薬王堂気まぐれ通信使bT98  2010・12・5
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

広島自然観察会のメンバーとして今回は野呂山に行きました。
呉から東に約10キロ、瀬戸内海に面する筆の町=川尻町から昭和38年に計画され昭和43年に完成した「さざなみスカイライン」を登ります。
標高:500メートル辺りの駐車場に車を停め横に走る岩海遊歩道を歩き始めました。


この岩海は流紋岩からなり他の岩海とは異なり岩の角が残っているのが特徴と聞きます。
案内は野呂山に千回は登ったと言う木村和子さんをはじめ、野呂山に詳しい他2名の先生でした。
出発早々、リュウキュウマメガキがありました。
途中、四国の山並みがくっきりと眺められます。
中央は石鎚山、その左手にはなつかしい瓶ケ森が見えます。


眼下には川尻の町、そして個人所有となっているという柏島、一度渡ったことがあります。
登りになりました。
大滑(おおなめら)岩で一休みです。


大滑岩より


西の頂上(839m)付近が一望出来ます。
この周辺には今でも開拓団の子孫が数軒、住んでおられます。
この寒い場所にね・・・
かぶと岩展望台まで登ってきました。
ここには地元で活躍する画家の作品を展示するレストハウスがありました。
そこを過ぎて弘法寺に向かいます。
随分昔からこのお寺はあるらしい!
岩の多いこの場所ではヒメノキシノブノキシノブを確認します。
ヒメノキシノブは葉の先がノキシノブほど尖っていないのが特徴です。
その近くにはイワヒバが張り付いています。
ヒメヤブランの黒い実が生っています。
カンアオイの一種=サンヨウアオイ
三角点(解説版)を過ぎキャンプ場を横目にしながら東の山頂(822m)を目指します。
そこから氷池まで下りました。


氷池


氷池(ヒョウイケ)の周りを通って大重岩(おおかさねいわ)を目指しました。
クロモジシロモジが混生していました。
足下にはセンボンヤリ、キク科のガーベラに近い植物です。
大重岩までは道に迷ったかと思うほどの細道でしたがこの周辺、開拓団が家を連ねていた箇所だったようで井戸や石垣の跡が見受けられます。
開拓団のお話をしてみましょう。
江戸期の末期(1828年)に広島藩の東の塞(実際は御家人や農民の救済策)として野呂山の開拓団が入植します。
多い時には200戸あまりの家があったそうですが天保の大飢饉(1836年)で食料がなくなり疫病が流行って二年後には36戸に減ったそうです。
その後、明治になって旧藩士達の救済策として30名が入植し荒廃した農地を開墾し官有地の国有林に植林を進めます。
しかしながら山の生活は厳しく常在する者が少なくなりましたが戦後(昭和21年)に三度目の開拓団が山を目指しました。

話は前後しますが明治期に入植した人たちは山の沼を塞き止めて池を造りました。
その一つが氷池(ひょういけ)、大正末期に製氷工場が出来るまで冬場に凍るこの池の氷を切り出して川尻町や安浦町、呉や四国、九州地区まで運んでいたそうです。
地元の酒蔵では米の発酵で樽が高温になるのを防いでいたと聞きます。
戦後に入植した写真を見せてもらいました。
軍服に馬に荷を運ばせ急な山道を登ったことでしょう。
貴重な写真です。


昭和21年に入植した第3次開拓団の出発の時(地元・安浦の方からの写真)


ヤママユの抜け殻(天蚕)がありました。
2日前は強い風が吹き山道には多くの落ち葉がありました。
今日はよく歩きましたね。
帰り際、向かいの下蒲刈島に渡ります。
ここにもマメガキがありました。
野呂山のリュウキュウマメガキとは違うような気がしました。
蒲刈島のマメガキは食べると甘く野呂山のリュウキュウマメガキに比べると種がありません。
あたりは夕焼け、蒲刈島の石切り場に夕日は落ちてゆきました。


上蒲刈島の石切り場に夕日は沈みます。

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