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2021年広生研大会基調
「新しい活動に取り組む中で
互いの思いや願いに出会いながら、
1.コロナ禍で見えてきた学校・教師の姿
(1)二か月に及ぶ休校措置によって圧縮された教育課程
今から2年前の2019年度3月、新型コロナウイルス感染症の拡大に対する対策として、安倍前政権は全国一斉の休校を決定した。全国にはわずかにその決定に従わない自治体もあったが、広島県ではすべての小中高等学校が臨時休校となり、年度末最後まで再開されることはなかった。
その3月の卒業式は「在校生の出席はなし」、「児童生徒ひとりに対して関係者の出席はひとりまで」、「卒業証書の授与は代表者のみ」、「校歌などの歌唱はなし」など、さまざまな制限の下で実施された。続いて、2020年度がスタートしたが、わずか4日間の登校の後、再び一斉休校となり、それが5月末にまで及ぶという、かつて経験したことのない事態となった。
6月から学校は再開したが、外出自粛の中で2カ月を過ごした子どもたちは、どこか緊張したような、生気を失ったような表情を浮かべていた。
学校再開においては新しい生活様式の徹底はもとより、「三密を防ぐ。」「飛沫の飛散を防ぐ。」「スキンシップを無くす。」などの観点が、どの教育課程にもついて回った学校行事や児童会・生徒会行事など子どもたちが楽しみにしていた行事一つひとつについて、それぞれの学校の条件の違いを無視した形で「一律」に指導が入り、中止や縮小の形式が細かく指示された。その「一律の指導」によって学校は振り回され、多くの子どもが楽しみにしている遠足や運動会・体育祭、文化祭や合唱コンクール、野外活動や修学旅行などはことごとく中止・延期や内容の縮小に追い込まれた。
さらに教育委員会からは、それぞれの教科の年間指導計画にまで、細かい注文が付けられた。中には、教科の特性や系統性が全く考慮されていないものもあり、学校現場では「非現実的」「教えられない。」「教育委員会は何もわかっていない。」などの声が挙がった。
一方で、教育委員会は標準授業時数にこだわり続けた。一斉休校当初は「教育課程を全部終えることができないのは仕方がない。」「何とか中3と小6だけは終わらせて、残りの学年については次年度以降に補填する」などの説明が行われ、すでに教科書会社によって補填のための副読本的な教科書の作成が検討され始めたことが伝えられた。しかし、その後、時間の経過とともに、長期休業期間の短縮や7時間授業の設定、行事削減など、なりふり構わないやり方で全学年での標準時数のクリアーが当然の目標となった。
学校では目標達成のために駆け足で授業が進められた。グループ学習も抑制・禁止が求められ、学校は弱った子どもたちをさらに追い詰める結果となっていった。子どもたちからは「授業の進み方が早過ぎてついていけない」「先生の説明が多くて面白くない」などの声が聞かれるようになった。子どもたちの学びは、コロナ禍でやせ細っていった。
学校現場は「できるだけ努力すること」という教育委員会の言葉は、「何としてもクリアーしろ」という言葉と同義であることを思い知ることとなった。
(2)コロナ禍で変化する学校・教師の姿
学校生活のありとあらゆる場面への指導がすべての学校に対して一律に行われる中で、学校の対応には違いが出てきた。例えば、朝の登校時検温については、教育委員会からは「校舎に入る前の検温の実施」が通知された。すると、教員の当番を決めて子どもたちをグラウンドに整列させ、検温の有無を確認したうえで校舎に入れるという対応を始めるという学校が出てきた。一方で、そのような対応は「できない。」と主張し、これまで通り教室で検温の確認を行うという独自の対応を続ける学校もあった。
そもそも、子どもの人数や校舎の構造など、学校ごとに条件が異なっているにもかかわらず、一律の対応を求めることがナンセンスである。次から次へと発出される通知に対して、追い詰められた学校が、「自校の実態に合わせて最良の選択を独自に判断する」という、当たり前の対応を取り戻した学校が出現し始めたと言える。学習指導要領が今も手放すことのできない、「教育課程の編成権は学校にある」という教育の大原則が、今一度、すべての学校で再確認されなければならない。
教師の動きにも変化が見られた。近年、学校には、教育委員会からの指導に対して、「どうせやらなければならないのだから、どうやって簡単に済ませるか」など、あきらめにも似た雰囲気が広がり、学校から「おかしい、必要ない」といった教師の声は聞こえてこなくなっていた。さらには「私たちの役割は教育委員会から下された内容をいかによりよく実現するかである」などと、自らを納得させるために声高に主張する教師の姿も見られるようになってきていた。
この自ら判断しようとしない習慣は、コロナ禍において学校ごとに異なる対応が実施されたとき、不公平感を呼び起こし、教育委員会からの詳細な指示や実施方法の統一を求める声につながっていった。教師が、子どもを取り巻くすべての教育条件と目の前の子どもの実態を出発点に、教育の是非を判断しなくなった結果である。
一方で、子どもの気持ちに思いを馳せる動きも見られた。学校行事がことごとく中止や延期・縮小になる中で、「子どもたちが楽しみにしているものだけは、何とかやらせてやりたい。」という思いは、教師の間でどんどん大きくなっていき、何とか工夫して実施できないかという検討が始まった。
また、休校中に子どもたちにさせる課題を作成し配布する取り組みの中では、少しでも学習を進めたいという思いから、どの教科のどの単元なら子どもだけで学習が進められるのか、一日に何時間させるかなどの視点で、課題の作成が進められた。復習が中心になる中で、予習を求める課題を作成する学校や学年もみられた。そんな中、ある小学校では、子どもたちが楽しむことができるようにクイズを作って学習課題に混ぜ込む教師の姿があった。彼によると「ずっと家にいて一人で勉強しろって言われると息が詰まると思って」が作成の理由だった。休校中に外出の自粛が求められ、配布された分厚い課題に一人で取り組むことを余儀なくされる子どもたちの苦悩に思いを馳せ、少しでも子どもたちを苦悩から解放したいという思いが、彼にクイズづくりをさせたのである。まるでものを扱うように「目指す子ども像」に近づけるためにしゃかりきになって子どもの尻を叩くのではなく、子どもを一人の人間として捉え、気持ちに寄り添って考える、教師本来の姿がそこにあった。
2.コロナ禍の子どもたち
再開した学校に、子どもたちが戻ってきたが、学校は新しい生活様式を子どもに求め、子どもたちの生活は一変した。机は間隔をあけて配置され、給食は無言で食べなければならない。歌を歌わない音楽の授業、マスクの着用や手洗いは厳しく指導された。短時間なら許される小グループでの話し合い活動を実施すると、これまでため込んでいた欲求を爆発させるように、子どもたちは話し合い活動を行った。「交わりに飢えていた」状態だったことが、誰の目にも明らかだった。
学校の休憩時間の遊びにも、スキンシップの機会を減らすために様々な制限が設けられた。また、放課後も友達と外で遊ぶことを制限される中で、オンラインゲームにはまってしまう男子が多く見られた。それはやがて深夜に及ぶゲーム漬けの生活へとつながり、学校では子どもたちの体力の低下や元気の無さとなって現れた。
また、大人とのかかわりを強く求める傾向のある子どもたちの姿も気になった。コロナ禍以前にも、そういった傾向のある子どもたちはもちろん存在したが、コロナ禍で増えてきたように感じられた。友達とのかかわりを作ることよりも、まずは大人から保護されることで得られる安心感や、大人から認められることで感じる居場所の確保が最も優先する欲求となっていても不思議ではない。報告されている次のような実態は、その背景の一つと言える。
警察庁は4日、昨年1年間の犯罪情勢統計(暫定値)を発表した。児童虐待の疑いがあるとして、全国の警察が児童相談所(児相)に通告した18歳未満の子どもは前年比8・9%増の10万6960人に上り、統計を取り始めた2004年以降、初めて10万人を超えた。DV(配偶者や恋人からの暴力)の相談や通報も、過去最多の8万2641件に上った。新型コロナウイルスの感染拡大で在宅時間が延びたことが増加の一因となっている可能性がある。
全国の警察は、児童虐待が疑われる事案を把握した際、対象となる子どもの安全や所在を確認した上で、児童虐待防止法に基づき、児相に通告している。
昨年の通告の内訳は、子どもに暴言を吐いたり、子どもの面前で親が配偶者に暴力を振るったりする「心理的虐待」が7万8355人で最も多く、全体の73・3%を占めた。次いで、暴力などの「身体的虐待」が1万9452人。食事を与えないなどの「育児放棄(ネグレクト)」が8858人で、「性的虐待」は295人だった。(2021.2.4 読売新聞)
学校に戻って来た子どもたちからは、ゲームがたくさんできた喜びの声の一方で、「学校があった方が良かった、お昼ごはんがないから。」とか、「家にいても夜まで誰も帰ってこないからつまらない。」「急にお父さんが転勤になってさみしい。」などの声が聞かれた。コロナ禍で不況の影響を受ける大人たちによって、もっとも社会的に弱い存在である子どもたちにしわ寄せがいっていることがうかがわれる。子どもたちの不安は学校再開の今も色濃く残っており、子どもたちの発達への影響が懸念される。
3.実践から学ぶ
(1)子どもたちをどう理解するのか
子どもたちの行為行動は、子どもの内面の表出である。表面に現れた行為行動から子どもたちの思いや考えをどう理解するかで、実践の方向は大きく変わっていく。
①子どもたちの行為行動につきあう
小学校3年生を担任する西瓜先生のクラスにいるリンは、西瓜先生によると「興味のない授業は寝ている。」「自分が納得できないと拒否をする。」「見通しがもてなかったり理解できなかったりすると荒れる。」子であり、こだわりが強い。発達障害があり、毎日薬を服用している。ヘルプカードの取り組みなどを試みるが、トラブルは続き、なかなか落ち着かない日々を送っていた。
夏休み前にサキとリンのトラブルが起こった。
朝の会の健康観察前、後ろの席のサキとゴタゴタ。コンパスの針で開けられた穴が気になり、 拾った針金でそこをぐりぐりほじる。サキがやめてと言っても聞く耳を持たない。私が仲介に入った。 T:リンさん、サキさんが嫌がってるよ。 リン:なんで? T:リンさんも自分の机に勝手なことをされるのは嫌じゃない? リン:リンは嫌じゃないけ、いいんよ T:じゃあ、サキさんの気持ちを聞いてみよう?サキさん、こういうことされてどう思った? サキ:(そんなに深刻そうでもなく、少し考えたあと)うーん、いやかなぁ。 T:サキさんは嫌だっていってるよ。 リン:なんで? T:リンさんはよくても、嫌だなぁって思う人もいるんよ。やめてあげて。 リン:いいの!だめよ! リンは、針金をくるくる回して、穴を開けたがっているように見えた。自分の机にはいい穴がなく、 |
西瓜先生は嫌がっているサキの気持ちを伝え、リンの行動をやめさせようとするが、リンは聞く耳を持たない。しかし、とにかくサキが嫌がっていることを何とかしなければと、サキの机の代わりになるようにと、自分の消しゴムを差し出す。リンは穴をあけ続けることができるので、それを受け入れる。もともと、針金で穴をあけたいという思いだけだったリンには、サキに嫌がらせをするつもりもないし、そもそもサキを嫌ってもいない。にもかかわらず、サキへの嫌がらせをやめろと言われてもやってないのだからやめられない。リン自身もなぜサキがいやだと言っているのか理由を聞き返している。リンにとっては自分のやりたいことを邪魔されているとしか感じられなかったのかもしれない。
西瓜先生は、初め、リンの行動を制止することでサキを守ろうとしていたが、最後にはリンの行動を制止することをやめ、自分の消しゴムをサキの机の身代わりにすることで、サキを守ろうとした。結果、リンの願いもサキの願いも実現し、事態の収拾は可能となった。
しかし、数日後、リンは再びサキの机の穴に針金を入れ始める。西瓜先生はその行動を見ながら周りの子どもたちに話しかける。リンとつきあうための対話が始まる。
7月24日
またサキの机に針金を入れて遊ぶ。やめよう、と言ったって聞きはしないので周りの子どもに |
数日前の西瓜先生のリンへの対応は、同時に周りの子どもたちへのリンへのかかわり方の指導となっており、この場面につながってきている。「どうしたらいいんかなあ。」という周りの子どもたちへの問いかけは、「(西瓜先生が)どう(この場面でリンに対応)したら(リンの願いも実現しながらサキを守るために)いいんかなあ」という問いかけであり、リンの行動の善悪を問わない問いかけであり、だからこそ子どもたちはその問いかけに「机を交換してあげたらいい」と応えている。リンを理解する対話とはなり得ていないが、西瓜先生も子どもたちもありのままのリンとつきあおうとしている。
それでもいいけど、今すぐにはできんしなぁと思い、とりあえずリンを説得。すると、 リン:ママとケンカしたときにね、母さん(おばあちゃん)のところに逃げるとね、 T:階段?いつ?誰に? リン:ママにひきづられたんよ。3年生の始めくらい。でも(いつだったか)忘れたぁ! T:そりゃいけんねぇ。 リン:ま、いつものことだけどね。 T:そんなことはやめてほしいね。 リン:言ったことは絶対ママに言わんでよ。絶対秘密よ。 T:わかった。言わない。 リン:それからね、今日、母さんに連れてきてもらった。これも秘密よ。 |
西瓜先生は、シンの考えをその場ですぐに生かすことはできなかったが、しかし、すぐにリンの行動を制止することもしなかった。善悪を問わない対話は、背景や気持ちを語りやすくさせる。だからこそ、この場面でもリンとの対話は進み、リンの家庭での話を聞き取ることができたのだろう。リンとの応答関係ができ始め、リン理解が始まった場面だと言える。
また、西瓜先生のこういったリンとのかかわり方によって、周りの子どもたちのリン理解も進んでいく。リンの行動を否定せずつきあおうとするシンのような子どもたちの出現は、やがて、リン自身の他者認識を育て、人間への信頼感を育てていくことにつながる。10月になるころには「リンさん、一緒にやってみようよ。」という友達の声に応えて、リンは教室移動の整列にも参加できるようになっている。
②子ども同士が互いの世界を理解する
小学校3年生の担任をする西海先生は、クラスのリョウタについて次のように書いている。
リョウタは,とにかく自分のやりたい様にやりたくて,それを否定されたり |
西海先生によると、リョウタはみんなと同じように授業を受けたり、当番の仕事をしたりすることは難しく、友だちから強く言われたり、嫌がられたりする場面が多いということである。中でも運動も勉強もできて発言力もある、クラスのボス的な存在のコウタはリョウタに厳しく接する。それに続いて、リョウタを責めたり、ばかにしたりしていじめる数人の男子もいる。
そんななか、リョウタはドッジボールでの勝負をコウタに挑む。
それから数日後の給食時間 みんなで給食を食べていると リ:「コウタくん,コウタくん。」 コ:「なんや。」 リ:「昼休憩にドッジの勝負しようや。」 C:「エ,エェ~ッ!」 コ:「お前俺に勝てると思とんか?」 「勝負!」と言ってファイティングポーズをとるリョウタ。 コ:「おおえぇで!お前なんか一発で当ててやる。」 C:「コウタ,やれやれ~。」「やばいで,一発で吹っ飛ぶんじゃない。」 「なに言いよるん。勝てるわけないじゃん。」「やめんちゃい,リョウタくん。」 教室がざわめく。面白がる者,あきれる者,びっくりしてる者。まさかリョウタが いつもリョウタを責めたり,バカにしたり,嫌ったりしていじめている数人の |
西海先生自身が述べているように、西海先生にとってもリョウタの行為は「まさかリョウタがそんなことを言い出すなんて誰も想像していなかった」という理解し難い行為であった。また「いつもリョウタを責めたり,バカにしたり,嫌ったりしていじめている数人の男子の妙な盛り上がりにちょっと不安を覚えた。」とあるように、このままでは大変なことになると、直感的に事態の重大さを感じている。
ここから西海先生はこれまでの情報をもとにリョウタの思いを理解しようとする対話を展開していく。
そういえば以前にリョウタが言っていたことがあった。 リ:「僕この前,ドッジでサブローくんに勝ったんじゃ。」 サ:「はぁ?お前ずっと逃げ回ってただけじゃん。」 リ:「でも勝ったもん。」 サ:「意味わからんし。」 そんな会話だった。あの時リョウタは何で勝ったと言っていたのだろうか。その時は T:「ねぇねぇリョウタくん。リョウタくんはどうやったら勝ちだと思ってるの?」 「コウタくんは,りょたくんにボールを当てたら勝ちでしょ。リョウタくんが リ:「コウタくんにあてられない。」 C:「ちがうでリョウタ。リョウタもコウタに当てにゃぁ勝ちじゃないんで。」 「そうで。なに言っとるん。」「リョウタくんも投げて,コウタくんに T:「まってまって。これとっても大事なことじゃけえ確認しとこうや。」 「リョウタはコウタにボールを当てるんじゃなくて,コウタのボールをよけて リ:「 そう! 」 C:「エェ~ッ。」「なんじゃそれ。」 T:「でもリョウタはそう考えていたんよね。それで勝負しようと思ったんだ。」 「どうかいね,コウタくん。リョウタくんはこう言ってるけど,それでOK?」 コ:「いいよ,別に。俺が当てればすむことじゃけぇ。」 |
西海先生は、「みんなにとっての勝ち」と「リョウタにとっての勝ち」のちがいをみんなで確認し、同時に勝負を挑まれたコウタにもその「リョウタルール」で勝負することの了承を取っている。さらに「不安を覚えた」コウタの取り巻きたちに対しても、次のような対話で詳細なルール確認を行い、勝負の公正さを担保している。
C:「リョウタ勝てる自信あるんか?」 リョウタは両手で〇をつくる。 「オォ―ッ。」 「リョウタ,頑張れよ!」ミヤの声。ミヤはリョウタと同じ班になってから,よく T:「おっ。リョウタの応援もいるじゃん。いいね!ところで,もう一つ確認したい 「コウタくんはこっちから投げるよね。リョウタは逃げる。で,転がっていった 「俺らがひらって返してあげる。」 T:「コウタくんにね。普通のドッジみたいにねらって返してええんかね。」 C:「そりゃだめでしょ。」 T:「そうそうこっちからだけね。リョウタはコウタの投げるボールだけ |
これで、勝負の結果はどうであれ、リョウタの世界で、みんなが遊ぶ場面が設定された。そこにはリョウタの持つドッジボールの「楽しさ」が内在している。それは、普通に言われるドッジボールの「楽しさ」とは異なる「楽しさ」であり、ドッジボールの「価値」を広げるものである。
結果、勝負はコウタが勝ち、リョウタは負けてしまうが、その直後、西海先生の誘いでリョウタも含めてドッジボールをすることになる。そのなかでも見事にボールをよけ続けるリョウタに対し、周りの子からは「リョウタ、ナイス!」「逃げの天才じゃね」と声がかかり、リョウタの楽しさは他の子に理解され、共感されていった。リョウタの思いを理解しようとした西海先生の対話が、リョウタの世界で遊ぶ楽しさを、周りの子どもたちが学ぶ展開を創り出したのである。
(2)新しい活動に取り組み、新しい関係を創り出す
①「原案」にもとづく取り組みを通して子どもの「願い」に出会う
新しい生活様式を取り入れた学校生活は、今まで普通にやっていた話し合い活動や集団遊びや取り組みを禁止し、戸惑うばかりの日々を送ることとなった。西野先生はいっこうに何をすればいいのか考えられなかったが、子どもたちと一緒に考えようと思い立ち、「班でできることを考えよう」と呼びかけた。
多くの子どもたちの意見は、<班で声をかけ合う>取り組みや<班で遊ぶ>取り組みをしたいというものだった。その中で、明人の意見が目を引いた。「(新しいクラスになって、仲良くなっていない人がたくさんいるけど)班の人とは(席が近いので、自然と)休憩時間にしゃべるので仲良くなる」というのである。
明人は、“周囲の子が迷惑だと感じる言動”が目立つのだが、明人本人は「してない」の一点張りで認めようとはしない。だんだん周りの子たちは明人を責める口調になり、明人の「やってない」も強くなっていく。そういうトラブルを抱えがちな子である。傍目には周囲との関係が上手くいっていない明人だが、本人は「班の人とはしゃべって仲良くなっている」と感じているのだと気付かされた。ここから西野先生は次のような原案を子どもたちに提案する。
議題「班の中でできるだけしゃべって、仲良くなろう」7月17日 提案者 西野先生 1.みんなの様子 〇 4年生のクラスがスタートして、4ヶ月目に入ったが、休校が2ヶ月もあったし、新しい生活様式が続いているために、なかなか友達と仲良くなることができない。 〇 今の班の人とは、休憩時間にしゃべるので、仲良くなってきている。 〇 新しい班をつくって、たくさんしゃべって、仲良しを増やしたい。 2.目標:班の人とたくさんしゃべって仲良くなる 3.取り組むこと (1)①1日の中でしゃべっていい時を考える。 ②トークタイムを作っておしゃべりをする。 (2)帰りの会で3分間トークを班で行い、報告する。 (3)声をかけ合って、しゃべっていいときといけないときの切り替えが早くなるようにする。 4.班の作り方 ① 班長立候補→選挙 ② 班長会で班づくり(9班) ③ 全体に提案する 5.班長の役割 〇 トークタイムの司会と発表 〇 切り替えの声かけを進んで行う。 |
きちんとした総会は初めてなので、やり方を教えながら、議長も提案者も先生という方法で行った。原案は、二人の保留があったが可決され、取り組みは始まった。例えば、「おにぎり」をテーマにトークした日は、1班:鮭が好き、ツナマヨが好き/2班:おにぎりは食べないという人/3班:明太子が嫌い/4班:おにぎりをぺっしゃんこにして食べる/5班:わかめ、チャーハン、昆布、鮭が好き/6班 :おにぎりをお茶漬けにする/7班:塩、昆布、辛子明太子が好き/8班:三角のおにぎりしか食べない/9班:ラップに包んでお姉ちゃんとキャッチボールで作る、など話は盛り上がった様子である。班長は、「これはみんなに伝えたい」と思う話を帰りの会で発表する。一人一人が何と言ったかを全部報告する班長もいるが、中には面白いと思った一つの話だけを報告する班長もいて、それには「え~!」「あ~」などの歓声があがる楽しい帰りの会がつくられていった。
こうした原案にもとづく取り組みを続け、10月には次のような原案討議を行った。
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帰りの会の中で、各班が話し合って翌日の発表回数目標を決めるのだが、なかなか目標達成はたやすくなかった。しかし、班長たちは、達成できたかどうかではなく、発表できない班員がどうしたらできるのかということに関心を寄せていた。中でも班長のゲイラが気に掛けていたのは、とらさんのことである。とらさんは、西野先生の話もなかなか聞かないし、班の話し合いにも入ろうとしない。忘れ物や宿題をやってきていないことが多く、授業でのノートも書こうとはしない。班長会では、ゲイラとともにとらさんについて考える日々が続いた。
3週間が過ぎたころ、ヤマさんととらさんが、放課後に帰り支度をしながら話していた。
とらさん「お前すごいじゃん、いっぱい発表しとるじゃん。俺1回も発表してない。」
やまさん「えー?!1回もしてないん。なんでー?」
とらさん「えー。だって発表とか無理じゃもん。どうせ、まちがうもん。」
やまさん「まちがってもええんで。俺なんかそんなこともう気にしてないもん。お前もそんなこと気にせんで発表すりゃあええじゃん。」
とらさん「いやあ、俺は無理。」
翌日、西野先生は、この会話をゲイラに伝えた。とらさんが発表のことを気に掛けているものの、自分は無理だと思っていることを伝えたかったからだ。そして、「とらさんの意見を代わりに発表してもいいか聞いて、ゲイラや班の他の人が言うのはどうか」と提案した。ゲイラはさっそく実行に移した。とらさん自身は、提案を(あっさり)「いいよ」と承諾したが、自分自身の発表は一向にしようとはしなかった。だが、4 週間が過ぎたある日、とらさんはついに手を挙げ、発表した。班のみんなはもちろん、ゲイラは特に激しく驚いた。そして、うれしそうな表情に変わった。一か月声をかけ続けたゲイラの喜びは相当なものだっただろう。
西野先生のように、原案にもとづく取り組みを「仕掛ける」ことによって、こうした子どもたちの「願い」と出会うチャンスが生まれる。その「願い」に応えたいと「願う」リーダーたちともに取り組むことを通して、かかわり合い・認め合う関係づくりを学び合う実践の回路がひらかれるのである。
②信頼できる存在とのつながりが、新しい生活を創り出すちからになる
コロナ禍で子どもも教師も苦しむ中、5年担任の安佐口先生は新しい生活様式を押し付けるのではなく、新型コロナウイルス感染症に関する学習を子どもたちとともに進めていく。視点は次の6つだった。
1.感染者の推移・症状 2.子どもは発症しにくいと言われていること 3.自分は大丈夫でも、祖父母等に感染させる恐れがあること。 4.どこの学校でもみんながマスクをしているので、小児科を受診する子どもが激減していること。 5.ウイルスの感染の仕方 6.来年も続く可能性があること |
この学習を通して新型コロナウイルス感染症に対する理解を深めた子どもたちであったが、コロナ禍において多くの制限を求める「新しい生活様式」は、感情的には素直に受け入れ難く、「なんでマスクせんにゃあいけんのんや」などという声は続いていた。
この学年は低学年のころから暴力が蔓延し、子どもたちは何事にも不平不満を口にすることが多かった。安佐口先生は、暴力事件が起こるたびに、暴力の是非ではなく気持ちや理由を聞き取ることを粘り強く繰り返していった。5年生になり、この学年の担任となった安佐口先生に好意を持っている子どもたちは、後ろから飛び掛かったり、押したりするなどスキンシップを求めた。しかし、5年生ともなると体も大きく、その行為は先生にとっても子どもたちにとっても危険なものである。また、コロナ禍ということもあり、接触そのものによる感染拡大の危険も同時に備わっている。安佐口先生は、両方の危険性を説明しながら危ないからやめてほしいと子どもたちに要求する。それは徐々に受け入れられ、先生に対するスキンシップは寸止めに代わっていった。「エアー」の誕生である。そしてそれは、子どもたちにとって安佐口先生が信頼できる大人であることの確かな証拠であった。
市内には日帰りの野外活動となったり、野外炊飯ができなかったりした学校もあったが、安佐口先生の学校では、一泊二日で野外活動を実施することができた。しかしそこには、コロナ禍の野外活動ならではの工夫があった。
キャンプファイヤーのレクはすべてエアー。本来なら全員で手をつないで行うダンスも |
文科省や教育委員会から指示された「新しい生活様式」に対し、安佐口先生の学級の子どもたちは、「不平不満」という形で自らの思いを表現した。それを子どもたちの「楽しみたい」「関わりたい」という要求と受け止め、安佐口先生は子どもたちと学習を進めていった。「先生に対するスキンシップの寸止め」は野外活動のキャンプファイヤーの「エアー集団遊び」につながり、やがて学校での新しい遊びの様式を創り出すに至ってる。「エアー」という子どもたち自らがつくり出した新しい生活が、子どもたちの充実感や達成感や喜びとなっている。
4.今、大切にしたい生活指導
(1)行為行動の良し悪しではなく、つきあい続けながら互いへの理解を深めていく実践
「問題行動の背景」という言葉は、いわゆる「生徒指導」でもよく使われる。そして誰もが大切だという。しかし、学校スタンダードや生徒指導規定はその「問題行動の背景」を無視し、一律な指導を求める。私たち生活指導研究協議会は、「子どもたちは言語化できない要求を『問題行動』として表現する。」と捉え実践研究を進めてきた。よって大切なのは「言語化できない要求」をどう理解していくのかであり、そこに本質的な「問題行動」解決への筋道が存在している。
その際、西瓜実践からもわかるように、まず求められるのは、「行為行動の善悪を問わない」対話である。行為行動には必ず理由があり、思いや願いが背景にある。そこに行き着くためには、表出されている行為行動に対してその良し悪し評価することは、大きな妨げになる。極端な言い方をすれば、やってしまったことは仕方ない。未来の自分に展望が持てるようになるかどうかが重要なのである。そのためにも、教師も一人で抱え込まずに、学級の子どもたちとともに行為行動に至ったわけを聞き取ったり、考えたりしていきたい。そのプロセスが、子どもたちの相互理解を進める大きな力になる。行為行動の際の感情やそこに至る過程を聞き取られることを通して、子ども自身も自分自身を対象化することができ、未来の自分に対して希望を持って進めるようになるのである。
もう一つ、相互理解を進めていくためには、互いの価値に触れる活動が重要になってくる。西海実践では、独自のドッジボールの楽しみ方を持つリョウタの世界で、他の子どもたちも一緒に遊ぶ機会を創り出している。自分とは異なるものに出会ったときに、すぐには理解できないし、受け入れることは難しい。しかし、受け入れずとも排除せずに、つきあい続けていくことで、異なるものの価値に気づくことができるチャンスが広がる。同時にそれは、より豊かな世界に生きる自分へと成長していくことになるのである。
(2)新しい活動に取り組む中で、新しい関係を創り出す実践
西野実践や安佐口実践にみられるように、新しい活動に取り組むことは互いの新しい面の発見につながる。西野は原案によって子どもたちに「発表」という新しい活動を提案し、子どもたちとともに取り組みながら、互いの理解を進めている。安佐口は学習という形を通して「新型コロナウイルス感染症と新しい生活様式」を子どもたちに提起し、その学習を生かしながらその後の生活をより豊かなものにするために知恵を出し合い、前向きなエネルギーを創り出している。しかし、西野実践では寅さんが発表しないと断言したり、安芸口実践では子どもが「なんでマスクをせんにゃあいけのんじゃ」と叫ぶなど、そこには必ずと言っていいほど課題が生まれてくる。それこそが新しい関係を創り出すチャンスである。このように、新しい活動の導入は、その活動自体の成功を一義的な目的とはしていない。むしろ重要なのは、新しい活動が互いの新たな面を引き出し、新しい自分や友達に出会い、関係が変わっていくという点である。また、新しい活動の導入は、始めからすべてがうまくいくという前提には立っていないため、トラブルを想定しやすく、教師も子どももそれを対象化しやすいという特徴があり、未来の生活をみんなで考えていくには適していると言える。
5.おわりに
毎日の生活の中で起こる様々な事象を通して、子どもたちは様々なことを学び成長していく。だからこそ、どんな生活で、どんなことを学んでいくのかが、重要なポイントとなる。しかし、多忙な業務に追われ、教師は、その中身を分析する間もなく、次々と起こるトラブルへの対応に追われているというのが実態ではないだろうか。さらに今の学校では、トラブルが起こるのは教師の準備不足が原因とまで言われる。それは本当に人格の完成を目指す教育なのだろうか。子ども同士のかかわりをできるだけ少なくし、なおかつ限定して、トラブルが起きないように準備することは、子どもが今の自分とは違う価値に出会い、自分や自分と周りの関係を更新するチャンスを奪い取ることであり、成長の機会を奪うことなのではないだろうか。
私たち広島県生活指導研究協議会は、今の生活に新しい活動を取り入れることで表出する子どもたちの行為行動に対し、その良し悪しを判断するのではなく、それにつきあい続けながら、互いの思いや願いに対して理解を深め合い、新しい関係を創り出していけるような実践を、今年一年追及していきたい。