級集団)の中に育まれていくことを意味するのである。さらには,時にはぎこちなくトゲトゲした感情をぶつけ合いながら,ゆうと自身もやがて周囲の信頼に応え,仲間を信じ自分自身をも信頼する感情が彼の中に育まれていくのである。
 
 こうたの願いにとことん付き合おうとする職員集団と子どもたち。そこには,単に「問題児」への対処で疲弊する悲壮感はない。むしろ,こうたの願いに呼応して,みんなで本気の願いを出し合い,まさに発達主体として立ち上がっていく姿がそこにある。その姿がこうたの心をも動かし,互いの願いに応答し合う心地よい世界を,子どもたちは発見していくのである。そして何よりも,こうたを巡って教師集団の応答関係・信頼関係までもが育まれていく様相に注目せねばなるまい。
 今や,学校という場所では,子どもたちも,そして教師までもが「みんなぼっち」になっているかも知れない。しかし,愚直なまでに「あの子」の声(願い)に耳を傾け,ときにぶつかり合いながら,応答し合う関係を育む取り組みを通して,その子も,子ども集団も,職員集団までもが,ともに成長・発達を成し遂げていく世界をつくり出すことができるのである。








第55回広生研大会(安芸大会)基調提案  2015.8.1. <安芸区民文化C>
                             
広生研大会基調小委員会

居場所づくりを子どもと共に進めよう

1 はじめに
 前回の大会基調はテーマを「一元化する教育に抗して,異質共同の教育を」とした。そして,学校の「一元化する教育」を生徒指導規程やスタンダードの押しつけの視点から次のように分析し,提起を行った。
①生徒指導規定の押しつけは何を生み出すのか
 生徒指導規程の押しつけは,教員に画一的な指導を強要することで,子どもに寄り添えない,例外を認めない,子どもが抱える背景を考えない教員を生み出している。
②スタンダードは何のために行うのか
 小さいときから毎日同じことを繰り返すことで望ましい習慣をつくるのだと,主張されているが,この考え方を無批判に受け入れることはできない。批判的に検討する必要がある。
③異質共同の教育とは 
 異質協同の教育を進めるためには,他者と出会い,認め合うことの必要性を指摘した。しかし,それができない子どもの状況があり,それを「同調圧力」のためであることも理由の1つとした。
④実践から
 実践では,異質共同の教室をつくるための対話の指導について,安藤幸太の二つの実践記録から学んだ。
 1つ目は課題を抱えている子・気になる子との対話である。その対話から,活動をつくりだし,活動を通して,課題を抱えている子どもの行動の意味を学級に広げていった。
 2つ目はリーダーとの対話である。「班長ノート」を通した班長達との対話を実践の柱にして,リーダーとしての力量をつけていった。
 本大会の基調は,前回の基調で提案した異質共同の教育をさらに進めるために,居場所づくりを生活指導・集団づくり実践の重要な柱と位置づけ,さらに,居場所づくりの発展の視点が必要であることを提案する。

2 子どもたちを取り巻く教育や社会の状況

(1)今,進行している新自由主義的教育の特徴~環境介入権力
 私の勤務校は「生徒指導集中対策校」に指定され3年目を迎える。今年度,3年生を担当しているが,今の3年生が入学してきたときから「生徒指導集中対策校」の指導体制のもとで,学校生活を送っている。昨年度よりも「名札がない,ネクタイが緩んでいる,別室行き」など,学校のきまりに違反していると「別室!」と言ってくる子どもの姿が目にとまる。「別室」という言葉が子ども達の間に定着している。

「別室指導」は2つの意味合いを持つ。
 一つは,その子のために行う別室指導である。担任が,その子の気持ちをゆったりと聴き取ったり,まわりの子ども達の気持ちをともに考えあったりする「別室指導」があっても良い。関係を切らないからだ。
 しかし,そうではない「別室指導」が問題である。生徒指導規程というマニュアルどおり機械的に「別室指導」を進める場合がそれに当たる。課題を抱えている子ども達は自分の気持ちを十分に言語化できず様々な行動で表す場合がある。そんな子どもを生徒指導規程の禁止事項に抵触しているとして,別室に連れて行くだけの教員が多くなっている。
 もう一方,子ども達は「全国学力調査及び学習状況調査」,県が実施する学力テストによって,学校・学級・個人ごとにテスト結果を競わせられている。過去問題を春休みの宿題にしているということも聞いた。「全国平均より上を目指せ」という競争の中に学校は置かれている。また,私たち教員には,結果を分析し,対策(数値目標)を立てて教育委員会に報告する義務が課せられている。このように,新自由主義的な教育は行政の指導と命令を通して進められ,「良心的」と思われる教員も否が応でも,新自由主義の持つ「市場化」と「競争」に荷担させられるのである。
 佐藤嘉幸はその著書の中で,「新自由主義は,社会体を全面的に市場化することで,・・・(略)・・・市場の効果を通じて各主体に市場原理を内面化させ,容易に統治可能なセルフ・マネージメントの主体を作り出すのである」(1)と指摘し,そして,このような統治技術を「環境のリスク管理,競争の構築という手段に依拠する環境介入権力」と名づけている。環境介入権力は競争原理を通じて環境に介入する。つまり,教育の制度設計を通じて,子ども達に競争原理を内面化させる。全生研第56回全国大会基調では,「市場的・競争的な原理を内面化して,自分自身の人的能力の向上を排他的に追求する『競争主体』に子どもを教育する。」(2)と述べられている。そして,それに対抗する思想・教育技術が求められている。

(2)スタンダード化による同調圧力
 a.画一的な指導の押しつけの広がり
 広島県内の各学校で数年前から生徒指導規程が導入された。モデルになった学校のそれには,事細かく決まりに違反したときの対応が書かれている。警察連携と別室指導が中心部分である。県教委主催の生徒指導協議会で生徒指導規程に別室指導の日数を明記するように求められた。さらに,県教委は生徒指導の規定の対応部分だけを抜き出し,問題行動対応マニュアルとして県内の小・中学校に広げようとしている。そのねらいは,学校の考え方や方法を明示し指導の透明性を確保することで,子ども達に安心感を与えるものとされている。しかし,その本質は,学校の説明責任の担保のための方策である。そのため,生徒指導主事が対応マニュアルどおりに各教員が行っているか,点検をしている学校が増え,また,そのチェックの項目が多くなっている。
 事細かく対応が決められていればいるほど,どの子にも形式的に同じ対応が求められる。そのため,事務的な仕事の量が膨大に増え,対応が追いつかない場合も出てきている。

 b.スタンダードの広がり
 昨年の大会基調でもふれたが,さらに各学校にスタンダードが広がっている。たとえば,H市では,スタンダードに曲をつけて,毎日歌わせている。F市では,毎時間の授業に膨大なチェック項目のある補助簿が導入されている。K市では,掲示された子どもの作品にも注文が付いた,等の報告がある。また,給食スタンダードや掃除スタンダードもある。スタンダードを全家庭に配布し掲示するよう指示した学校もある。さらに,授業においても,「本時のねらい」と「ふりかえり」に固執した画一化された授業展開と板書計画やパッケージ化された学習内容も増えてきている。

c.学年内・学校内での同調圧力
 同調圧力には,二つの側面がある。
 一つは,生徒指導規程やスタンダードへの同調を求める「上」からの同調圧力である。たとえば,課題のある子どもを抱えた学年・学級が教員の間で問題にされ,生徒指導規程どおりに指導することが求められたり,宿題の出し方・ノートの書かせ方・休憩時間の過ごし方なども教員の間で差異がないように「上」からの同調圧力がかけられている。
 職員会議の位置づけが「職員会議は,学校教育法第二八条第三項等において『校長は,校務をつかさどり,所属職員を監督する』と規定されている学校の管理運営に関する校長の権限と責任を前提として,校長の職務の円滑な執行を補助するものとして位置付けられるものである」(3)とされたことが,その一歩であった。
 その結果,学年・学校の教員集団で自ら決定し実践していこうとする考え方が弱くなり,細かいことまで揃えようとする傾向がますます強くなっている。これが二つ目の同調圧力である。教員自ら,突出を避けようとする横並びの同調圧力である。目の前の子ども達の実態から教育実践を始めようとすることや子どもに寄り添い,思いを聴き取る指導は共有されない。いろいろな個性を持つ教員が,互いを尊重し,議論して実践を創り上げてきた民主的な学校から,「校長のリーダーシップのもと組織的・機動的に運営される」学校へと変化してきた。

(3)道徳の教科化について
 2014年10月21日,中央教育審議会(中教審)が,その前年12月26日の道徳教育の充実に関する懇談会の「今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告)」を受けて,早ければ2018年に道徳の教科化(特別の教科)を目指す答申をまとめた。そのきっかけは,近年頻繁に起きたいわゆる「いじめ自殺」の問題が発端のようであるが,政府・文科省は以前から道徳教育に「てこ入れ」をしてきている。
 そんな中,特設道徳に対抗する形で立ち上げられた全生研・広生研として,道徳の教科化は見過ごすことはできない問題である。私たちは「徳目注入の道徳」を否定しているのであって,道徳教育そのものを否定しているわけではない。そうではなく,子ども達を民主的な社会の形成者にふさわしい市民道徳を創る主人公にしていきたいと「徳目注入の道徳」を批判してきた。しかし,この間,政府・文科省が推し進めてきたのは,愛国心を中核に据えたいわゆる「徳目」を教え込むための「徳目道徳」であった。
 それが,「特別な教科」として,「検定の教科書」を使い,記述式とはいえ「評価をする」形に強化されようとしている。問題点は3つある。
 第1は,「特別な教科」とすることで,教科内容の拘束力を生じさせ,国家統制が強められることである。第2は,「検定教科書」の使用が強制され,教員の教育の自由が侵害されるということである。そして,そのことを通して,国家が推奨する特定の道徳的価値の受け入れを子どもに強制し,子どもの思想・信条の自由,良心の自由や学習権を侵害する危険があるということである。第3は,評価の問題がある。道徳の評価は子どもの内心や人格そのものを対象とするからである。
 これらのことにより,子ども達が,思想・信条の自由,良心の自由や学習権を放棄し,自ら進んでその評価に従おうとする客体になってしまう危険性がある。子どもの「内面の自発的な道徳観念の成長をむしろ抑制」(4)することになりかねない。
 では,どう取り組んでいけばいいのか。それは,それぞれの思いや願いを表明し合ったり,聞き取り合ったりしながら,他者を尊重することや他者と共存していくことを日常の生活から学ぶことが基本でないだろうか。

3 学校では
 
 上記の2では,子どもたちを取り巻く教育や社会の状況が厳しいことを述べたが,子ども達はどうであろうか。
 子ども達はどんな夢を持って学校に来ているのか。学校にどんな期待をしているのか。今の学校体制では,学校には夢も希望もないように見える。しかも,年齢が上がるにつれてあきらめ感が強くなっている。しかし,決してそんなことはないはずだ。多くの子どもは学校に何かを求めて通ってきている。
 8:30の始業にも関わらず7:45頃には校舎のドアが開くのを今か今かと待っている子どもたちが多くいる。通りかかる先生達に「おはよう。」と誰もが元気に語りかけてくる。楽しそうな登校風景だ。ドアが開くと走って教室に行き,ランドセルを片付け,朝の準備をすませると外に出て元気にボール遊びに興じる子ども,教室でおしゃべりを楽しむ子ども,それぞれ,朝のわずかな時間を精一杯満喫している。そこには少しの時間と少しの自由を味わう場所があり,かけがえのない仲間がいる。もちろん,遅刻ぎりぎりで教室に滑り込む子どもや疲れた顔をしている子どもも一方ではいる。
 しかし,朝一番のチャイムを境に教員たちから笑顔が消え,学校は子どもから自由を奪う。正確に言うと,自由を奪われたのは子どもだけでなく実は教員も同じだ。
 授業でも“自由”がない。子ども達はみんなまっすぐに手を挙げる。前に出て説明する動きもみな同じである。発表された意見に対しては,「わかりました。」「同じです。」を連呼する姿も同じである。隙のない授業,いやシナリオに忠実な画一化された授業が進められる。始業前に見せていた子どもの笑顔はなく,手の挙げ方や話し方,黒板を使っての答え方などをマニュアルとして事細かく覚えさせられるのである。これは広島の学校で行われている実際の授業風景だ。子ども達から喜怒哀楽の感情は見えてこない。
 教室に入らず廊下や校内をうろつく一人の中学生がいる。彼の思いをくみ取ろうとせず問題行動として捉える教員(集団)に悪態をつく。学級や仲間から排除され,悶々とした思いを攻撃的な言動で表す。排除の側にいる教員には心を開くことは決してない。
 それでも毎日学校に来ている。その理由は何か。彼はある一人の教員に対しては自分から声をかける。しゃべり方は他の教員に対して変わりはないが,言っている中身は違う。「先生。」と声をかけることはなく「おい○○。」とその教員のあだ名で呼ぶ。その事実を知った規程遵守の教員集団はその行為を許されないとして,これまで以上に強い口調で指導しようとする。当然そういう指導には従わず,彼と教員集団との関係は離れていく。「おい○○。」と呼ばれた教員も表面的には「お前にそんな言い方されたくないで。」と言いながらも本音では許している。あるとき中学生は,「俺は最後までお前のことをあだ名で呼ぶからな。」といつものように話しかける。思わず親指を立ててOKサインをする教員。教員の返事にこちらも思わず「おお。」と親指を立てて応答する中学生。一人の中学生と一人の教員。言葉でのやりとりは短いが,応答は成立している。自分をわかってくれそうな教員に探りを入れながら関わろうとする一人の中学生と,常に中学生の立場に立って考え実践している一人の教員がここにいる。
 二つの事例を述べたが,こんな子ども達の姿から私たちは今を必死で生きている健気な子どもの気持ちを汲み取る必要がある。それは,まわりの仲間達とつながりながら,様々に活動すること,その中で泣いたり笑ったり喜んだり悲しんだりしながら,これまでの自分に付け加えて新しい自分を発見することではないだろうか。
 さて,教員の側も,子どもの立場に立って物事を考え実践する自由を奪われ,いつしか「子どものため。」と言いながら次々と子どもに「縛り」をかけざるを得ない。教員が設定した学習課題を何が何でも達成しようとする授業者も,規程遵守で中学生を管理している教員たちも,実践の自由を奪われ苦しんでいる教員なのである。

 4 私たちの実践課題と実践課題に迫る視点

 国立教育政策研究所発行の生徒指導リーフに,「絆づくり」と「居場所づくり」(平成27年3月 2版)がある。そのリーフに,「『居場所づくり』とは,児童生徒が安心できる,自己存在感や充実感を感じられる場所をつくりだすことを指しています。すなわち,教職員が児童生徒のためにそうした『場づくり』を進めることであり,児童生徒はそれを享受する存在といえます。」(下線は同リーフ)とある。また,同リーフに次のような箇所もある。「学級や学校をどの児童生徒にも落ち着ける場所にしていくことが『居場所づくり』と言えます。」
 このように,「居場所」を「落ち着ける場」として捉え,それを作る主体は教員であり,子ども達はそれを「享受」するのである。「享受」とは「居場所づくり」の客体に置かれていることであり,決して主体として行動することが無いように,ということを意味してはいないだろうか。 
 この主張には,新自由主義的な教育施策の考えが裏にある。それは,学校の市場化を進める考えである。学校の市場化のためには,「学校」の「商品的価値」を一律にする必要がある。文科省としては,このように子ども達の居場所を作っているという説明責任をして,子ども達が「安心でき,自己存在感や充実感を感じる場所」を「居場所」=居所を作る作業を教員の役割としている。
 文科省の主張はさておき,私たちにも「居場所」を,その子が居て安心できる場所として捉えてはいないだろうか。ここに留まっていては,私たちの集団づくり実践は進めることはできない。子どもを主体=主人公としていくために「居場所」の捉え直しが必要なのではないか。それは,子どもたちの存在論的安心を保障してくれる場としての「居場所」だけでなく,自分たちの要求(存在要求や発達要求)の実現に向けて共同していく場としての「成長のための居場所」へと捉えていくことである。
 「成長のための居場所」としていくために,私たちは,子どもたちが自分たちの必要と要求に基づいて,学級生活の中に様々な決まりやルール,活動(自治的活動,文化的活動など)や組織(班やグループ)をつくり出していく,そのような自治を追求していく必要がある。


5 実践から学ぶ―西海 久実践「ショウ君の思いは・・・?」より―
(この章では,西海先生のレポートを引用した部分をゴシック体で表記し,引用者が補足を加えた部分を明朝体で表記する。)

 私たちは,子どもが互いの思いや願いを聞き取り合って,「共に成長していく居場所」をつくり出す実践を目指していきたい。従来ならば,特別活動など教科外の取組が中心になることが多いのだが,今回は教科の授業づくりを中心とした実践に焦点を当ててみよう。それは,前述のような学校の「市場化」「商品的価値の一律化」の流れの中で特別活動の自由度と時数が奪われていく現状に,抗していく一つの道筋であると同時に,以下のような意義があると考えるからである。
 教科の授業は「学力向上」のような分かりやすい成果が絶えず求められ,言わば新自由主義の主戦場と化している。かろうじて「学力向上」の大号令から逃れることができる体育や音楽,図画工作(美術)技術・家庭科なども,かえって個人差が顕わになり易く,競うことがむしろ授業のモチベーションになるという特性がある。すなわち,そもそも「授業」は個々の能力向上を競争的に目指す場になりやすく,勝ち残った者だけが居場所を得るような成果主義の競争場と化しやすい。
 しかし,そうした勝ち残り競争の場になりがちな授業においてこそ,子どもの思いや願いを聞き取り合って居場所づくりを進めていく実践が強く求められてもいるのである。西海久先生も,そうした成果主義的な競争に抗する実践を,体育の授業づくりを通して追い求めている一人である。運動が得意な子だけが居場所を得るような学級にしたくない。運動が苦手な子も得意な子も,つながりを紡ぎながら運動を楽しみ,そこに各々の居場所ができていく。そんなイメージを思い描きながら取り組まれた実践を取り上げてみよう。

1.はじめに
 「体育の授業で子どもをつなげる実践を意識してやってみたい」ずっとそう思いながら,なかなかやり切れないでいた。今回,サッカーとバスケットボールの授業を通して何か見えてこないだろうか?という思いで取り組んでいる。
 6年1組 男子17名 女子17名,(中略)言われたことや指示されたことはきちんと行い,校長先生からもよく評価されているできた学年。でも実はしんどいことや本当の気持ちをうちにしまい込んで,まぁいいかといった感じで目をそらしたり,気づかないふりをして済ましてきている。修学旅行の班決めの時もなかなか本音が出せずに顔色をうかがいながらの決定だった。(中略)卒業をまじかに控え,なんとなくざわっとした雰囲気。特に問題もなく楽しそうに見えるが,やはりちょっとしたことがスルーされている感じがする。

2.授業の流れ
(1)アンケート ねらいは,子どもたちのバスケットボールの歴史を知ること。今までのバスケットボールの授業で,みんなが楽しかったこと,できるようになりたいこと,困ったこと,いやだなぁと思ったことなどを知り,どんな授業にしていきたいかを考えるもとにする。(中略)
(2)めあての決定 アンケート結果をプリントにして配り,それを読み合わせた後にバスケットボールのめあてをみんなで考えた。そのとき次のような話をした。
・このアンケートは,下手にさせられてきた,苦手にさせられてきた歴史であり,みんなうまくなりたい,シュートをしたいと思っていること。
・でも,苦手な子にパスしようと思っても,動いてくれないのでパスができないときがあること。
・それはもしかしたら,苦手な子は動き方がわからないんじゃないかということ。(中略)
 その後,生活班ごとにめあてを話し合い(中略)授業のめあてを次のように決定した。
『みんながみんなでうまくなるバスケットボールをして全員シュートを目指そう』
 めあて決定の後,今回の授業で考えている野球型バスケットボールについて説明をする。野球型バスケットボールは,ハーフコートを使い3:2で行う。野球のように攻守交替制でワンプレイ(ゴールが決まるかボールデット,あるいは1分間)を3回行えば攻めと守りを交替し,それを3イニング繰り返す。記録用紙に誰が出場するのかをあらかじめ記録し,どんな作戦でゴールを狙うのかも考えてそのための練習をしていくことを確認した。
(3)シュート調査 シュート調査の目的は,シュートの決まりやすい場所があることを知るためのものであり,(中略)子どもたちのシュート力も把握するねらいもあった。
(4)チーム決め 立候補した8名のリーダー(男子5名,女子3名)が集まりチーム分けをした。シュート調査や普段の学習をもとに,バスケットボールを苦手にしているだろう子どもたちを確認した。その子のがんばりを応援して一緒にがんばれる子を決めていった。
(5)試しのゲーム

3.注目した子どもたち(バスケットボールの班 7班)
 ショウ …アスペルガーの診断を受けている。一人っ子。母親は,ショウ君がクラスで浮いてしまうことを心配している。変わったところはあるが,「ショウ君はそういうところもあるよね」とわりとクラスの子どもたちには受け止められている。修学旅行の班決めの際,先生に決めてもらったほうがいいと言った一人。運動経験が少なく,運動能力はかなり低い。読書が好きで,車好き。テレビはほとんど見ておらず,ゲームも得意ではない。長縄大会のこと。①
 ハルナ …特定の友達がいないと悩んでいた。修学旅行の班決めの際,先生に決めてもらったほうがいいと言ったもう一人。一番振り回されてつらい思いをすることになった。その後,班の友達と気が合い,今は非常に明るい。ちょっと不思議ちゃん。学力は高い。
 マキ  …4年生の時に転校してきた。体が大きく,おっとりしている。相手に対して気を遣うところがあり,自分が引いてしまう。修学旅行の際も,一番最初に悩みを相談してきた。ショウ君とは家が近く,朝は一緒に登校してくる。時々放課後に遊んでいるようだ。勉強は苦手。
 ヒロ  …このチームのリーダー。立候補でリーダーになる。クラスではお調子者で人気がある。授業中でもわざと変なことを言って笑いを誘う。チーム決めの際,ショウ君のサポートに手を挙げてくれた。学力は高いがじっくり考えることは面倒くさがる。

4.ボールが怖い  試しのゲーム(1月29日) 練習とゲーム①(2月5日)
 野球型バスケットボールの試しのゲームをした。ふと見るとショウとヒロがボールの奪い合いをしている。
マキ: ショウ君やめんちゃい。
  : 味方同士じゃん。
  : 味方同士でボール取り合ってどうするんか。
T : ショウ君,勘違いしてるでヒロ君は味方なんで,
 それでもショウは必死でヒロからボールを奪おうとしていた。ドリブルで逃げようとするヒロを追いかけて。(ちょっとうれしそうに)
 その時は,とりあえずストップをかけてもう一度やり直させた。あとでヒロにどうしてそうなったのかを聞いたが,よくわからない,びっくりしたと言っていた。ヒロはその日,「チームの課題と反省」として感想に,「ルールを知ろう。パスをまわそう。ショウ君に楽しませる。」と書いてきた。
後日,ショウにその時のことを聞いてみたが,よく覚えていないと答えた。ヒロが味方であることはわかっていたという。

 次の時間からは兄弟チームとのパスーシュート練習をしてからゲームを行うパターンで授業を進めた。パスの練習に入って声掛けをしながら各グループを回っていたとき,ヒロたちのグループの思わぬ場面に出くわした。ショウがパスのボールを全部弾き返すのだ。
マキ : ショウ君違うよ。ボールとるんよ。
ハルナ: はじいちゃだめよ。キャッチせんにゃ。
ショウ: わかっとるよ。
マキ : 手広げてとるんよ
   : 違うって,ボールをとるんよ。
ショウ: やりよるけど,出来んのじゃけえ。
T  : おぉショウ君はじいてしまうんか。ノーバウンドで来たらやりにくい?
T  : どんなボールならショウ君が取りやすいかね?
ヒロ : ワンバウンドにする?
T  : あぁそれいいんじゃない。そうしたら取れそうかね。ショウ君?
ショウ: あぁ…。うん。
授業の後,職員室に鍵を返しに来たショウと話をした。ショウは体育係なのだ。
T  : ショウ君どんな感じ?バスケットボールは?
ショウ: えっ。はい。まあまあです。
T  : そうなん。今日,なんかボールをバンッて弾き返しよったやん?ボール怖い?
ショウ: ・・・はい。怖いです。
T  : そうかぁ,でも途中からワンバウンドとかにしてくれてたやん。あれなら取れそう?
ショウ: はぁ,なんとなく。
T  : ふ~ん。ねえショウ君。今までバスケットボールとかの時どうしてた?あんまり動いてなかったんかね?
ショウ:はい。あんまりやってませんでした。
T  : どんな感じやったん?
ショウ:う~ん,端のほうであんまり目立たない感じで。
T  : じゃあ,今までとかパスされたり,触ったりしてないんだ。
ショウ:はい。やっていません。
T  : 今やってるバスケットボールってさあ,絶対ショウ君も動いたりパスしたりせんとあかんのんよ。やっぱり,ボールパスしたりシュートしたりするほうが楽しいって,みんなで確認したやん。覚えてる?ショウ君はどう思ってるんかな?
                      (妥当じゃろうと答えていたショウ)※1
ショウ:シュートで来たらうれしいと思う。※2
T  : そうなんや。じゃあ頑張らなあかんな。ヒロがさあ,この前の感想で,チームの目標に「ショウ君を楽しませる。」って書いてたんよ。チームのみんなも協力してくれるよ,だから頑張ってみよ。
ショウ:はい。
ちょっとショウは涙ぐんでいるように見えた。何の涙だろう。やっぱりショウもできるようになりたいんだろうなと思った。でも思い通りにいかないしんどさやどうやっていいかわからないもどかしさがあるんじゃないだろうか。

5.サークルで検討されたこと
(中略)
(1)「妥当じゃろう」※1 /「シュートできたらうれしいと思う」※2を巡って
 クラスでめあてを決めたとき,「いいと思います。」「いいです。」といった意見の中,ショウ君は「妥当じゃろう。」と言った。私はそれをショウ君も賛成したものと受けとり,このときの発言になったのだが,「妥当じゃろう」にはショウの違った思いがこめられていたのではないかと言う意見が出た。つまり,「別にそれでいいんじゃない,妥当だと思うよ。でもぼくは今までと変わらず距離を置いてじゃまをしない参加の仕方するけどね。」今までの経験から,自分が入ることで和が乱れることを知っているから入らないと言う方法を選んできたショウ君は今回も自分はそうすればいいと考えていたから,「妥当じゃろう」と言ったのではないだろうか。
 なのに西海先生はがんばれという。ゲームに参加しろと言う。そのしんどさ,がんばらなければならないしんどさがショウ君の涙の理由だったとしたら。「シュートできたらうれしいと思う」というのは本当にショウ君の思いだったのだろうか?西海がそう言わせたのではないか。そうとしか答えられないような会話になっている。西海先生のよくやる追い込み方だよね。
 そのとおりだと思った。上手くできないもどかしさだとは言い切れない。運動が苦手な子や上手くいかない子どもの思いをどう受け止めるのかはしっかりと対話することが大切だと思った。

(2)「そんなん知らんかった」
<引用者補足>
 パス回しの練習の時,ショウがパスの起点になるというのがチームの作戦だったようだが,なかなか上手く機能しない。ショウ君は「そんなん知らんかった」という。<補足ここまで>
 ショウ君はチームの仲間と一緒に考えていなかった。教えてもらう人と教えてあげる人の関係。なんとなく上下関係があって,ショウ君はお客さん(してもらってる人)になっていたのではないか。だからいわれたとおりには動くが主体的ではなかった。言われるがままに右往左往するが自分が何をやっているのか何のために言われたところに動いているのかをショウ君は理解していなかったのだと思う。ショウ君も一緒に作戦を考え,チームのみんなと一緒に頭をつき合わせて考える場面をつくらなければいけない。(中略)

<引用者補足>
 教師なら誰しも,子どものために良かれと思って,自らの願いを語ろうとするだろう。前述の「子どもに学校のスタンダードを押しつける教師」も,子どものために良かれ信じてその行為を選択しているに違いない。
 西海先生は,「運動の上手さ」だけに焦点が当たるような,言わば「体育のスタンダード」に抗して,「つながり合って運動を楽しむこと」ことを子どもに教えたかった。しかし,これまでとは異なるその価値観を持ち込むまでは良いとして,これまでよりもむしろ強烈にショウ君に押しつけてしまったようなのである。これは少々奇妙なことであるが,画一的な学校スタンダードを子どもに強要する教師と,それほど大きな違いはないのかも知れない。
 それはつまりこういうことだ。
 一方では,どんなに民主的な人権感覚を持ち合わせている教師であっても,子ども同士が思いや願いを表明し合い,ともに居場所をつくっていく実践は,そう簡単ではないという自覚がいるのである。結局は別の価値観を子どもに押しつけているだけではないのか?という反省的思考を忘れてはならないし,それを思い出すために,我々はサークルで学び続けているのである。
 そして他方では,画一的なスタンダードを押しつけ,同調できない者を排除する教師であっても,背後には,ある種の教育愛が存在しているはずだという見方ができるのではないか。もしかしたら,自分がやっている「指導」に対して,生きづらさや疑問を抱いている教師も少なからずいるのではないか。
 「子どものために」という根源的な願いのレベルでは,両者はそれほど違わない可能性がある。ただ,「何をどのように指導することが子どものためになるのか」という方法レベルで選択肢が異なるということだ。だから,「子どものために」という願いのレベルで共感する関係を築くところから,今の学校現場を覆い尽くす環境介入権力や同調圧力に抗していく筋道が見えてくる可能性がある。このような「学校づくり」の視点を,広生研としても検討していかねばならない時期に来ていると思われる。
 さて,話を元に戻そう。サークルでの検討を通して,子どもの思いや願いをもっと丁寧に聴き取ることが必要性だと自覚した西海先生。どのように実践を組み立て直したのだろうか。<補足ここまで>

6.その後の取り組み
 2月19日  この日から記録用紙に「誰がシュートするための作戦なのか,みんなで考えて動きを練習しよう」と書いた。ショウがシュートするための作戦を,ヒロが中心になって考え,それをショウに伝えるのではなく,ショウのための作戦づくりにショウも参加することを意識させた。それまで,なんとなくその場にいただけだったショウに
マキ:ショウ君,作戦考えるよこっち来て
ハルナ:ショウ君ここに座りんちゃい
T:ショウ君,作戦わかる?
ショウ:はいわかりますよ。僕がここに行って…
T:おお,すごいじゃん。じゃあそれが上手く成功するように練習じゃね。
 作戦は,ヒロがボールをドリブルして敵をおびき寄せ,その間にショウ君はゴール下に移動,もう一人が敵の後ろでパスをもらってヒロにパスをするというものだった。
 しかし,ショウは感想を書いておらず
ハルナは「負けたけど,チームワークは深まった気がします」
ヒロは「前よりはパスがつながった。今度はみんながゴールを決められるようにしたい」マキは「パスをするときの注意がわかった。パスをするのは難しい」
とそれぞれ感想を書いている。

 2月26日  この日も同じ作戦でゲームに臨んだ。ゲームを見ていると,ショウ君はゴール下で待っているのだが相手ディフェンスもマークしてくるので,ショウにパスしようと思ってもなかなかパスができないでいるようだ。ショウ君は動かなくてはと思い寄ってくるので仕方なくもう一人にパスをする。偶然,ショウ君がフリーになった時があってもあせっているのか見えておらず,パスができない。そんなゲームをしていた。感想は
ショウ:「班のみんなと協力してプレーした。大体,作戦通り試合ができたのでよかった」
ヒロ :「今日は全員シュートが打てたけど,作戦が上手くいかなかったからもうちょっと練習のときみんなと話し合いたいです。」
ハルナ:「負けたけどシュートが決まってよかったです。」
マキ :「分かったことは,相手チームのボールの動きを見ることです。ボールの動きを見ることで次に誰にパスするかわかりました。」
 ショウ君とヒロ君の作戦の成否に対するとらえ方が違っているのが気になった。また他のチームも作戦通りに行かなかったとき,そのままドリブルやパスをして点が入るかはいらないかで一喜一憂しているチームがあった。そこで
T:点が入るのも大事だけど,なぜ野球型バスケットボールをしているのかも考えてみようや。どんな動きをしてシュートチャンスをつくるのか,3:2だから絶対にチャンスはつくれるよ。適当に動いてシュートが決まるのをよしとするんじゃ,野球型バスケットボールをやっている意味がないんじゃない?
といった内容のことを言った。(中略)

<引用者補足>
 明らかに,ショウ君の参加の仕方が変わってきたことを読み取ることができる。少なくとも,チームの作戦に対して,「そんなん知らんかった」ではなく,「はいわかりますよ。僕がここに行って…」という対応を見せている。もっとも,まだ自分の役割を上手く果たすこと未だできていないから,プレー自体が楽しくて参加しているわけではないだろう。それでもチームで考えた作戦通りに実践しようとしているのはなぜか。作戦の中身や意図以上に,彼がこの時点で最も理解しているのは,「仲間の思い」ではなかろうか。
 チームとして,まだ何もかもが上手く機能していなかった頃から,ヒロは「ルールを知ろう。パスをまわそう。ショウ君に楽しませる。」と明言していた。その思いに,具体的な行動で応えようとしているのだろう。こうしたショウ君の思いの変化が,次の言動へとつながっていくことになる。<補足ここまで>

<3月6日>
 いよいよ最後の授業となった。昨日のゲームの際,ショウ君は「勝つことが目的じゃないんで,どう動くかが大事なんじゃけぇ」といったようなことを言っていた。この日の記録用紙にもそのことを書いて,話し合いのときもそのことを主張していた。
 ショウ君の動きはよくなってきている(フリーの場所を判断してその場所へ動けるように
なってきている)のであとは焦らずにお互いが周りを見てプレイできるかだと思っていた。
 残念ながらショウ君のシュートは入らなかったが,チームは初勝利をあげることができた。
 試合は,バスケットボールらしかった。ゴール下のショウ君は,パスがもらえないと判断したら1回外に出てパスをもらって中の人に渡すといったようにパスをまわし,チームのメンバーとしてしっかりとゲームに参加していた。
ショウ:「フリーになっている場所を見つけ,そこに動いてパスをもらうようにした。」
ヒロ :「今日はすごくパスが回って作戦もできたからすごく良かった。」
ハルナ:「作戦が上手くいって初めて勝ちました。とてもうれしかったです。」
マキ :「初めて勝ちました!今までやってきた試合の中で一番たのしかったです。」

 その後の授業で変わったところは,練習だった。それまでショウ君は何回か自分の出る作戦パターンの練習をしたら,後はシュート練習をするか,隅に座って休んでいた。
 マキが積極的にショウ君に声をかけ,ショウ君の動きを確認しながらパスやシュートの練習をするようになった。一番ショウ君に声をかけていたのはマキだった。しかし,単元終了時のまとめのプリントにはヒロとハルナは次のように書いている。
 ヒロ


 ハルナ


7.最後に
 サークルでレポートをした後,ショウ君が7班のメンバーとして一緒に作戦づくりに加わり,ショウ君のさせてもらう感(=ショウ君が「させてもらっている」ような感じ―引用者補足)のない取り組みをしようと考えた。ショウ君は今までのいてもいなくても関係のない立場だったのがチームにとって必要な立場へとなれるのだと自分の存在感を実感できたのではないだろうか。そのことでショウ君の願いは,自分もバスケットボールでの存在感をもっと感じたいという願いに変わっていったのかもしれない。
---------
 能力主義的な競争の場となりがちな体育において,西海先生は「子ども同士がつながっていく実践」に挑んできた。それは,運動に苦手意識をもっているショウ君の願い(存在要求や発達要求)を丹念に読み解き,その実現に向けて共同していく場をつくり出そうとする試みである。
 西海先生がショウ君の願いを読み解き,方針を見据える。それを具体的な取組の内容にまで具体化してチームの仲間たちにアドバイスし,適切に価値づけていく。ショウ君も楽しみながら願いを実現することが,仲間たちの願いでもある。この実践は,ショウ君の居場所づくりの実践であると同時に,それに取り組むことで,自らの居場所もそこにあることを確かめていった仲間たちの物語でもあると言えるだろう。
 私たち広生研は,自分だけが生きられる居場所を排他的に追求するサバイバル競争の教室を目指さない。かといって,教師の権威によって平和が維持された統治の教室も目指さない。なぜならば,教師によって提供された,ある意味において平和な「居場所」では,子どもの願いが「要求」という形で本気で提出されることがなく,しがたって相互の対立が起きることもないからである。そこには,民主的な生活主体・要求主体としての子どもがいないのであって,教師の権威によって平和的に統治された客体としての子どもがいるだけである。
 私たちは,誰かの願いが実現される「居場所」が,仲間の力によってつくられるとき,仲間たち自身も,自分が必要とされていることを実感できる「居場所」が創出されると考えている。そこにこそ,ともに育っていく場=成長の場としての居場所があると信じているのである。
 往々にして能力獲得の競争場となりがちな教科の授業においてさえ,それが実現できるのだということを,西海実践は物語っているのである。

6 終わりに~まとめにかえて
 昨年の集団的自衛権の閣議決定,特定秘密保護法の施行,そして今,今国会最大の焦点である安全保障関連法案が16日午後の衆院本会議で採決され,与党などの賛成多数で可決,参院に送付された。また,選挙権が18歳以上に引き下げられ,来年夏の参院選から適用される。このような政治状況において,若者の声が大きくなっている。
 たとえば, SEALDs(シールズ:Students Emergency Action for Liberal Democracy - s)のような行動がある。そのウェブサイトには「自由で民主的な日本を守るための,学生による緊急アクションです。担い手は10代から20代前半の若い世代です。私たちは思考し,そして行動します。」とある。
 しかし,2章で指摘したような教育状況は,シールズのように自ら立ち上がる者を,つくりださない教育施策としか考えられない。今一度,だれのための教育なのかを自ら問うことを強調して,本基調のまとめとする。
(文責 猪野康二,柴坂和彦,山口俊幸,山﨑正史,八木秀文)

引用と参考文献
(1)佐藤嘉幸(2009)「新自由主義と権力」人文書院,80~81頁。
(2)全生研第56回全国大会紀要14頁。
(3)学校教育法施行規則等の一部を改正する省令の施行について(通知)平成一二年一月二一日
 (3)道徳の教科化については以下の論文を参考にしている。
 NHK 時論公論「”特別の教科 道徳”の課題」2014.10.22 (西川龍一解説委員)
道徳「教科化」に関する中教審答申を受けての会長声明 2014.11.12 東京弁護士会会長 高中正彦
(4)佐藤和夫(2015)「良心と道徳意識が育つために」『教育』№832,かもがわ出版,52頁。




トップページに戻る
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


54回広生研大会基調提案・・・・・2014年<ビューポート呉>

一元化する教育に抗して,異質共同の教育を
大会基調小委員会

Ⅰ.学校の姿

1.教師と子ども・子どもと子どもが関わる姿
 第53回広生研大会は,「対話」でつくる安心と平和の教育を」をテーマとし,対話を「自分の価値感と相手の価値感をすり合わせることによって,新しい第3の価値とでもいうべきものを創りあげることを目標としている」ととらえた。それは子どもと教師そして子どもと子どもの間で行われる対話を見据えていた。その後,子どもとの対話を出発点とした実践が進められた。
 ・自分の思いを言葉に表すことができずすぐに手が出てしまう小学1年生のA君の  居場所をつくり,半年後には集会活動を通してA君の思いを自分で語らせ,集会  のルールを一緒につくる中で自分の行動を見つめさせた坂本実践。
・思い通りにならないと荒れる小学2年生のB君。彼を受け入れる肯定的な声をかけ続けながらも,少しずつ彼の受け入れ可能な要求をみんなの前で出し始め,それを受け入れ変革してきたB君の姿を学級全体に見せることで,B君を受け入れ共に育つ集団にしていった上尾実践。
・一人の悩みを本人の了解を得ながら班長会で取り上げ,それが学級共通の課題であることを確認させ,意見を出し合わせる中で子どもたちが解決の方向性を見出し行動に移す動きを育てた西野実践。
 このように,困難な状況でもしたたかで前向きな実践は行われている。しかし,予測していなかった子どもの動きに対して,その場を収束させるために子どもと話すという話をよく聞く。教師が何かを意識・意図して対話が行われなければ,子どもと子どもをつなぐことは困難である。言い換えれば,教師と子どもの対話が教育的に意識されることで初めて子どもと子どもの対話をつくり出すことができると言えよう。しかし先にも述べたように教師が意識的に対話をつくり出すことが困難になっている。それがなぜなのかを改めて考え,子どもと子どもをつなぐためにどう実践をつくり出すかを考えてみたい。

2.授業・学び
 子どもが過ごす時間の大半は授業での学びの時間である。本来子どもは新しい知識の獲得や新たな発見に向け,知的に思考を進める。自分の考えを深めるため,教師の説明を聞きまた友だちの考えを聞く。そこには常に新たな疑問や目標を自分の中につくり出す動きがある。学年内に複数のクラスが存在すれば,学習の進度をある程度そろえることはあっても,1組と2組では違う展開で授業が進められるはずである。学びの主体者が違う以上,それは当然のことである。複数の学級があれば,それぞれの集団で学んだことを学年集団等で更に影響し合い,新たな力を生み出す。これを繰り返しながら学びがいを感じていく。授業は新たな認識力を育てると共に,子どもと子どもをつなぐ絶好の時間であり,場である。
 では,今,学校で子どもたちは学んでいると言えるのだろうか。学びがいを感じているのだろうか。どの教室を見ても同じような掲示物があり,同じように黙々と続けられる反復練習。教室間の違いは感じられず,担任の性別や年齢そして話し方が違うだけの世界。教師は点数での結果を求められ,その目的に合わせた学習スタイルで授業を進めざるをえない状況になっている。着ベルができたり静かに授業を受けたりする学級が評価される。一緒に学習することで「できた」「わかった」と喜ぶのではなく,テストの得点のみに一喜一憂する子どもになっているのではないか。そこには子どもの関わりは存在しない。教師が設定した判定基準に少しでも早く達するために自分を奮い立たせる。そのために隣や前後に人がいるだけかもしれない。
 そういう状況下でも,子どもが生き生きと学ぶ授業づくりを目指した実践もある。個別指導をしながらも,一人一人の思いや考えの違いを明らかにしながら学級の中で固有の出会いを導き,テーマに即した討論を可能とする学びの世界をつくり出した実践が報告されている。違いを尊重しながら新たな発見や喜びを見つける集団が育ち,共に学ぶ姿がそこから見えてくる。
 学校は一人一人の知的欲求を大切にし,それを充足させることとそれに至るための方法をどうつくるかを考える必要があろう。子どもが生き生きした学びをつくり出すことが今教師に問われているのではないか。

Ⅱ.子どもたちを取り巻く状況

1.経済格差と教育
 公立小中学校に通う児童生徒総数の15.8%(2011年 文部科学省)が就学援助を受給している。広島県内でもA市では中学生の受給率が2014年4月時点で33%を超えており,その数値は年々高くなっている。また,子どもの相対的貧困率は15.7%(2009年厚生労働省)となっており。この二つのデータから,日本の子どもの6人~7人に一人が貧困状態で生活していることがわかる。修学旅行の参加費を家族が払わない(払えない)現実を見て悲しむ子,給食を唯一の栄養源としている子,休みの日は1日中孤独なため学校で友達といることをまるで生きがいのように感じている子,進路を前にして自ら夢をあきらめてしまう子など様々な形で経済格差による子どもの学習困難な状態は表面化している。しかし,経済的な格差があっても,学校が本来の学びを保障していれば子どもは学びがいを感じることはできる。教師の説明を聞き,友だちの考えを受け止めそこで思考することで,自分の新たな力にしていけるからだ。しかし,市場原理主義が支配した学校は,勝ち負けを決めるための反復の場となった。お金を費やして生きてきた子と,宿題をも見ることができない家庭で育った子とでは,学校教育の場でも,はじめから平等性を欠いているのが現実である。不平等を更に加速させる現状では,学校に行くことそのものに喜びを見いだせていない子どもたちがたくさんいるのは当然と言ってもおかしくない。

2.画一的な指導
(1)生徒指導規程の押しつけ
 広島県教育委員会は,昨年度あたりから,生徒指導規程の見直しをするように各学校に働きかけている。県教育委員会豊かな心育成課の指導主事によると,県内の各学校で一通り生徒指導規程が導入された。次は,内容を現状に合わせていく段階に入ったということらしい。
 また,それに合わせて,生徒指導と学習指導の統一も掲げている。指導主事によると生徒指導の三機能(①自己決定②自己存在感③共感的な人間関係)を生かした授業づくりということである。自己決定・自己存在感・共感的な人間関係については,われわれは日頃から大切にしてきている。しかし,ここで掲げられたことは,言葉は同じでも全く違うものとして指示されてきている。
 自己決定も自己存在感も共感的人間関係も,先に望ましい集団や子ども像・授業像を規定し,それに適応するように求めている。それに適応するための自己決定・自己存在感・共感的人間関係なのである。
 つまり,生徒指導と学習指導の統一とは,授業規律の押しつけであり,学習とはなれたところでの役割分担であり,「集団」に合わせて行動することである。授業妨害等を行う児童生徒を積極的に排除していこうという流れである。大阪では,別室指導を越え,別室指導教室(学校)をつくるという信じられないことが提起された。また,県教委主催の生徒指導協議会でのグループ交流のまとめの場で,県教委豊かな心育成課の指導主事は,生徒指導規程に別室指導の日数を明記するように求めた。
 実際に,ある中学校での着ベルの取組を見ると「授業規律が確立しておらず,教師の指示が徹底しない。」という課題を受けて,「時刻を守ることの徹底。授業開始の時刻を大切にすることで授業規律を確立させる。」との理由を掲げている。結果は,90%以上の達成なのだが,100%でなければいけないとされた。そして,この取組は生徒会が点検を行っている。
 授業規律とは,確立させたり,定着させたりするものではなく,そこで学習する人たちでつくりあげていくものである。言葉の持つ何となくよいイメージを利用し,本来使われてきたこととは違った形で取り入れられていることがたくさんあることに教師は気がつかなくてはいけないのである。今,行われている指導は,「規程」のかさを借り,画一的な指導を強要し,その結果,子どもに寄り添えない・例外を認めない・子どもが抱える背景を考えない教師を作り出している。子どもたち自身も寄り添えなかったりお互いに友だちを認めなかったりする実態があり,教師だけでなく子どもたちもそのようになっているように思われる。

(2)スタンダードづくり
 「○○小スタンダード」「○○っ子ナビ」という言葉をよく聞くようになった。スタンダードとは,標準・標準的。ナビ(ナビゲーション)とは,航法のこと。出発地から経由地,目的地までの航行を導く方法と辞書に載っている。標準を示したり,やり方を提示したりすることは,日頃の教育活動の中で自然に行われているし,特に問題はないと思う。しかし,この手法に違和感を覚える。ある中学校では,授業の始まりと終わりのあいさつを揃えようということで, 同じ言葉を掛け,分離礼や4秒礼をしている。瞑目を導入している学校もある。教科や学年・学級,教師のスタイルに違いがあるにもかかわらず,なぜ揃えなければいけないのか。
 小さいときから毎日同じことを繰り返すことで望ましい習慣をつくるのだと,スタンダードづくりを進める生徒指導主事が言っていた。しかし,この考え方を無批判に受け入れることは危険であり,いくつかの点から批判的に検討する必要がある。一つは,望ましいとは,誰にとって望ましいのか,何が望ましいのか,望ましいと誰が決めたのかということが不透明である点についてである。もう一つは,勉強やあいさつは「習慣」でするものではないのではないかということを問う必要があるのではないかという点である。あいさつは相手への敬意や親愛の情を心から表現するためのコミュニケーションの方法であり,勉強は学ぶ楽しさを味わわせることが第一のねらいではないか。慣れさせて習慣化させることがねらいではけっしてないはずである。
 あいさつ・返事・言葉づかい・はきもの揃えなど,スタンダードをつくり繰り返すことで定着させていく。その結果,考えない教師・考えない子どもがつくり出されていく。これこそが最大の問題点だ。
 ある市では,スタンダードに曲をつけて毎日歌わせていると聞いた。また,給食スタンダードや掃除スタンダードといったものも登場している。さらに,小中連携という錦の御旗を掲げ,中学生が小学校へ出向き指導するという動きもある。スタンダードが標準であるならば,当然,アレンジや発展があるはずなのだが,残念ながらそうはなっていない。また,このスタンダードを「子どもたちといっしょにつくった。」という声も聞いたことがない。
 学校で育てたい子どもは,だまって言われたとおりにする子どもではなく,どうすればいいのか,なぜ,そうするのかを問いかける子どもである。
 異質が認められない世界が,今,まちがいなく広がっている。





Ⅲ 異質共同の教育とは

1. 異質性を出せない子どもたち
 私たちの目の前にいる子どもたちは本来,各々が異質な存在である。それは,子どもたちが様々な生育的な条件や社会的条件の中で生活しているからである。差異があるものなのだ。
 土井義隆はその著書の中で,「同じ世代内での小さな違いが,子どもたちの間でかつてより目立つようになってきた」(1) と述べている。子どもたちはお互いの小さな差異にたいして鋭敏に感じ取るようになってきたのである。そうすると,子どもたちは友達関係を築くために過度に気づかいをするようになる。アンテナをはり周囲の反応を探り,周りとの同調を強める。そうしなければ,友達関係を築くのが困難になるからだ。
 自分が他者と違うこと,つまり,自分の異質性を出せなくなっている。そして,それは急速に進んでしまったネット環境にも原因がある。
 藤井啓之氏は広生研フロンティア学習会(2014年2月)の講座で次のような事例を挙げた。
 @aritayukiさんのツイート
○ちょいと新幹線の車掌さんよ!大幅に遅れて運行している中,席がたくさん空いているのにグリーン車の切符がないとグリーン車に乗れないなんて全っっっ然やさしくなーい。立ってる子連れやお年寄りよりがいるからお願いお願いって言ってもダメだった。あたいの説得力の無さったら……チーン
 これに対して,次のような悪意のある反応が殺到して炎上状態になった。
○貴方は真性の乞食脳です。名前も顔も出してて恥ずかしい方ですね。一回幼稚園からやり直して下さい。それが貴方のためでもあり日本社会が望んでます。
○バカとしか言い様がない…wwなんのためのグリーン車だよwwただのクレーマー
 一方,賛同意見も多く寄せられて,いっそう紛糾した。この匿名性の高いネット社会は「たった一言のつぶやきが,あっという間に炎上する社会。これは,たとえ無自覚であったにしても,少なくない人たちが他者を攻撃したくて仕方がない心理状態」(2) にあるのだ。
 このような他者を攻撃したくて仕方がない心理状態のもとで,実際に攻撃を受け,傷ついている子どもたちがたくさんいる。
 LINEでされるとイラッとすることランキングというのがある。(3)
 1位 「既読になっているのに何で返事してくれないの?」と責められる
 2位 既読が付いているのに,なかなか返事が返ってこない
 3位 LINE系のゲームの勧誘やプレゼントのメッセージを頻繁に送ってくる
 4位 メッセージを送っても一向に既読が付かない
 5位 グループトークで個人的な会話をする
 なぜ,傷ついてもネット使用がやめられないのか。墨岡孝は次のように述べている。「そこにあるのは『同調圧力』だと思います。皆と歩調を合わせないと,仲間はずれにされたり,いじめのターゲットにされたりする恐怖があるのです。子どもたちは,ネット上で,自分が仲間にどう見られているか,あるいはどういうふうに評価されているのか気になって,アプリから離れられない」(4) のである。
 また,前章でも述べたように,○○スタンダードに象徴される画一化された教育,そして,学力テストでの得点が唯一の学力評価である一元化された評価基準も子どもたちがそれぞれの異質性を出せない原因でもある。

2. 異質共同のために何が必要か
(1)「一致団結」の裏にあるものは
 中学校には合唱コンクールという行事がある。教師は,この行事を利用して,学級のまとまりをつくり出そうとする。合唱コンクールに優勝するために「一致団結」して合唱に取り組む。学級の中には,様々な理由で歌いたくない子どもがいる。しかし,その子らの思いは教師には届かない。だから一致団結は「排除」を生む。また,社会全般に「絆」や「つながり」は切ってはいけないという風潮が強い。そういった背景の中で「同調圧力」が子どもたちを縛っている。
 私たちは安易な「一致団結」を冷静に見ていく必要がある。そして,学級の中にある「同調圧力」を知る必要がある。

(2)異質な他者と出会い,認め合う
 子どもたちは,様々な生育的な条件や社会的条件の中で生活している。それら,異質性を持っている子どもたち同士,あるいは教師と子どもたちが出会い,認め合うにはどうすればいいのか。
 それは,子どもを生育的な条件や社会的条件に規定,制約されても人間らしく生きようとする自立への願いをもつ主体であると見ることである。また,時としてその願いは,問題行動,不登校,生活のゆがみとして表出される。しかし,それを,彼ら・彼女らの自己責任として見るのではなく,自立への苦悩として見るのである。そう見ることが他者の異質性に出会える契機となる。

3. 異質共同の教育を創造するために
(1)子どもたちの活動をつくりだす(5)
 集団づくりは,個人指導と集団指導からなる。この二つは別物ではなく,この二つの実践領域を統一的に展開するのである。
 課題を抱えた子がいたときに,まず教師はその子との信頼関係を築かなければならない。その子の言葉に耳をかたむけ,何を言っているのか応答しながら,その子から受けいれられようとする。その子も受け入れ初めて,徐々に信頼関係が築かれる。その信頼関係を深めながら,その子の「要求」をもとに個人指導と集団指導を統一的に展開する。
 全生研第54回全国大会の基調提案では,子どもたちにとって「価値ある活動」を提起している。それを,第51回広生研大会の基調提案では,次のように記している。
 「気になる子」の発達を保障することが他の子どもたちの発達も保障することにつながる。このことに私たちは確信を持ちたい。そのような活動をつくり出すことが集団指導では重要な視点である。そのために,「気になる子」を含め,子どもたちがなにを願い,何を求めているのかを探り捉えていく。このことを抜かしてしまえば,活動は教師の一方的な押しつけになってしまう。
 「価値ある活動」は子どもの必要と要求から出発するのである。子どもの声を聴くことを通して,その子の中にある「もう一人の自分」に気づかせ,その子の要求に育てていく。「価値ある活動」はそのようにして生みだせる。

(2)異質共同の学び
鈴木和夫はその著書の中で次のように述べている。
 「時数と週案,授業案づくりに追い立てられ,その枠組みからしか授業を考えられなくなった教師は,子どもの生活世界に教材を介在させ,子どもが心躍るような授業世界をつくり出すことができるだろうか。
 ドリルや漢字練習,読書などを短い時間帯に振り分け,一年間をとおし訓練し,<学力向上>をめざす学校での学習が大流行している。現代の子どもたちはこうした訓練的な学習になれていくことで,確かに字を覚え,計算力を増していくだろう。」(6)
 しかし,そのような訓練的な学習をすればするほど子どもたちは孤立的になる。訓練的な学習で得た知識を蓄積していく競争的な学習だけでは子どもたちの学びは受け身となり,共同には結びつかない。子どもたち自身が「自分の生活世界で感じた疑問や不思議さを大切にし,それを解決していくために追究していく」(7)ことが異質共同の学びとなる。

Ⅳ.実践に学ぶ
 異質共同の教室をつくるために,討議づくり,核づくり,班づくりを中核とした学級集団づくりを私たちは追求してきた。しかし,超多忙化の中,じっくり集団づくりの実践をする時間はない。そんな中でも異質共同の教室をつくるために,対話の指導について安藤幸太の二つの実践記録から明らかにしてみようと思う。

1.課題のある子・気になる子との対話から
 発達障害の子・低学力な子・肢体不自由な子など様々に違いを持った子4年生を安藤は担任した。2月に「二分の一成人式」を提案し取り組みを始めるが,暴力をふるったり仕事をさぼったりして何かとトラブルを起こす吉本くん(仮名)が班から離れ,違う行動を始める。そんな吉本君に対し安藤は対話を通して接近し,そこから次第に「二分の一成人式」を通した子どもの共同の世界をつくり出していく。ここでは,課題を持った吉本と安藤との対話に注目していきたい。
 吉本がいる8班は「入り口飾り付け係」になった。その相談の班会議中に吉本は班から離れて行った。
中田班長が,「先生,吉本君が『毎日ちゃん』をやっていて協力してくれません。」と言ってきた。中田は自分勝手に突っ走るタイプ。吉本は「はじめに意見を言おうと言ったのに,自分の順番が回ってこんかった。」と遠くでぶつぶつ言っている。
 吉本と中田がその場でぶつかることを避け,「もう5年生になるんで。自分の言いたいことばかりじゃなくて,人の意見もきいてやろうや。」と安藤は軽く吉本に声をかける。落ち着きを取り戻し再び活動を始めた中田だったが,大下さんと川瀬君と3人で「先生,吉本君がやってくれん。」と再びやって来た。
T 「吉本くんはね,班で一緒に仕事をするのがなかなか難しいタイプなんよ。でも最近はようできるようになったんよ。それは分かる?」
大下「うん,うん。3年生の時は,すごい暴力をふるいよって怖かったて誰かが言よった。」
T  「はぶててしもうたら力を合わせるのは無理じゃけえ,今は,3人でやりよりんさい。時間がたって落ち着いたらまた話をしよう。」
 安藤は,吉本の行為に不満を持つ3人の思いを受け入れながらも,決して吉本を否定することをしていない。吉本がゆっくり自分を振り返る間をつくり出している。それは中田たちに対しても同じである。
 大休憩になり,まだはぶてたままの吉本のところへ行く安藤。二分の一成人式に向け,原稿用紙の前半にこれまでの成長を書き後半は将来の夢を書くことになっているが,吉本は後半の夢がまだ書けていない
吉本「先生,前半は書いたけ。」
T 「見せてごらん。ほう,お母さんとスケート行ったんか。ええのう。」
T 「君の将来の夢がわからないから(中略)将来の夢何。」
吉本「ない。」
T 「じゃあ,先生が考えてやろう。君はダンスが上手だから『AKB48のセンターになる』でどうだ。」
 周りが笑い,吉本も笑った。安藤が書いたのを消しゴムで消す。
T 「じゃ,EXILEのボーカルがいいんか。」
 これも消した。
T 「じゃ,何。」
吉本「ない。」
T 「じゃ,今晩8時に電話するけえ,決めといてね。」
中田「先生,吉本くんはね,『フィギアスケートの羽生みたいに世界選手権に出る。』って言いよったよ。」
吉本「はっ,言うとらんし。」
T 「えっ,そうか。なら「フィギアスケートで真央ちゃんとすべる」にしよう。そしたら,前半君が書いた,お母さんとのスケートにつながるよ。うん,そうしよう。そうしよう。」
中田「でも,それじゃあ,原稿用紙1枚を超えるよ。」
T 「大丈夫よ。2枚でも3枚でも先生がパソコンで打ってきてやる。よしよしこれで安心じゃ。」
吉本「ええ,何で。今晩8時に電話するって言ったじゃん。」
 安藤は吉本の緊張をほぐしながら,一つずつ思いを語らせようとしている。吉本も安藤と対話することで落ち着きを取り戻していく。二人のやり取りを見ている中田をはじめとした周りの子どもたちも,安心してこの世界に入り込んでいく姿がここから見て取れる。
 大休憩が終わった時,安藤は吉本と二人きりの対話を試みる。
T  「さっきはどうしたん。飾り付けの仕事は好きなんじゃろ。おまえは仕事をサボるようなやつじゃない。」
吉本「・・・・・・・」
泣きながら
吉本「順番に考えを言おうと言っていたのに,言わせてくれんかった。そして,3人で勝手にやり出した。」
T 「そうか,それではぶてて『毎日ちゃん』をしよったんか。」
吉本「自分をおいて,花を探したり画用紙探したりしよった。」
T 「それは,先生が,『吉本くんは今はぶてとるけ,時間がたったらおさまったら話をしよう。それまでは,3人でやりよりんさい。』と言ったからだと思うよ。」
吉本「・・・・・・・」
T 「自分の気持ちがみんなに言えるか。」
吉本「うん。」
T 「じゃあ,後で時間をとってあげるけえ,言いなさいね。」
その後,吉本くんが立って言った。
吉本「今,言っていいですか。」
T 「いいよ。吉本くんから言いたいことがあるそうです。聞いてあげてください。」
 吉本くんは,3人に対する不満を言った。そのときは大下さんが司会をしていたようで,
大下「私が意見を言って,次に川瀬くん,中田さんて順番に言っていたけど,長くなるので,それに吉本くんは途中で首をつっこむし,『黙っていて。』と言ってもずっとしゃべるし。吉本くんは順番は最後だったのだけれど,時間が長くなるので早く準備しなければと思って・・・」
T 「ねえ,みんな,こんなことってよくあるよね。」
C  「うん,あるある。しょっちゅうよ。」
T  「他の班ではどうしているの。アドバイスしてあげてよ。」
C  「あのね,自分が先に言うんじゃなくて,吉本くんから言わせてあげたらいいんじゃない   ん。」
C 「班長は,自分が言うのは最後にしたらいいんよ。」
大下「はい,うん,・・・・・そうしてみます。」
 安藤は,日頃から子どもたち,とりわけ課題を抱える子どもに対して温かいまなざしで接し,その行動の裏にある彼・彼女の思いを理解しようと会話していることが分かる。そればかりでなく,その思いを代弁したり本人に表明させたりすることで学級のみんなの彼・彼女理解を広めていることが分かる。さらにその対話・討論を通して教師の思想性をリーダーへと広げようとしていることが分かるし,実際クラスのリーダーたちは安藤の姿をまねて吉本と繋がりを作り広げて行こうとしていることがうかがえる。安藤は別の場面,二分の一成人式で発表する「将来の夢」に何を発表したらいいのかが決まらない吉本に対して,粘り強く話を聞き,安藤の提案を出しながら,(ここでは触れていないが)建築士になりたいという本音を聞き出し,その原稿を下書きし,ハードルを下げることに成功している。そしてまた,吉本の行為を否定していた子どもたちも,吉本の異議から始まった討論の中で見方を変えていく。行動を頭ごなしに押しつけつけることがなく異質が認められるこの学級の敷居は,まちがいなく低い。敷居が低いほど,そこに入れる人は多い。この実践から,その子の課題や思い(自己実現要求)を真に知るためには対話がいかに必要であるか,そして対話が成立すれば次第に討論が生まれることがわかる。

2.リーダーとの対話から
 課題のある子・気になる子との対話を行いながらも,安藤はリーダー指導の必要性を感じ,実践をつくり出している。ここでは『班長ノート』を通した5年生の指導を取り上げる。安藤は,「課題を持つ児童との対話は,どうしてもさけて通れないので時間をかまわず日常的にする。しかし,リーダーとの対話は時間がないことを言い訳にしつつ,ついつい後回しになってしまう。挙げ句,リーダーが育たない学級になってしまう。」と述べている。
 安藤は12回目班の班長に,勉強のことで誰一人として寂しい思いをさせたくないこと,「今日の勉強,よく分かったよ。」とみんなの笑顔があふれるクラスにしていきたいことを話し,次のお願いをしている。
(1)班の人たちに声を掛けてください。
   ①授業が始まる前に「ノート開いておこうね。」
   ②全員で教科書を見るときには,「何ページ開いた?」
   ③黒板を見ていない人がいたら,「黒板,見ようね。」
(2)節目節目で「みんな,わかった?」と聞いてください。
   分かっていない人がいたら,「先生,もう一度言ってください。」と言って先生に知らせてください。
(3)班の話し合いでは,「集合!」「解散!」の号令をかけてください。
   そして,やってみた感想を書いてくるよう指示し,班長との対話を密にしていった。

(Sさんの班長ノートより)
○今日は,みんなの授業を見ていて,みんなちゃんと読んでいました。「注目」と言われたときに見ていない人がいたので「○○さん,見て。」と言いました。そのほかにも,「静かにして。」と言いました。これからは,注意する言葉をなくしていきたいです。
 明日は校外学習なので,班長としてみんなをまとめて楽しく学べる校外学習にしていきたいです。はぐれたり,勝手な行動をしないようにまとめて行動をしていくようにがんばっていきます。
○今日は,校外学習で班行動の時,はぐれてしまったりしなかったのでよかったと思います。それに,みんなで江波山気象館で楽しく遊べたのでよかったです。
 班長として先生にそろったことを言えたのでよかったです。それに,マツダでは,メモしたことを教え合えることができたのですごくよかったと思います。班長として,この校外学習ですごい成長できたと思いました。25%から50%へ
●今日は,よく声をかけていたね。みんなまとまって行動していたね。君のおかげで充実した校外学習になったと思うよ。教え合うことができたのが本当に良かったね。他の子も喜んでいるよ。
○今日は,みんなのことをよく見て,昨日の校外学習のことを役立てて,班長として先生に言われたことだけでなく,自分でみんなが「線を引いて」と言われたときや教科書などを出していないときに(5分休憩)みんなに声をかけていきます。今日は,「前を見て」と「注目」と「静かにして」を少しだけ言います。
●おお,すばらしい。ごめんね。先生は,普段おとなしいSさんなので,そこまでがんばる人だとは思っていませんでした。ごめんね。大変な思い違いをしていました。君の,班長としてがんばろうとする姿はとても立派です。感心します。
 安藤は,班長になったばかりのSが授業や校外学習の場で小さな声かけをしたことを最大級に評価することから始め,まずはリーダーとしてのやる気を持たせていることがわかる。
 班長ノートを通した対話を始めて2週間,安藤は『自分たちで伸びていけるクラスに』と言う思いを込めて,班長へ手紙を渡した。次のようなことができれば立派なリーダーだと書いている。
「おいで,一緒に遊ぼう。」とさそえる人
「どしたん?何か困っとるん?」と聞いてあげられる人
「これ?これはね,こうすればいいんよ。」と助けてあげられる人
独りぼっちの人がいると気になる人
悲しんでいる人がいると気になる人
悪いことをしている人に対しては,「それって,おかしいよ。」と言える人
この提起により安藤の実践は,教師からの発信が学級のリーダーたちのそれへと拡大し広がっていく。

(Sさんの班長ノートより)
○私は,班の中でO君がD君に勉強を教えているので「これはすごくいいな。」と思いました。よく見ていると,途中で「分かる?」と言っていたので分かり易いと思いました。
 声をかけていきたい言葉は,注意の言葉だけではなく,休憩時間に一緒にしゃべることも大切だと思います。
●君は,よく人を観察しているね。リーダーの力として,周りの人がどう行動しているのかを観察することはとても大切なことです。それができているね。
 O君は,D君のために頑張ってくれているので,君と同じように友達を放っておくことができないんだね。O君にどう声をかける?
ここで安藤はSが周りをよくみていることを評価しながら,「リーダーの力として,周りの人がどう行動しているのかを観察することはとても大切なことです。」と,Sにリーダー像を示している。Sにやる気を持たせる段階から,班長としての自覚を持たせる段階に指導が進んでいることがわかる。

(Tさんの班長ノートより)
○Kさんは,大丈夫です。Wさんは,少し何をするえばいいのかわかっていなかったらしく三角形の180°で迷っていました。WTさんは三角形の角をどう破ればいいのか分かっていなかったらしく,4つに破っていました。4班には落ちこぼれそうな人はいないし,分かっていなかったら教えてあげたいので大丈夫だと思います。
●ありがとう。君のように班のことを気にかけて取り組んでくれる班長がいるので,5の1は大丈夫ですね。
○家庭科の時,少しうるさくて先生に何度も注意されました。図工の時は,○○先生が来てくださったので静かにできました。給食の時は,当番が配って,増やし減らしも当番がやりました。そのときの当番は,Cグループでした。掃除は静かにできました。床ふきは,部分的にやりました。
●ありがとう。先生が風邪で休んでいるときに,みんながんばってくれていたんだね。増やし減らしも自分たちでできたのがすごいと思うよ。
 先生からの手紙の中身については,Tさんはどう考えますか。
○賛成です。S君たちやU君と仲のよい人も,A君も今は学校が楽しいときだと思います。先生の言う班長はたくさんいると思います。もちろん班長じゃなくてもそのような人はたくさんいます。N君,S君,Tさんたちはすごいと思います。先生の考えに賛成します。
●今,君が書いているように,A君,S君,U君,O君がいい関係なので嬉しいですね。
 「N君,S君,Tさんたち」のことをほめているけど,君もすごいと思うよ。よく周りを見ているのがすごい。なによりも,君がクラスを明るくしている。君のように,クラス全体を見て,友達のことを心配してくれる人がいるので先生は嬉しいです。気にかけてもらえた人も嬉しいと思いますよ。
同じ班のKさんやWさんの様子を報告し頑張っていこうとしているTに安藤は,「有り難う。君のように班のことを気にかけて取り組んでくれる班長さんがいるので,5の1は大丈夫ですね。」と誇りを持たせ自信を付けさせている。また班長たちに提起したことへの返信を求めながら,自覚的に学級のことを考え,学級の課題に一緒に取り組むよう促す対話をノートを通して行っている。
 安藤の班長ノートでの対話は,
①行動の事実で班長を褒め,安藤自身も喜んでいることを伝え,一層やる気を引き出している。
②どのように行動すればいいかが分からないところがあれば,具体的に教え,安心感を与えている。
③かといって加重負担にならないよう配慮を忘れていない。
④そのうえで,安藤の思いに対して「どう思う?」班長の意見も聞こうとしている。
 つまり,安藤は班長ノートの実践を通して,自覚的に活動する学級自治の牽引車としての班長会を作ろうとしたのである。
 班長は自分の班の仲間を見つめ,また自分を見つめ直している。Tが書いたノートを最後に紹介する。
○今,クラスで一番気にかけないといけないHさんだと思います。EさんやKさんは仲良くしていますが,本当は一緒にいるのがいやなんじゃないかと思います。Hさんは,○○祭の準備の時の振り付けを覚える時結構がんばっていました。私は昔,Hさんが苦手であまりしゃべらなかったし,今でも苦手ですが,もうちょっと努力して自分の悪いことを直して,もうちょっと明るくなれば,友達も増えると思います。
 班長として班や学級の仲間を見つめるうち,Tは自らを冷静に見つめ,つらさを安藤に伝えることができるようになっている。異質を受け,新しい世界を学級の中でつくることを決意した姿がここに表れている。
 リーダーを育てることは,異質共同の世界をつくるためには欠かせないのである。

Ⅴ.終わりに
 そろえることや統一することが集団の論議の中でつくり出されたものでない限り,それは誰か特定の人または特定の力の意に沿うためのものになってしまう。その特定の人や力に対する是非を問うことを許さない世界が今の教育である。しかし,視点を変えてみたとき,異を唱える存在はある種のリーダーシップの始まりと言えないだろうか。違いを主張することで集団内に新たな力を生み出そうとしているからだ。
 安藤は,課題のある子からの異議を丁寧に受け入れ理解し,彼の代弁者となって思いを伝えている。異議を切り捨てていない。さらにその異議を学級集団の中に出し,活動を通して共同をつくり出している。また安藤は,丁寧にリーダーとの対話も進めている。リーダーとの対話ができにくくなっているのは事実である。先に述べたように教師の多忙化もあるが,一元的な教育がそれを難しくしている。リーダーの役割があらかじめ決められ,結果を求められているからである。リーダーごっこを教えられているのかもしれない。本音を語ることは許されない。学校はこんな環境に置かれ,これに異を唱える教師は苦しんでいる。表立った対話・声に出した対話が難しいならば,違う対話の方法を試み,討論のある学びをつくりたい。そういうこともあり,ノートを通したリーダー指導を今回取り上げた。これだとリーダーに自分を冷静に振り返らせ,学級を見つめさせることができる。教師も冷静に今後の集団を想像し,様々に工夫しながら子どもに話しかけることができる。今の学校現場では有効な実践方法だと考える。これを出発点として,集団内で誰もがもの言え,誰もが安心して自分を出すことができる学級へと変わっていくことが予想できるからだ。
 最後に,本基調では授業についての実践は取り上げてはいない。しかし,安藤学級でつくり出されている学びの世界を想像してみるのもおもしろい。テンポよく進む学習の中で思いや考えの違いが出され,互いの意見を受け入れ新たな力を身につけようとする学級集団が見えてこないだろうか。
 私たちは,この点を大切にして実践を創り出したい。自分がみんなと違うこと・みんなが自分と違うことの価値を知ることは,安心して他者を自分に取り入れることにつながる。こうして子どもが共同の世界をつくることは,学校での生き生きとした学びの世界をつくることに他ならない。
 私たちも,大人集団の中で堂々と異を唱えながら,かけがえのない実践を創り出したい。


(1)土井義隆『つながりを煽られる子どもたち』岩波ブックレット2014年58頁
(2)渡辺雅之『いじめ・レイシズムを乗り越える「道徳」教育』高文研2014年
                                   49頁
(3)出典LINEでされるとイラッとすることランキング | ガールズちゃんねる
(4)遠藤美季,墨岡孝『ネット依存から子どもを救え』光文社2014年102頁
(5)この節は,全生研第64回全国大会基調提案をもとに記述している。
(6)鈴木和夫『子どもとつくる対話の教育』山吹書店2005年262頁
(7)鈴木和夫『子どもとつくる対話の教育』山吹書店2005年176頁
(文責 猪野康二,柴坂和彦,山口俊幸,山﨑正史)






  トップページに戻る
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


広島県生活指導研究大会第53回大会基調提案
    2013/08/10  祗園公民館


「対話」でつくる安心と平和の教室を
広生研大会基調小委員会

(1)はじめに
 効率と見た目を優先させる学校経営は,年々日々ますます強くなっている。数値上の結果を出すために繰り返されるドリル学習ややり直しの指導がはばをきかせ,一人一人の子どもに真摯に寄り添えない状況が私たちにある。考えない教師・考えない子どもが意識的につくり出されてきていることは間違いない。
 昨年度開催した広生研第52回大会では,「子どもたちの心の揺れによりそい,子どもと子ども,子どもと教師の関係を豊かにしていく実践を」をテーマに掲げ,学習を進めた。そしてそこで学んだことを生かそうと県内各地で研究実践が進められた。 しかし,多忙化と教職員に対する管理統制の中では思うように実践が進まず,多くの教師が悩み苦しんでいる。私たちは今,この困難な状況の中でも子どもと子どもそして子どもと教師をつなぐことはできると確信し,その実践を創り出すために欠かすことのできないのが「対話」だと考える。
 「対話」とは,自分の価値観と相手の価値観をすり合わせることによって,新しい第三の価値観とでもいうべきものを創り上げることを目標としている。つまり「対話」とは,その過程でお互いの価値観が変化するものであり,変化することこそを目標としている。言い換えれば「対話」とは,お互いの差異を差異として認め(確認し),その中で共有できるものを見つけ出す営みである。(広生研第42回大会基調より)
 子どもたちが自分の思いを自分自身の言葉で語り,それを要求として集団(学級)が受け入れる。要求する側の思いや願いを受け入れる側が共感し,目を向けることで,子どもたちは集団の中に安全・安心を感じ,平和な(民主的な)教室(集団)をつくり出すために動き始めていく。 困ったときに助け合える仲間を確信しながら,穏やかに成長していける時間・空間・仲間は子どもにとって真の安全・安心をもたらすのではないだろうか。

(2)子どもたちを取り巻く状況

 ①子どもたちの姿
 最近出会った子どもたちを思い浮かべてみた。
 4年生の桜は,トラブルをめぐって保護者が学校に迎えに来たとき,母親の顔を見た瞬間,顔をこわばらせ肩をすくめた。授業中は,最初はがんばれるのだが飽きてくると友だちにちょっかいを出し,トラブルになる。落ち着かせようと語りかけるのだが,会話が続かない。何度も「これは何の罪になるのか。」と問いかけてくる。
 5年生の海斗は,下校中,祖母の家に帰りたがる。理由を聞くと「祖母は怒らない。」母親のいる家は「よその家,怒られる。」と繰り返す。
 2年生の深雪は,家庭訪問で母親から場面緘黙と聞いた。「はい,元気です。」が言えない。発表もできない。生活や図工で絵をかくことができず,宿題になる。家でならかけるという。
 4年生の源は,100人以上の学年集団が集まりみんなが静かにしていても,1人だけしゃべっている。しかし,そこに相手はいない。
 3年生のリンタロウは,給食じゃんけんですら負ければ泣いている。ホメホメ作戦でほめていくと「またほめられちゃった」「今日5回目~」「ぼくいっつもよくできとるんよねえ。」などと話し,周りからは空気を読めないやつとのレッテルを貼られている。
 4年生の雅也や亮治は,トラブルになったとき,必ず「俺は悪くない。」と主張する。「自分の悪いところはないのか。」と尋ねると,「○○が○○せんかったら俺もせんかった。だから,俺は悪くない。」と自分の行った行動を肯定する。しかも,この原因となった相手の行動は,自分に都合のよいある一部分だけを取り上げてしまう。もう一度考えるように促すと「どうせ俺が悪いんじゃろ。先生,ひいき。」と投げやりな態度を とり,原因(責任)が教師に向けられる。
 朝病院へ行き,母親に送られての登校。よくあることだが,「行きたくない。」と車から離れられなくなる光一。遅刻することでみんなとちがう行動(状態)になることをいやがっているという。

 ②子どもが見せる姿を辿って・・・90年代以降の学校
 80年代には前面に出てきた教育改革は,90年代に入り,動きを加速させる。
 アメリカ・イギリスなどで先行した新自由主義が日本にも入り込み,市場原理主義による政策は教育の世界にも浸透してきた。新自由主義・市場原理主義はいうまでもなく無秩序な競争による弱肉強食の社会を意味する。「自分のことはすべて自分の責任で。人の助けを求めてはいけない。」との発想である。不平等なスタートラインから始まる競争に弱い者が勝てるはずがない。「学校という集団の中で,同じ教室で学習していても決して仲間ではない」という考え方でもある。隣にいるクラスメートは世の中を勝ち抜くためのライバルとの考えに立っているからである。この時点で義務教育はもはや平等ではなく学力競争やいい子であることを競う世界へと入っていった。昨今多くの学校で「勝ち抜くための教育実践をする」などのアドバルーンが挙げられているのは元をただせばここにある。
 21世紀に入ると新自由主義による教育政策はさらに加速する。「勝ち組・負け組」などの言葉を流行させ,生き残るための学校間競争・学級間競争・個人競争をさらに激化させた。文部科学省は国際比較で勝つことに躍起になり学習指導要領の完全実施,行事を精選し授業時数を確保するなど点取り競争を加速させた。全国一斉学力テストの実施,そして自治体独自で行っている学力調査の結果が唯一の学力の判断基準とされ,それにしばられた教師は授業による認識力の獲得ではなく点の取り方を教える動きに走った。ここで学校は分断された。子どもが見せる事実を大切にし,そこから子どもの成長発達を見い出す実践と,学力テストなど設定された価値基準を意識しその結果を高めることを最優先させる実践とにである。子どもの側から見れば,「勝ち組」に入ろうとする子どもたちは必至でもがき疲弊し,ストレスを増幅させていった。頑張っても頑張ってもゴールが見えてこないからだ。はじめから勝ち部屋は用意されていなかったことに気付かないままの頑張りは,良い結末を見ることはできなかった。
 反対に,頑張ることの出来ない子どもたちは競争から逃避し行き先を探すことのできないまま挫折し,だめな人間としてのレッテルを張られていった。

 ③今の教育現場の状況
 私たちが考える安全・安心は当然すべての子どもにとってのものである。しかし,最近よく耳にする「安全・安心」は,いわゆるきまりに従っている子どもたちにとっての安全・安心であり,集団を乱していると判断した子どもを排除することによって守られるものである。したがってここでは集団の生活や学習を妨害する子どもたちの安心・安全はあり得ない。両者は同じ言葉を使っていても根本的に大きく違う。
 「安全・安心」の名の下,県内では「生徒指導規程」に依拠した画一的な生徒指導が押しつけられてきている。生徒指導は,「これは規則だから。出来なければ,レベル1でこうなる。」と有無を言わさず規程通りに子どもたちを偽の安全空間へ押し込める。いわゆるゼロトレランスの具体化である。指導に従わない子どもは別室指導となり,集団から排除される。規程を武器に子どもたちに特定の行動パターンを押しつけ,それに従わない場合は排除する。この時点で,子どもの声は消されてしまう。しかし,排除される子どもだけでなく,それを見ている子どもたちが安心を手に入れることはなく,同調することを無言のまま押しつけられ不安になっていく子どもや不安から逃れるために,考えないでこの状況を受け入れてしまう子どもたちが現れる。これが実態だ。
 そもそも生徒指導規程は,小中連携による生徒指導が不登校や問題行動の減少につながったことを根拠として,導入が進められた。共通認識の下で指導がしやすいことを利点に挙げ,子どものあるべき姿を示しつつ中学校区での指導の統一をねらっている。別室指導・あいさつの強要・服装チェックなどを通して,規程通りに見た目を整えることを目的としている。
 本来,問題行動やトラブルが起こった時に教師は「なぜ」を問わなければならない。行為行動の奥にある真実をつかまない限り,問題は本質的に解決しないからだ。しかし,規程通りに生活している子が良い子と捉えることで,教師は「なぜ」を問わなくなり,逸脱行動などで自分の生きづらさを訴えていた子どもたちのSOSを受け入れることをしなくなった。当然子どもたちは教師に対し心を開かなくなる。実際,ひどいいじめを受けていた生徒がいじめアンケートに何も書かなかったという話を聞いた。子どもの心を開くことをしなくなった学校では,教師もその事実に気付かない。生徒指導規程やアンケートという目に見えるものだけに偏った指導がなされた結果,子どもたちは教師を信頼しなくなり,教師は子どもの本当の姿が見えなくなってしまった。
 小中連携を密にしている学校での問題行動が減ってきているという数字が県教委より出された。しかしこの数字を信じる教師がいったいどれだけいるだろうか。問題が解決したのではなく,問題を見ていないだけではなかろうか。
 先日,ある中学校に出かけた時の一こまである。授業を受けず廊下を歩いていた2人の女子生徒から,「先生,どこの学校。」「知っとる。○○おるじゃろ。」と話しかけられた。いい感じの対話になりかけていたが,すかさず横から「何,ため口利きよるんや。」の一言。せっかく話をしていたのに水を差された。結局この日,自分たちから声をかけてくれたのは,この子たちだけだった。
 文科省や県教委は,規範性が身についていないことが問題行動の原因とし,これを身につけるためのプログラムを使って授業をすることや道徳の価値項目を唱えさせることに力を入れるように通達してきている。いじめなどの問題行動が起こるのは,規範性が身に付いていない子ども特有の問題であり,心の鍛錬が足りないことが原因ということとなる。この考え方は,学習規律の徹底など授業にも導入されつつある。
 本来,ルール(規程や規律)は,「安全・安心」を確保するために,上意下達で押し付けられるのではなく,安全に安心して生活するためにみんなでつくりあげていくものである。ある中学校では,授業中に私語をするとクラス委員が先生を呼びに行き,別室指導になるそうだ。生徒たちがこの行為を望んでいるとは考えられない。
 子ども達は今,大いに気を遣いながら生きている。人間関係の希薄さが強調されているが,昔の子に比べて人のことを考えていないのではない。むしろ常に集団の中の自分の位置を気にしながら生きている。同質を意識し,異質になることを恐れその場の空気に合わせているのが実態である。

(3)実践課題

 ①おしゃべりから対話へ
 この現状を打開していくためには,子どもの本当の声を聞きとり,安心して本来の姿を出せる学校にしていくしかない。
 そこで,教師に求められていることは,規程や規律を守らせることではなく,なぜ守れないのかをいっしょに問うことである。まずは子どもとのおしゃべりから始めたい。子どもたちは本来,いろいろなことをしゃべりたいのである。この思いを大切にしたい。
 まず教師は,よい聞き手になることを意識したい。忙しさを理由に子どもたちの話をおろそかにしていないだろうか。こちらからの話はしっかり聞くようにと訴えるがそれと同じレベルで子どもたちの話を聞いているだろうか。
 「へえ。」「それで。」「うんうん。」など,それだけで子どもたちはいくらでも話してくれる。内容など問う必要はなく,「先生は,ぼくの話をよく聞いてくれる。」という実感を持たせることが重要となる。子どもの話を真剣に聞くだけで,「あなたは大切な存在だ」と伝えることになるのだ。
 教師は子どもの話している時間より自分の話してる時間のほうが長くなり,子どもの話に,ついつい答えを言ってしまいがちである。子どもの話にうなづきながら,同じことを繰り返してあげればいいのである。
 そして,教室が子どもとおしゃべりでいっぱいになったとき,対話をはじめたい。
 聞き役からコーディネーターへの転換である。コーディネーターとは,子どもたちに問題を提起し,クラス・ディスカッションを仕組み,子どもたちが経験を通じて自ら答えを見つけ出すように支援する教師だ。
 はじめにでも書いたが,対話とは,お互いの差異を差異として認め,その中で共有できるものを見つけ出す営みである。
 おしゃべりの同調の世界から,差異の世界へ進む。差異を認めず,生徒指導規程でしばり,それが「安全・安心」としているのが,現在進められている生徒指導だ。ここに対話は生まれない。それに対し,生活指導は差異を認め,「何が」を追求する。この「何が」が子どもの要求となり,差異を乗り越えるのだ。そんな対話を楽しみたい。

 ②子どもの声を聞き取り,要求へ
 子どもたちが自分の思いを語れる雰囲気ができ,安心して対話ができるようになると,対話の内容を分析したい。そして,対話の中から,子どもたちに返していくものを見つけたい。
  ある学校での出来事である。大休憩に学級遊びでドッジボールをしていた。いつ
も同じ人ばかりがボールを投げることについて不満の声があがる。
┌────────────────────────────────────┐
│T  どうしたん。機嫌悪そう。 │
│真知 学と竜介ばっかり投げて,ぜんぜんおもしろうなかった。 │
│真穂 ほんまよう。かせって,ボール取るし,感じ悪いよ。 │
│T ふ~ん。いつもそうなん。 │
└────────────────────────────────────┘
 この声を学級に届けることを提案し,作戦を練った。真知・真穂に同じ思いの子に声 を掛けてもらい,ドッジボールを成功させるための実行委員会を立ち上げた。ボールは 順番に投げるやまだ投げていない人に渡すなどの意見が出て,帰りの会で提案し,承認される。しかし,途中で中断されておもしろくないという意見が出る。再度,話し合い 提案し,実行する。この繰り返しの中から,ポイント制ドッジボール・外野人数固定の王様ドッジにたどり着いた。これで,苦手な子が外野で暇な時間を費やすことが少なくなり,得意な子ばかりがという声が消えていった。
 集団で遊ぶためには,まず,相談から始まる。だれが何を持ってどこへ集まる,チームは?ルールは?作戦は?など,子どもたちはちゃんと段取りを組み,集団で練り上げて遊ぶ。遊び上手な子,指導力を発揮できる子は,段取り能力の高い子である。そうした遊びのリーダーたちに学びながら,まわりの子どもたちは育っていく。
 今,遊びの時間や文化的な活動が学校現場から奪われてしまっている。しかし,こうした活動の中で対話は生まれてくるのだ。
 また,生徒指導規定等によって排除された子どもたちの声をどうやって聞き取るのかも課題となる。子どもたちの失敗の自由を保障し,行動の奥に隠れている声に耳を傾けなくてはいけない。
 ある中学校では,他学年のフロアにいくことを禁止している。トラブル未然防止のためということらしい。このことをよく知らず,義男は忘れ物を借りに行った。そのことを生徒指導担当の教師に見つかり,規定違反で1週間の別室指導となったのだ。これを指導ということができるのだろうか。
 問題行動には必ず,原因があるはずだ。子どもの発達の段階での問題行動は,子どもに問題があるわけではなく,まわりのはたらきかけやまなざし(関係性のもつれ)に問題があるというように捉えたい。そして,問題行動を乗り越えるたび,子どもたちは成長していくのではないのだろうか。一つのステップを登るときには,いろいろな葛藤がある。子どもたちは,葛藤している自分と向き合っているのだ。そのとき,教師がどのような言葉を掛けるのかが問われている。

 ③活動を通して新しい価値の発見へ
 おせっかいな大人ではなく,いい聞き手になることが大切である。指示したとおりに行動すると大人(教師)は安心し,その通りやっていると何事も起こらないので,子どもは自分で考えなくなってしまう。先回りして,ひとつひとつのことを具体的に指示しすぎないことも大切である。
 大畑は,学級行事を原案を基に子どもたちといっしょにつくっていく。おすすめの学級行事は,お誕生日会である。誕生日は,すべての子にあり,全員が必ず主役になれるし,他者のことで喜ぶことができる。自分の喜びも他者の喜びも共有することができるのである。そして,内容の選択の自由度も高い。外遊びでも室内ゲームでも発表会でも食事会でもOKである。さらに,合同の誕生日会ということにすれば,時期も工夫できるのである。
┌────────────────────────────────────┐
│大畑  1-2がもっとなかよくなるために,4・5・6・7月のお誕生日会を│
│    しようと思います。お誕生日の人を喜ばせるためにどんなことをしたら│
│    いいかな。 │
│子ども おりがみをおってプレゼントをしたい。 │
│    バースディカードをあげる。 │
│    宝探しがしたい。 │
│    切り紙。 など多数。 │
│大畑  みんなの考えをまとめると,3つじゃね。1つは,プレゼント。2つ │
│    は,宝探しのようなみんなでできるゲーム。3つは,切り紙っていっと│
│    ったけど,教室に飾るん。(ちょっと誘導) │
│子ども うん。 │
│大畑  じゃあ,明日係を決めるけん,どんな係があったらいいか考えとって │
│    ね。 │
└────────────────────────────────────┘
 このように,子どもの思いを聞きながら,原案を作成していく。この過程で子どもたちは,新しい価値を学ぶのである。
┌────────────────────────────────────┐
│耕太  あっ。ちょうど係が8こあるけん,班でやったらいいじゃん,先生。 │
└────────────────────────────────────┘
┌────────────────────────────────────┐
│秀   どっちもしたくない。 │
│聡子  6班,はやくして~。うちらも,やりたい係がみんなばらばらで3対1│
│    じゃったけど,治くんが譲ってくれてきまったんじゃけえ。 │
│孝   ぼくもホントはゲーム①がよかったんじゃけど,譲ったよ。 │
└────────────────────────────────────┘
 そして,総括を経て,次のお誕生日会につながっていくのである。
 また,思春期に入った子どもたちの声は,班ノートや紙上討論などを使って聞くこともできる。
 分かち合うことを教えれば,子どもたちは,思いやりを学ぶ。
 わたしたちの生活は,いろいろなものをお互いに分かち合うことによって成り立っている。それぞれの時間やスペースやエネルギーを他の者たちと分かち合っている。子どもたちは,助け合い協力する経験を通して分かち合う心を学んでいく。教師自身が,人に対して,また子どもに対して分かち合う心を持って接すれば,子どもはその姿から学ぶ。分かち合う心は,言葉だけでなく活動によって,養われていくのである。
 教室を対話で装飾し,新しい価値を生み出していきたい。

(4)実践から

 ①孤立している子どもとの対話から学級の中の関係がひらかれた実践
 5年生を担任した円庵は,ウラという女の子のことが気になった。「学校に行きたくない。」と語り,クラスで孤立している。「ウラのことを知りたい」「少しでも周りとつながってほしい」という願いを持って実践を始めた。
 班長会後に,ウラのグループの班長とウラについて話したときの様子である。
┌────────────────────────────────────┐
│円庵  あんたらのグル-プにウラがおるよね。最近ウラがクラスに来にくく │
│    なっとるじゃん。 │
│スギ  そうよ,何があったか知らんけど,アヤとけんかして離れたんよ。 │
│カズ  アヤは他の女子とおるけどね。 │
│円庵  なんとなくみんな気づいとるわけね。 │
│ヒナ  当たり前じゃん。 │
│ヒナ  ウラ給食の時とかキョロキョロしとんよ。 │
│円庵  ん。 │
│ヒナ  食べながら,回りのこと気にしとるというか。なんでかなあと思ってな│
│    がめとったんやけど,やっぱり回りが気になるんよ。 │
│円庵  へー,他には何かわかった? │
│ │
└────────────────────────────────────┘

┌────────────────────────────────────┐
│円庵  なるほどね,アヤとウラがこのクラスでなんとか居易くならんかね? │
│カズ  友達つくる。 │
│ヒナ  そうそう,信頼できる友達・・・親友というか。シオンとかと話すとき│
│    笑顔よ。 │
│カズ  マツとも話しよるよ。 │
│円庵  どんな話しよるんやろ? │
│カズ  わからんけど,アミも長縄の時,話しよるよ。 │
└────────────────────────────────────┘
 子どもたちは,ウラのことを気にしているし,よく見ている。円庵は,この話し合いの中でこれまで知らなかったウラのこと,クラスの子がウラをどのように見ているかを知ることができた。これがウラ理解のきっかけとなる。誰と何を話すのかは大事な視点だ。円庵は,いっしょに長縄をしているヒナやカズなら,ウラのことを話せると考えたのだろう。
┌────────────────────────────────────┐
│円庵  でもさ,ウラから変わらなあかんって言うけど,今の状況でウラ,クラ│
│    スに来るの頑張ってへん? │
│みんな まあ。 │
│円庵  なんか,せっかく長縄で同じグループやからなんとかみんなから声かけ│
│    れへんかね,そしたらウラも話しやすいかもしれへん。今一生懸命長縄│
│    の練習は休まず来とうしさ。 │
│カズ  うん。 │
│ヒナ  まあヒナはウラのこと嫌いじゃないからできるけどさ。 │
│ナベ  あと見守る。 │
│カズ  練習に来たら,呼ぶとか。 │
└────────────────────────────────────┘
そして,その話し合いの中から,少しでもウラを理解し,ウラに対しての行動をス
タートさせることができた。
 ウラとゆっくりふれあい教室で話をした。
┌────────────────────────────────────┐
│円庵  へーウラって何人兄弟かいね? │
│ウラ  姉ちゃんと弟二人よ。 │
│円庵  え?ウラんち4人兄弟? │
│ウラ  そうよ。知らんかったん? │
│円庵  3人兄弟やと思ってたわ。 │
│円庵  弟の面倒とかみよるん。 │
│ウラ  見よるよ。 │
│円庵  抱っことかできるん? │
│ウラ  当たり前じゃん。お風呂も入れるよ。 │
│円庵  一緒に入れてあげるんじゃ。すごいね。先生ちっちゃい子お風呂に入れ│
│    たことないし,どうやって洗ってあげればいいかわからんわ。 │
│ウラ  できるでしょ。 │
└────────────────────────────────────┘
 これまで円庵はウラと話すきっかけをなかなか持てずにいた。しかし,班長たちとの対話の中でウラと話すきっかけを持つことができた。
 本来はもっと早い段階で話ができればよかったのだろうが,ウラと語ること・ウラのことを語ることで,ウラ理解が深まった。
 こういった取り組みの中から,ウラと関われるマツの存在が明らかになり,ウラだけでなく学級のことをよく見ていたヒナの存在にも円庵は気付いていく。
 対話の中から学級の中の関係が開かれた実践は,次のステージに入り,安全・安心な教室へつながっていくのだ。

 ②学級の中で子どもが子どものことを率直に語る実践
 西野は,定期的に班長会を開き,子どもたちの声を自治につなげていっている。また西野は,「班づくりの原案を話し合い,班長立候補で班長を決定し,その後班長会で班をつくり,それをクラスに提示して承認を得るやり方で今年1年をやってきた。」と報告している。
 次に挙げるのは,発表の取り組みを行っているときの班長会の様子である。
┌────────────────────────────────────┐
│3班班長  耕作君がインフルエンザで休んでいてハナさんと二人。ハナさんは│
│      意見も言うし発表の声も大きくなった。発表の回数も増えた。手も│
│      まっすぐになった。 │
│西野    なんでなん?どうしたらそうなったん? │
│3班班長  「手を伸ばしたら当たるかもよ。」と言ったら手もまっすぐに挙げ│
│      ている。 │
│4班班長  モト君は班の中の誰かの意見なら言ってもいいという。自分の意見│
│      は言いたくないという。 │
│西野    へえ,なんでじゃろうね。・・・じゃあ自分の意見を言えたら教え│
│      てね。 │
└────────────────────────────────────┘
 西野は,班のメンバーにしっかりと目を向けさせるため,3人班と4人班を意図的に採用している。あえて少ない人数にすることでお互いの関わりを強く意識させている。(班の人数は今後増えていくことになるだろう。)
 また,西野は聞き役にまわり,子どもたちの意見を出させるような指導言を発している。短い時間を意識して,教師の方針を伝達する場にしてしまったり,子どもの意見に即座に教師が反応し,方針を言ってしまったりしてしまいそうだが,西野は,時間がきたら次の班長会に継続しながら,進めている。子どもたち同士の話したいことで学級がつながっていく。
┌────────────────────────────────────┐
│4班班長  休憩のときに何で「発表せんのん?」って聞いたら「恥ずかしい」│
│      って言っていた。 │
│9班班長  いっしょに発表しよって言って見たら?エダさんが言ってその後,│
│      理由は他の人が言うとか。 │
│6班班長  ぼくも含めて他の二人も説明が苦手なので難しい。 │
│3班班長  エダさんと同じくらいの発表が恥ずかしくてできないという立場に│
│      なって,自分も恥ずかしい気持ちになっていっしょにやってみん?│
│      って話したらいいと思う。 │
└────────────────────────────────────┘
 後半は,班長同士の対話が中心となって進んでいる。教師の言葉を介さず学級のことを素直に話し合っているのだ。西野の「なんでなん。どうしたらそうなったん。」「へえ,なんでじゃろうね。」などの指導言が次第に子どもたち同士の話し合いでつながっていった。
 西野は,互いに学級のことを話す場を公的な形で設置し,その中でそれぞれの思いを率直に引き出すことに成功している。それは,西野が話し合いをするテーマを一つに絞っていること・自分の班の人のことを話していること(話し方の指導をしていること)・そして,結論を急いでいないことがあげられる。
 日常的に,子どもたちといつどこでどのような話をするかということは,とても重要な課題となる。このときの時間確保は非常に難しい。
 休憩時間とは名目だけで,公的な仕事が組まれていたり,いろいろな補充の時間に充てられたりしている。休憩時間は当然のことながら子どもたちの自由な時間でもある。放課後は,下校時刻の関係で時間が取れない学校がほとんどである。
 西野は,班長会に重要な役割を持たせている。しかし,放課後に班長会をやることにすると,「班長できない。」という声が出てくる。そこで,西野は帰りの会をできるだけ早く終わって月水金の放課後5分間班長会をするという条件で行うこととした。10分ぐらいかかるそうだが,子どもたちは許容してくれているそうだ。
 5分間という短い時間の設定であるが,教師が方向性を出すのではなく子どもたちの思いを語らせる中で進めているところを学びたい。
 子どもが子どものことを率直に語れることが安心につながっている。

 ③排除されそうな子どもの声を聞き取り,学級に開いていく実践
┌────────────────────────────────────┐
│ 中学3年生のせい子は2年生では,課題を抱えながらも代議員として活躍して│
│いた。3年生への申し送りでも,代議員として学級に位置づけられたら,とあっ│
│た。しかし,朝から登校したのはクラス発表,始業式の日だけ。翌日から,午後│
│から登校したり,欠席したりが続く。「このクラス,どうなん。話し相手もいな│
│い。2年の時,同じクラスだった子,だれもおらん。」と4月当初,叫ぶように│
│言ったことが忘れられない。 │
└────────────────────────────────────┘
と,せい子について書いている。そして,せい子とは,前期はまったくと言っていいほど,話ができなかったそうだ。
 そんな中,志波は,合唱コンクールを梃子に生徒の自治的な活動を指導していくこととする。合唱コンのことならせい子と話ができると考えたのだ。
 ここで,「合唱を成功させる会」を提案する。パートリーダーになれないせい子を対話の場に出すことをねらったのだ。
┌────────────────────────────────────┐
│志波   今,学級は変わりつつある。体育祭の打ち上げもたくさん集まった │
│     し。 │
│せい子  女子はね。男子はどうだか。 │
│志波   男女の壁,というか,本当は男子の中の壁だと思うんだけど。合唱を│
│     成功させる会に参加してよ。せい子は合唱を習ったことがある人でし│
│     ょう。去年2年の時も,パートリーダーでとしてクラスを引っ張った│
│     とS先生から聞いているよ。 │
│せい子  合唱は好きだからやる。で,どうなん,今の合唱は? │
│志波   男子がどうもね。パートリーダーもなかなか決まらず,文化委員がな│
│     ったし。 │
│せい子  そうじゃろうね。去年も男子を歌わすのが大変だった。 │
│志波   合唱成功させる会は短時間で毎日するから,明日から来てよ。 │
│せい子  できたら・・・。 │
└────────────────────────────────────┘
 前日にメールをし,せい子との対話が実現した。これまでのせい子の情報から合唱コンクールを通して,せい子の思いを学級に響かせたかったのだろう。

┌────────────────────────────────────┐
│せい子   みんな,金賞を取る気ないん?こんなんでとれるわけない。男子の│
│     なかには指揮者を見てニヤニヤしとる者がいるし,女子にもまだまだ│
│     声が出せていない人がいる。団結って何?・・・・。 │
└────────────────────────────────────┘
 みんなはせい子の怒り(要求)をどう受けとめて良いか分からないような表情だった。当然,この怒りに反発をする者もいた。
 志波のねらい通り,せい子を公的な場へ導けたことが,せい子と学級の距離を縮まったように思う。
 また,志波は成功させる会の中で,練習に参加できていない子にどうやって声をかけていくのか,話し合っている。この話し合いの中で,誰も排除しない・されないクラスになっていっている。
 せい子の願いを聞き取り,活動を仕組んだことから,安全・安心(誰も排除しない・されない)なクラスにつながっていくのだ。
合唱コンクールが終わった後,せい子は班長会に所属した。
┌────────────────────────────────────┐
│せい子  うちは,あまり学校来てないし,それは,朝までほとんど起きてい │
│     て,学校来ようと思っても眠いから。でも,頑張って,昼までには来│
│     たい。啓は自分ちの仕事をしていて,その仕事は,7時半ぐらいまで│
│     あって。終わったら,時々内んち来て話して帰る。仕事はしんどいと│
│     きあるけど,基本,楽しい。一つの仕事が終わるまでずーと休みなし│
│     でやっとる。 │
│志波   この前,竜也とケータイで話したら,12月は仕事が終わるので, │
│     卒業まで学校来ると言よったよ。だから,来るかも。 │
│せい子  でも,竜也は寝坊だから,朝起きれんかもしれん。 │
│拓    学校来たら,楽しいと思えるようなことをすれば学校に来ると思う。│
│     とりあえず,学級全員がそろう日をつくろうか? │
└────────────────────────────────────┘
 また志波は,成功する会の中心になった拓とは,デイリーノート(日記)を通じて,合唱のこと,クラスのことなどを紙上対話している。

 ④活動の中から,新しい価値を見出した実践
 飛野の学校では,毎年長縄大会が行われている。クラス対抗で,3分間の8の字跳びの記録を競うものだ。職員室前には,各学年の最高記録が飾られ,校内にはポスターが貼られ,休憩時間にはクラスみんなで練習する光景も見られる。長縄大会への取り組みは担任の先生によってまちまちである。
 飛野は,学級づくりの一つと考え,毎年熱心に取り組んできた。飛野は,初任のときの失敗から子どもたちの思いや考えを尊重し,教師主導で引っ張っていく指導を止めた。しかし,子どもたちからはやる気が感じられない。
 一番大きな理由は,伊央の存在だ。特別支援学級の伊央は,タイミングをはかれば長縄を跳ぶことができるが,みんなの前では笑いを取ろうとして,わざと助走をつけて跳んだり,引っかかったりする。過去の経験から目標を250回に設定していたが,伊央がいると150回さえ超えることができないのだ。
 子どもたちの中には,「早く跳んでくれ。」「伊央がいなければ。」等の声も聞こえてくる。
 飛野は,クラスの中心の蹴斗に声を掛け,取り組みを促す。飛野が直接学級に働きかけるのではなくリーダーに声掛けをさせた。蹴斗は,伊央に声を掛けるなど,意欲的に取り組んだが,記録は思うように伸びなかった。
 子どもの日記には,
┌────────────────────────────────────┐
│ぼくは優勝したいと思っています。でも,正直伊央がいるのであきらめかけてい│
│ます。なので,伊央がいなければいいです。しかし,それはできないのでぼくた│
│ちの目標を超えられるように伊央もぼくたち4組もがんばっていきたいです。 │
└────────────────────────────────────┘
 目標達成のめどが立たない中,飛野は子どもの日記の中に,昨年は伊央が跳んだら5回というルールがあったことを見つけた。
┌────────────────────────────────────┐
│飛野   もう一つみんなに考えてほしいことがあって去年は伊央が1回跳んだ│
│     ら5回にしていたみたいだけど,みんなはどうしたらいいと思う。 │
│蹴斗   それは不公平だ。卑怯だよ。1回でいいよ。 │
│みんな  でも,それだったら目標にいかないよ。 │
│みんな  5点じゃなくて,3点にしたら。 │
│明行   ていうか,ぼくも伊央と同じくらいだよ。1回跳んで5回にされたら│
│     つらいよ。 │
│みんな  (なるほどとうなずく子多数) │
│蹴斗   1位にならなくても,自分たちの目標の回数にいけばいいよ。目標の│
│     回数を見直そう。 │
│みんな  うん。うん。 │
└────────────────────────────────────┘
 明行は,ネガティブ発言が多く学級の雰囲気をつくる一人である。ネガティブ発言は,他の子の気持ちを代弁しているところもあり,男子からは人気が高い。
 飛野は,目標達成のために昨年度のルールのことを議題に挙げた。それに対して,リーダーの蹴斗は反対する。目標達成が気になる子・賛成の子もいる中で,明行の発言が受け入れられる。
 蹴斗は,「不公平・卑怯だ。」とルール(大会要項)面から発言した。明行は,自分と伊央を重ね気持ちを訴えたのだった。ハンディをつけて大会を行うことは悪いことではないが,明行は,目標達成のために伊央だけにハンディをつけることに違和感を持ったのだ。その意見を聞いて,蹴斗は,目標自体が自分たちの実態に合っていなかったことに気付いたのだった。そして,学級が新しくスタートを切るのだ。
 飛野は,正直目標達成のために話題を出したが,子どもたちが対話の中から方向を見つけ出した。飛野の子どもの思いや考えを大切にするスタイルが子どもたちの思いを引き出したのだ。
 つまり,対話によって,自分の価値感と相手の価値観をすり合わせることによって,新しい価値観を創り上げることができたのである。


(5)終わりに
┌────────────────────────────────────┐
│①「ひとりがんばれ」というよりも「ひとりではがんばるな」と語りたい。 │
│②「甘えるな」というよりも「もっと上手に甘えなさい」と語りたい。 │
│③「早く,早く」というよりも「もっとじっくり味わいなさい」と語りたい。 │
│④「やればできる」というよりも「時間かければ必ずできる」と語りたい。 │
│⑤「まちがうな」と責めるよりも「いっぱいまちがってみなさい」と語りたい。│
└────────────────────────────────────┘
北海道教育大学の庄井良信教授の言葉である。(「自分の弱さをいとおしむ」高文研)そして,最後に次のように語っている。
┌────────────────────────────────────┐
│ 私たちが願う民主主義の社会(本当の自由と安心のある社会)は,人間が全く│
│まちがわなくなる社会ではないのだと思います。何かやろうと思ったら壁は必ず│
│立ちはだかるし,それを乗り越えていこうと思ったら,いっぱい失敗もする。 │
│ 失敗をしたときに,ああ失敗をしたんだ,おれはやっぱりダメな人間なのだ │
│と,自分をいたずらに傷つけていくのではなくて,失敗をしたときに,人を信じ│
│て仲間の知恵と力を借りながら,そこをトボトボとのり越えていく。そうか,こ│
│の激しい吹雪のときが春を準備するたいせつなときなのかと,しみじみと思える│
│ような子どもたちをどう育てていくか。それを考えていきたいと思うのです。 │
└────────────────────────────────────┘
 ゼロトレランスで,強さが求められている今だからこそ,教師も子どもたちも自分の弱さに向き合い,それを安心して出せる学校にしていかなくてはならないのではなかろうか。
 そのための第1歩として,子どもたちと保護者と同僚とおしゃべりすることを始めよう。そして,対話をし,差異があきらかになったとき,これを乗り越えることのできる安心で平和な教室をいっしょにつくっていこう。







  トップページに戻る




広島県生活指導研究大会第52回大会基調提案
    2012/09/01  安田女子大学

子どもたちの心の揺れによりそい,
子どもと子ども,子どもと教師の関係を豊かにしていく実践を


                              広生研大会基調小委員会

Ⅰ 子どもたちを取り巻く状況

(1)子どもたちの姿
 昨年度の大会では,テーマを「『気になる子』とつながる子ども・つながる教師」とした。この基調で子どもたちを次のように捉えた。
 「(子どもの貧困とは)文化的な貧困や生育の中で獲得されなければならない基本的な信頼感や幼児的全能感を満たされることなく育てられた結果,本来就学前には身につけていた自制心が育たないことや,集団の中で生活することを身につけることができないまま児童期や少年期,思春期を迎えていることなどである。その中で,人と人との関係がうまくつくれない状況が広がっている。」
 つまり,「子どもの貧困」の広がりの中で「人と人との関係をうまくつくれない状況」が広がっている,と捉えているのである。
 そして,その状況は今も変わらない。


●小学校低学年のようすを「ひかると母親によりそって」というレポートで西部生研六月さんが報告している。貧困のなかで母親も困窮し,母親にも担任が関わっている姿がある。
┌────────────────────────────────┐
│ 1年生の12月初めに転校した。前の担任の先生からの引き継ぎでは     │
│次のようなことがあげられた。                             │
│・母親が学校に来させたがらない。欠席が多い。朝は起きられず10時     │
│ ごろ登校する。                                     │
│・連絡がなく生徒指導の担当が迎えに行くと,すごい剣幕で教員が怒ら   │
│ れ,来ない。                                      │
│・母親と二人で暮らしている。母親は体が弱く生活保護を受けている。    │
│・月末になると電話がつながらなくなる。                      │
│・持ち物が全くそろわない。                              │
│                                              │
│ (2年生になり)遅刻,欠席はほとんどなくなった。授業にも楽しく       │
│参加するようになった。しかし,手を挙げるが「忘れました。」しか言      │
│わなかった。音読も自信なく声が聞こえないくらいですわってしまう。     │
│しかし,小声で「くそ」「死ね」などをよく言っている。大人には「ご        │
│めんなさい。」とうなだれる。友だちに責められると泣いてふさぎこむ。     │
└────────────────────────────────┘

●小学校中学年のようすを安佐生研大広さんがレポートしている。    
┌────────────────────────────────┐
│ 雄次の凶暴さは,半端ではなかった。気に入らないとすぐにキレた。     │
│キレると席を立ち,気に入らない子に暴力をふるった。机やイスを倒し     │
│たり,ドアをけったりした。教師である私の言葉も無視して行動した。     │
│「どけ」「うざい」「死ね」などの言葉は日常語と言えた。学級のほとん     │
│どの者が,雄次の暴力と威圧的な態度におびえていた。             │
└────────────────────────────────┘

● 中学生の受験を前にした不安につぶされそうになる心,揺れ動く気持ちを田辺竜之介さんが報告している。
┌────────────────────────────────┐
│ 9月以降,部活を引退してからの彼は特に勉強になかなか向き合えな   │
│くなった。授業中の静寂な空気,じっとしている状況に耐えきれず,突    │
│然席を立ち,廊下に出る。また,教室後方の個人ロッカーの棚に座り     │
│ぼーっとしていることもある。彼を廊下に連れ出し,話をした。          │
│「最近,授業に入れないことが多くないか?よくおまえがうろうろして     │
│ いるのを見るけど・・・。」                               │
│「みんなが授業の中で楽しそうに笑ったり,まじめにやっているとイラ     │
│ イラする。」「そうか,でも高校には行きたいんよの。不安もあるんじゃ    │
│ ろ?」                                          │
│「うん,推薦してもらえんかったし,どうせ頑張ってももう無理だと思      │
│ う・・・。」                                         │
└────────────────────────────────┘

(2)教育現場の状況
①適応主義と教育の効率化
 学校では,年度初めに,学校教育目標が掲げられ,めざす子ども像が示される。それは,ほとんどの学校で,知徳体の三視点から構成されている。たとえば,ある小学校では「かしこく・やさしく・たくましく」である。
 この「かしこく」という中には,どんな子ども像がイメージされているのだろうか。それは,全国学力テストや「基礎基本」学力調査の結果(通過率)の高い子である。結果をあげるために,ある小学校では,保護者からお金を集めて,業者テストを全校で実施したそうである。また,ある小学校の5年生は,修了式の日にも過去問に取り組んでいた。テストでいい点数をとるために,いかに効率よく知識を詰め込めるかが学習になっている。子どもたちが,本来持っている知的好奇心や知的な達成感を味わう余裕はないのである。
 これらの原因を探っていくと,教育基本法が改定されたことにつながる。これを基に行政による教育基本振興計画が推進されている。予算を確保するには,議会の承認が必要となるため,教育委員会は,目に見える特徴や成果をアピールしなくてはいけないようになっている。つまり,特徴や成果が目に見えるようにするための数値目標が外せないのである。また,いつまでにという期限を求められている。このために,短期間で数値があがるものが,はばをきかせることになってしまっている。教育現場に行政が介入してきているのである。大阪の教育基本条例は,その顕著な例である。
 これを受けて,学校現場では学校評価や自己申告書のしばりが大きくなってきた。これらの問題点は,たくさんあるが,1番は,数値目標をあげ,できたかできていないか(到達したかしていないか)を評価していることである。いわゆる成果主義・結果主義である。しかも,この成果は,短期間で結果を出さないといけないのである。なぜなら,毎年クラス替えが行われる中で,教師個人が成果をあげなければならない仕組みとなっているからである。そのために,効率のよさが評価されることとなる。つまり,目の前の子どもの実態よりも,都合のよい子ども像を掲げ,それに当てはまることを子どもに求めているのである。
 短期間に数値目標を達成するための手段としてのスキルやマニュアルがある。本来ソーシャルスキルとは,人づきあいをするときに必要な技術やコツのことだが,自然に身につくものである。核家族化や地域社会の人間関係の希薄さなどから,自然と身についていない子が出てきているのは事実であるが,そうであるならば,スキル教育とは,技術を教えるのではなくスキルが自然と身につく環境を整えることを大切にしなくてはならないはずである。そこには,時間もトラブルも失敗も必要な調味料となるはずである。しかし,現状はそうではなく,マニュアルでは対応できない子どもが現れている。子どもの実態からつくられたものではなく,学校側の都合からつくられたものだから当たり前のことだ。しかし,その原因は,その子たち本人・あるいは親・あるいは担任に着せられ,学校側の問題点には結びつかないのである。

②生徒指導マニュアルの横行・考えない教師づくり
 子ども同士がトラブルになり,管理職に報告に行くと「こういうときには,こうするのよ。」「ここに,書いてあるでしょ。」極端な話のようだが,生徒指導規定などによる対処の仕方(マニュアル)があらかじめ用意されており,それに乗っ取ってトラブルに対処するように求められる。トラブルがおきないように,たとえトラブルがおきても,学校側に非がないような形で対応しようとしている。トラブルは,子どもたちや保護者からの大切なメッセージだという捉えは,薄いのである。
 ここで,指標となっているのが,トップに君臨する人の自分よがりの指導マニュアルであり,これが唯一正しい方法なのである。そのやり方が正しいと過信している人,自分では考えず,言われたことに忠実な人,まわりと同じことをすると安心する人たちが,唯一のマニュアルを掲げ,突っ走っているのが現状である。考える時間や悩む時間を与えないのである。この結果,考えない教師が作り出されてきているのではないだろうか。
子どものニーズが多様化しているのに,教職員は,単一を求められている。発達段階の違うすべての教室に同じ目標を掲示するように職員に提示される学校。「腰骨をのばしましょう。」この一言から全学年授業が始まる学校。問題行動が起こったときの対応を出会いの日にすべての家庭に配布する学校などもある。

③自治活動に取り組めない
 新学習指導要領は多くの問題点を抱えている。授業時間の増加,教科内容の増加などにより教師はいっそう多忙化した。
 特に,授業時数を確保することが学校における最大の関心事になり,学校・学年行事は削減された。中学校では1年間で1015時間だが,各教科の時数を確保しなければならないため,1年間の総時数は1015時間を大幅に上回っている。
 また,小学校では帯タイム,朝読などにより下校時間が遅くなり,放課後に子どもを指導する時間がとれなくなっている。
 このように,担任教師が自由に使える時間がなくなっている。このことは自治活動の衰退につながる。
 例えば,合唱コンクールという学校行事がある。全クラスがステージで合唱を発表し,優秀な学級が表彰されるという行事である。中学校では一般的な行事である。
 生徒会の文化委員会から学級に,いついつまでに指揮者や伴奏者を決めなさい,合唱曲のリストの中から歌う曲を決めなさいなどと下ろされ,それに従って学級で粛々と決めていく。そして,大きな声で歌うことが是とされ,それに乗ってこない生徒へは歌うことが強制される。
 それに対し,私たち生活指導教師は「優秀賞を取るために歌うのか」「この合唱で何を表現するのか」「合唱に取り組む意味は何か」など子どもたちに投げかけ,討論をよびおこし,自分たちが行事に参加する意味を創造してきた。
 こういった自治的な活動を仕組む指導は時間がかかる。効率よく進めることはできない。だから,自由に使える時間が必要なのだ。
 もちろん,これまでもこのような指導を仕組むのに自由な時間はあまりなく,限られた中で工夫をこらしてきた。しかし,新学習指導要領下では,より統制が強まり,教育委員会へこまごまと報告する義務が強まった。そのために,担任が自由に使える時間はないと言っても過言ではない。
 また,学級でおこるさまざまなトラブルを「学び」として編み直し,学級にかえしていく指導もできない。トラブルを引き起こした子どもを個別に指導して終わりになる。
 だから,子どもたちはトラブルの起こった理由,背景などは知るよしもなく,トラブルを起こした子どもを「関係ない者」として排除していく。そして,いつ自分がトラブルを起こし,排除される側に立たされるかわからない。
 トラブルを引き起こさないために,子どもたちは,なるべく他者と関係をもたない生活をしている。このような学級に自治は育たない。

Ⅱ 実践課題

Ⅰで述べたような子どもたちの実態や教育現場の状況を克服していくために,次の3つの実践課題を提案する。
(1)ふところの深い実践を
 多様な生活スタイルが確立され,また,社会状況が厳しく変化していく中で,近年の子どもの実態は多様化してきている。当然,保護者も同じである。
 「教師は現場で育つ」という言葉がある。教師は子どもと触れ合いながら,実践の中で育つということである。子どもを前にして,「ああでもないこうでもない」と考える時間が必要になってくる。また,実践は一つ一つのケースが1回かぎりである。「子どもとふれ合う」というときの「子ども」とは子ども一般ではなく,固有名のあるその子だけの生活史を背負った特定の存在であるからである。
 ふところが深い実践とは,どんな実践なのだろうか。
能率や効率を追い求めるのではなく,じっくり時間をかけて,一つずつ,一歩ずつ歩んでいくことに価値を置き,試行錯誤しながら,揺れながら,進むことのできる実践である。 また,「どんなことにも,毅然とした態度で対処する。マニュアルに乗っ取り,対処する。」ではなく,どんなことでも,受け止め,許容し,いっしょに歩んでいく実践である。

(2)自己肯定感を育てる
 自己肯定感とは,自己を肯定的にとらえること,つまり自分に自信を持ち,尊敬し,受け入れることである。
自己肯定感を育てるためによく言われるのが,「何か他人より優れたものを持っていればいい」「自信をつけさせるために習い事をさせている」「細かく注意を与え,失敗しないようにしている」などの実践である。
 成功体験をさせれば,自己肯定感が育ち,対人関係がよくなる。というように考え,上 のような実践に流れてしまうことは,間違いである。成功体験が大切というのは,まちがいではないが,ここには,本人の願いが必要なのである。願いがあってこそ,成功体験はプラスとして,生きるのである。本人が何も願っていないのに,まわりがレールを敷き,成功したとしても意味はないのである。それは,自分とは違う人間を演じていることになってしまうからである。
 そこで,大切になるのが,自己決定である。自分のありようを自分で決め,そして,その手応えから何とかなると自信を持っていくことにつなげていくのだ。子どものためと子どもたちが正しい道からそれないように,失敗しないように導いてやることが大人(教師)の役割だと考えている人もいると思うが,子どもにとっては,「自分が自分でなくなる」ということにつながる可能性があることを知っておきたい。
 つまり,自己肯定感は,子どもに,失敗する自由・やらない自由・できなくて悔しがる自由など,いろいろな自由があって,自分で何かを決定し,少しずつ自分が自分自身になじんだうえで生まれてくるものなのだと思う。大人があたたかく見守り,子どもに任せる部分を大きくすることで,自己肯定感が育つのである。
 子どもたちによい子を演じさせるのではなく,本来の姿を見せ,本音を語らせることを大切にしていきたい。

(3)子どもを仲間のなかで育てよう
 子どもの発達を守っていく文化が育っていない。(整っていない。)生活の仕組みだけが高度成長していき,便利で楽しければいいという社会になってきた。子どもたちも便利な機械・コンピューター文明のもとで子どもに必要な体験が省略されてしまい,誰よりも早くという競争意識のもとで育ってきている。(特に,テレビ・インターネットの影響は大きい。)
 便利な機械相手なら,上手に操作できるが,人間と人間の関係では,うまくいかない。それぞれの発達段階で,他人の行動をみて,真似をしたり,うらやましがったり,相手を見て強く出てみたり,自分と他人との間の関係を考えることで,自分を認識できていくのだが,このことがおろそかになっている。子どもが主役の社会ではないのである。
 また,育つ側にはそれぞれいろいろな内的要因があり,それを考慮しながら,教えていくことが重要となるはずであるが,権力者の画一的な価値を押しつけてはいないだろうか。 つまり,大人の都合が優先してはいないだろうか。「子どもはこうあるべき」という枠に当てはまらない場合は,「困った子」となり,枠に適応するように求められる。ひどい場合には,適応できない子は排除の対象になってしまう。
 実際,「みんなに同じように(平等)接してください。」と言われることがあるが,同じというのは,行為行動のことではないのである。育つ側の課題が異なるのだから,同じ場面でも,指導は異なるはずである。その子にあった指導が,平等ということなのではないのだろうか。子どもが主役と考えたとき,それぞれに合わせた指導が求められ,どの子にも同じ(画一的・マニュアル通り)指導をするのは,大人の都合である。
 それでは,子どもが育つ環境とはどのようなものになるのだろうか。
まず,集団で生活したり学習したりすると,個人で生活したり学習したりするよりも楽しいことを体験することである。成果をあげるためや管理するための集団活動ではなく,いっしょにやる楽しさを味わうことのできるような活動をつくることである。
次に,集団の中で起きる様々な課題に対して,討議を通して克服していくことができる環境をつくることである。そのためには,要求するちからや共同して生活するちからが必要となる。つまり,子どもたちが能動的な生活を送れるようにすればいいのである。簡単にいうと自分たちのことを自分たちのちからで決定し,活動していくことである。
そこで,第一に大切にされなければならないことは,子どもの意見を尊重することである。子どもの権利条約第十二条にも子どもに影響を与えるすべての事柄について自由に自己の見解を表明する権利が保障されている。

Ⅲ 実践から

●六月実践に学ぶ(小2)
 1年生の12月に転校してきたひかるを2年生でクラス替えだが再び担任することになった。ひかるは母親と二人暮らし。母親は体が弱く生活保護を受けている。7月から母親は時々働きに出ている。
┌────────────────────────────────┐
│ 水着の用意を随分前からお願いし,「ちゃんと準備しています。」とい     │
│う返事                                           │
│だった。楽しみにしていた水泳なのに,やはり当日水着が見当たらず,    │
│ひかるは泣いてしまった。2週間見学だった。                    │
│ 7月の個人懇談は体調が悪いと言うので,私から訪ねて行った。真夏   │
│なのにこたつとこたつぶとんのある部屋に通された。給食着を2着出し    │
│ていないので探してもらったが,段ボールの中にセーターなどと一緒に    │
│なっていた。                                       │
└────────────────────────────────┘
母親は子育てに課題をかかえている。そこで,六月は母親に寄りそい,働きかけることを実践の軸にしている。
┌────────────────────────────────┐
│ 母親は,家庭訪問に行くと新学期に提出する書類の確認をされ,やる   │
│気になっているなと感じた。4,5月はひっきりなしに母親が,学校や     │
│私の携帯に電話してくる。宿題のノートの書き方,ちゃんと宿題をした     │
│のだが持って行かなかっただけから居残りさせないでほしい,などなど。   │
└────────────────────────────────┘
母親からの細々とした連絡(宿題のノートの書き方,居残りさせないで等)に応えていく。母親の気持ちが学校に向いていくことで,ひかるは落ち着き,遅刻や欠席がほとんどなくなっている。また,母親の言い訳や愚痴も粘り強く聞いていると実践記録にある。そのことにより,母親に教師への信頼が生まれている。
┌────────────────────────────────┐
│ 母親は声をかけると参観日や個人懇談,PTC活動にちゃんと来てく     │
│れるようになった。母親が友達に誘われると遅く帰ってしまい,鍵がな    │
│く近所のコンビニで待たせるということが何度かあったので,コンビニ     │
│の方が心配して学校に電話してこられた。私が電話で母親に注意した。   │
│初めはキレ気味だったが翌日,泣きながら反省の電話をかけてきた。     │
│ 個人懇談で学力が上がっていることを伝えると「参観日に来ても姿勢    │
│よく前を向いて話を聞いていて見違えるようです。先生のおかげです。」    │
│と何度も言われた。                                   │
│ 今,母親の電話もめっきりへり,宿題もちゃんとやってきている。「働     │
│くようになって少し蓄えもでき,生活が安定してきたんです。」と喜び      │
│の電話があった。                                    │
└────────────────────────────────┘
困難な状況にある母子家庭の母親への支援がみごとである。決して排除せず,母親との信頼関係をつくっていくことにより,教師の要求に応えようとする母親へと変わっている。
 どんなことでも,受け止め,許容し,いっしょに歩んでいく実践である。

●西原実践に学ぶ(小6)
西原は,ヨッシーについて次のように書いている。
┌────────────────────────────────┐
│ 自閉症の児童。療育手帳を持っている。自分の世界に入り込むことが    │
│多い。学力は中程度。集中力は短いが,近くに行って指示を出したりす    │
│れば,集中することができる。                             │
│ 特に,参観日や運動会など,いつもと違う状況になると興奮が抑えら    │
│れないことがある。                                   │
└────────────────────────────────┘
ヨッシーが仲良し集会でお世話係に立候補した。お世話係とは,6年生が1年生について店を回るというものだ。自分のこともできないのにと心配をする西原だが,ヨッシーはやる気だった。
┌────────────────────────────────┐
│ そして前日の顔合わせを迎えたのだが,なかなかうまくいかなかった。   │
│恥ずかしがって1年生の前でうずくまってしまった。児童会担当の先生    │
│にうながされなんとか「よろしくお願いします」は言えたようだ。さけ       │
│んで逃げ出さなかっただけでも成長じゃないかな,と考えるようにした。    │
└────────────────────────────────┘
 「さけんで逃げ出さなかっただけでも成長」という西原のヨッシーを見る目が温かい。西原はヨッシーをしっかり受容している。
 そして,西原はヨッシーと一緒にお世話係成功のための作戦を考える。ヨッシーひとりに任せないで,必要とするところは援助している。次のヨッシーとの対話で秀逸なのは,
「先生が考えた目標が3つあるんだけど聞いてくれる?・・・どんな?」とヨッシーに投げかけ,ヨッシーの意見を引き出し,合意を得ているところである。ヨッシーは分からないから,この3つの目標でやりなさい,ではないのである。
┌────────────────────────────────┐
│西原「じゃ今日の目標を立てようや。なんか考えとることある?」        │
│ヨッシー「あー,うー,わからーん!」                         │
│西原「先生が考えた目標が3つあるんだけど聞いてくれる?まずは1年   │
│ 生のことを一番に考えること。2つ目は汚い言葉とかを使わない       │
│ こと。1年生は泣いてしまうからね。3つ目はヨッシーも楽しむ         │
│ こと。どんな?」                                    │
│ヨッシー「できる!それでいいです!遊びにいっていい?」           │
│西原「いや!その前に一回だけ3つの目標を確かめてみよう!」        │
│ヨッシー「あぁ~!1個しか覚えてないの,忘れとった!」             │
│ 不安はいっぱいになったが,もう一度確認して,目標を書いたメモを      │
│ヨッシーのポケットに入れた。                             │
└────────────────────────────────┘
次に,西原はお世話係が1年生のところへ出た後で,クラスに話しかける。
┌────────────────────────────────┐
│ 悪いけど今日はお店のところにつきません。個人名を出したくないけ     │
│ど,ヨッシーが(お世話係に)立候補してくれたから,全力でバックアッ     │
│プしたいと思います。何か困ったことがあれば,そばで声をかけたいと     │
│思います。だから少し離れたところから見守ることに専念するので,お     │
│店のことは何とかしてください。                            │
└────────────────────────────────┘
 また,西原は「個人名を出したくないけど・・・」と言いながらもヨッシーのことをクラス全体に語っている。
 私たちが,個人のことをクラス全体に話すときには次のねらいがある。それは,その個人に対する教師の見方をクラスに共有してもらうこと,そして,教師の指導性を共有してもらい,ともすれば排除されるその子を排除しない側に立ってもらいたいからである。
 そして,クラスはヨッシーのこと,西原の思いを受け入れているのである。もちろん,このようになったのは,これまでの西原の学級集団への指導があるからである。
┌────────────────────────────────┐
│ ヨッシーは,後半になればなるほど,1年生と打ち解けていた。一人     │
│歩くのが遅くふわふわしている女の子がいたのだが,その子のためにち   │
│らちら後ろを見て確認していた。1年生もヨッシーに慣れ,「次はあっ      │
│ちに行きたい!」などの話もできる関係になっていた。1年生にそでを     │
│ひっぱられて,ひこずられるように移動する場面にも出くわしたが,笑     │
│顔で「やめろよ~!」くらいの対応をしていた。                   │
└────────────────────────────────┘
┌────────────────────────────────┐
│ 反省を書いてもらった。ヨッシーは何やらごそごそ・・・。後で反省       │
│を読むと,良かったところ「楽しくできた。1年生のことを一番に考え      │
│た。汚い言葉を使わなかった」と書いてあった。                   │
└────────────────────────────────┘
 西原は,ヨッシーといっしょに行動するのではなく,ヨッシーを信じて見守ることを選択している。途中,ヨッシーの歩くペースが速すぎたときもすぐに駆けつけるのではなく「必死に着いていく1年生を見て,声をかけに行こうかと思ったが,はぐれたら1年生を導けばいいと思い,黙って着いていった。」とぎりぎりまで待っている。
また,1年生と全然会話をしていないことに気がついたときは,ヨッシーがトイレに行った隙に「ねぇねぇあのお兄ちゃん,やさしいんよ。行きたいところがあったらどんどんお願いしてごらん。」と1年生に声をかけている。西原のスタンスは,ぶれることなくヨッシーを信じて見守っているのである。
ヨッシーの達成感が感じられる。西原は,ヨッシーのやる気を大切にし,けっして表に出ず裏からのサポートを行ったのである。さらに,西原は,3つの目標を立てるときに「ヨッシーも楽しむこと」を掲げている。このような西原の姿勢が,ヨッシーの自己肯定感を育んでいくのである。
レポートには書かれていないが,仲良し集会での総括では,ヨッシーがお世話係をやりきったことがクラスのメンバーから評価されている様子が想像される。
 そして,レポートの最後に書かれている「お世話係でこんなにがんばったのだから,絶対出来る!信じている!!」というメッセージが温かい。

Ⅳ 終わりに

学校が子どもを育てる場所から,保護者に説明する場所になってしまっている。「マニュアル通りにやっています。」この魔法の言葉にしがみつく。つまり,子どものことを説明するのに便利な道具として,マニュアルが登場した。
そうして,まちがったスキル教育やマニュアル通りに指導することが求められるようになり,子どもや実践者の顔が見えにくくなった。
そこで,教育の原点に戻り,子どもと本気で向き合いじっくりと時間を掛けて,子どもの発達に関わっていくこと。また,結果よければすべてよしではなく,そこに至るまでのプロセスを大切にすることを提起したい。
六月は,ひかるを母親ごと受け入れた。西原は,ヨッシーのやる気を裏から支えた。いずれの実践も子どもたちの心の揺れによりそうところからスタートしている。当然教師自身も揺れていたであろう。
このように子どもの心の揺れによりそい,悩みながら,考えながら,時間をかけて実践を進めて行く教師でありたい。仲間と手を取り合いながら。
そのためには,一人一人の子ども問題をリアルに語り合える職場づくりが必要である。
(文責 猪野康二 柴坂和彦)


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


  トップページに戻る