薬王堂気まぐれ通信使bU39  2011・10・30
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

日曜日、呉に行ってみました。


雨の振る中、呉の歴史を覗いてみました。
明治15年頃までは深く入り組んだ湾内に漁村が点在する田舎だったようです。
明治政府の富国強兵制度により一帯は海軍の鎮守府用地として注目を集めるようになります。
呉と呼ばれるようになったのはその頃からだったと解説に有りました。
入船山にあった亀山神社は鎮守府の用地とされ移転されます。
こんもりとした森には呉鎮守府司令長官官舎が建造されました。
並びに明治天皇が来られた時の行在所(宿舎)として用いられたと解説版に書いて有ります。


明治20年頃、最初の建物が建造されますが芸予地震で一度崩壊し洋館を併設した鎮守府が再建されます。
あいにくの雨、誰もいない旧鎮守府の司令長官宿舎に入ってみることにしました。
その前に建築物を一周してみましょう。
ガラス張りの縁側がぐるりと和館を取り囲んでいました
再建後は平屋建てですが最初に建てた官舎は2階建てだったとか・・・
庭もきれいに手入れされていました。
廊下で通じる洋館は入船山に通じる道の正面に配置されています。
洋館より右手奥の入り口から入ります。
玄関はさほど大きくありませんが中に入ると広い板の間があります。
広間に入る前に廊下を一周してみましょう。
風呂〜便所を過ぎ裏を過ぎると床の間が有る大広間が有ります。


そのほかにも広間三〜四部屋あるのでしょうか、襖を外すと相当の人数が座れる座敷となっています。
旧海軍の要人が集まり贅沢な宴会が繰り広げられたと想像できます。
廊下を進むと洋館に通じます。
壁紙(金唐紙)に彩られた重厚な造りでした。
机の上には食事が用意されていました。
その部屋を過ぎると椅子の有る接待室が有ります。


は天井まで伸びるガラス張り。
ここでも海軍に関する重要な話し合いがなされたことでしょう。
旧海軍幹部はなんと贅沢な集団だったことでしょう!
洋式のトイレも完備されています。
使用人の居室は六畳あるでしょうか?
第二次大戦終結(昭和20年)まで海軍司令官官舎として使用されその後11年間は連合軍進駐軍の司令官宿舎として用いられたそうです。
壁紙の金唐紙は白い塗料で覆い隠されましたが建物解体によって一部が発見され再現されています。
掃除は行き届いていました。
そっと入船山を後にします。



ここは旧日本海軍が要所を築いたために翻弄され続けた地区でも有ります。
海岸から急に山が迫りますので軍艇を横付けするには良港が出来ますが住民は大変です。
こんな建て方をして・・地震では大丈夫なのでしょうか?
旧第四ドックの建て屋は大和を建造した当時のまま残っています。
近くに敵飛行機を監視したトーチカが数個残っています
コンクリで強固に建造されているために撤去できないのでしょう。
中を覗いてみました


空き缶のような?砲弾の尻部のような?のようなものが見えます
今度、掘りかえしてみたい!
潜水艦と艦艇基地の上、串山公園の階段上にも大きなトーチカが残されています。
65年前、空襲にさらされた呉市、
その前には入船山を中心に栄華が繰り広げられ、130年前は静かな漁村だった地域、
これから先、呉はどのように変貌してゆくのでしょう?
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