薬王堂気まぐれ通信使bT76  2010・6・4
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

NHKの歴史秘話ヒストリアによりますと毛利元就は3人の息子達の団結が無ければ築き上げた繁栄は無くなると諭したとか・・・
当時、中央で勢力を伸ばしていた織田信長は安芸の国に進出する気配も示していたという・・・
元就は教訓状(三本の矢の教訓伝)を示して三人の協力無しでは自国は保たれないと示したとか・・・
サンフレッチェの意味は、日本語の三とイタリア語のフレッチェ(矢)を組み合わせたものだと、
そうならばラテン語のトリ(三)と合わせてトリフレッチェ、またはスリーアロウとでも付ければ良かったのに・・・

今日は毛利元就が生涯を過ごした安芸高田市・吉田町の郡山城跡に行ってみました。

早朝午前4時半に家を出ます。
吉田町まで約1時間半、よくやりますね!
途中、陽はすでに昇っていましたが霞立つどんよりとした一日の始まりでした。
郡山城の入口Pに到着したのが6時過ぎ、城山跡に登ってみます。


毛利一族元就の墓に挨拶をして更に上を目指します。
百万一心を家訓として頑張ったという碑石、
山道は誰もいない、薄暗く霧がたちこめて妖しい雰囲気が漂います。


今から500年以上前に建てられていた郡山城の跡に到着します。
先ずは御蔵屋敷跡、平坦な広い敷地です。


直ぐ上の段には二の丸の敷地があり、前方奥には三の丸の広い敷地が広がります。
三の丸跡は二の丸跡より少し低く段がついています。
頂上は本丸があった狭い敷地跡で、当時を偲ばせる礎石数個が確認できます。
二の丸跡に下り三の丸跡まで行ってみます。
ここには屋敷を取り囲んだ礎石群が平然と並んでいます。
三の丸跡から少し下ると厩(うまや)の壇跡に着きます。
ここは馬を飼育した舎の跡らしい・・
馬舎跡から食事を作ったであろう釜屋の壇跡に山道を進みます。
ここでマムシグサがどんな根っ子をしているのか?一株掘ってみました。
木切れで10センチほど掘り進むと小さな根茎が出てきました。
ヒゲ根の下に丸っこい球根があるようです。
その時、素焼きの器の欠片が出てきます。
当時の食器の欠片でしょうか?
彎曲から直径20センチ程の土製の器を想像させます。
ここは管理をされた重要遺跡群、故意に掘ったわけではありませんのでお断りをいたし、ちゃんと埋め戻しておきましたので・・
釜屋敷跡から姫の丸壇跡に向かいます。
ここには先ほど紹介した「百万一心」の源碑石が埋められていたと伝えられています。
そこからぐるりを回って釣井の壇に来ます。
ここには水汲み場(井戸)があった場所です。
井戸跡は金網で保護されていました。
中は暗くどれくらいの深さで水が未だあるのか?調べる為に小石を投げ入れてみます。
約1秒弱、水の音はしないで柔らかい枯葉に落ちたような音が跳ね返ってきました。
デジカメを強制発光して中の様子を見てみます。


井戸の内部

釣井の壇を経て本丸跡を中心に一回りします。
そこから下って勢溜りの壇に行ってみました。
ここには城を守る兵士が寝泊りしていた広い敷地跡があります。
周辺の植物を見てみましょう。

オオバノイノモトソウ
クサギ
オモト
シラカシ
クララ
ワラビ
ネジキ
キランソウ
サンヨウマムシグサ
ヤマツツジ

ヤマツツジの花
オモトは三の丸跡にありました。
庭があったのでしょう。
ワラビも生えていましたが食料にした形跡でしょうか?
クララは虫下しや皮膚病薬・胃腸薬することが出来ます。
クサギの若葉は何とか食べれます。
ネジキやシラカシは山を構成する樹木だったのでしょう。

当時の人々はエゴノキの花となり物言わぬナメクジリになって城跡を守り続けているのかもしれません。

      夏草や、つわもの(兵)どもの、夢のあと・・・

仕事に間に合うように吉田町をあとにしました。
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