薬王堂気まぐれ通信使bT40   2009・9・6
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

先週に続き海について記録してみましょう。
絵の島という小那沙美島(こなさみしま)が広島湾に浮かんでいます。


現在は無人島です。
ここは謎が多く、トンネル(隧道)の多い島です。


絵の島=小那沙美島

明治37年に灯台が設置されたと言われています。
当時の広島湾には軍関係の施設が多く建造されます。
宮島・大那沙美島・江田島・能美島などにはあちこちに砲台跡が残っています。
宇品港や呉港には軍需工場や鉄道で結ばれた桟橋がありました。
重要な航路上という事もあって絵の島に灯台が造られたのでしょう。
しかしここには砲台などの攻撃基地は造られませんでした。
何事もなく時は過ぎます。
昭和に入って風呂のある観光施設が出来ます。
この島は個人所有の島でもありました。
ところが勝手に施設を造ったということで当時の軍ににらまれます。
軍との間で確約書?が交わされ有事の際には軍が全島を管理するということになったようです。
そして太平洋戦争が始まり島に関する詳細は分からなくなります。
ところが広島市に駐屯していた日本軍軍医からこのような情報を聞いたことがあります。
戦時中、体調を壊した兵隊を絵の島に送った!と・・・
隔離したというようなニュアンスでした。
どんな症状の兵隊を隔離したのか?
当時の医療では対処できない病気だったようです。
想像ですが伝染性のものではなかったかと思います?
それに関する資料は残っていないでしょう。
そして終戦、
イギリスとオーストラリアを中心とする連合軍が呉や岩国に進駐します。
宮島の神鹿はハンティングの対象になり激減したとも・・・
絵の島は進駐軍の海水浴場として使われました。
海原に浮かぶ孤島・風光明媚・白い砂浜・寄せる波〜・・・シツエーションは最高だったのでしょう。
ところが日本軍は療養施設として使っていた!
進駐軍は島にある洞穴を火炎放射器で焼いたと言われます。
消毒作業だったのでしょう。
その痕跡が洞窟に残る!という人があります。
洞窟の(特に3番トンネル湾側)天井は真っ黒に煤けているからです。
進駐軍が昭和30年に帰国し、絵の島は日本人相手の海水浴場として賑わい始めます。
その時に風呂が復活しますがどうも3番のトンネルは「塩風呂」に使われたのではないかと思われます。
数回の火炎放射では天井に黒い煤がこびりつくことはないでしょう。
当時、瀬戸内海ではあちこちで塩風呂が現役でした。
塩風呂とは海岸の洞窟を利用して中で火を燃やし海水を含んだ藻や筵をかぶせて蒸し風呂にする方法です。
その為に天井部分は真っ黒に煤けてしまいます。
恐らくその名残でしょう!
情報だけを頼りにあれこれと想像してみました。


松のある砂浜


島の周りは細い路で繋がれた痕が残っていました。
今は波に洗われて寸断しています。
それにしても洞窟の多い何時の時代何の為に誰が掘ったのか?
7番の洞窟は船が通れそうでした。


7番の洞窟


今日は大潮、通り抜けに挑戦してみました。
内に入る外海とは違波静か白い砂浜が続いています。
3番の洞窟が見えます。


3番洞窟・右側の開口部


二つの穴は中で繋がっているという・・・
2番の洞窟は真っ直ぐなんでしょうね!向うが見えます。
1番も同じ、何故開通させたのでしょうか?
そんな思いをしながら絵の島を後にしました。
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