薬王堂気まぐれ通信使bT04  2008・12・14
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

14日の日曜日、午後から地元府中町を歩いてみます。
55年前のこの地区を思い出してみます。


現在の役場の前の道はえのみや(多家神社)に通ずる参道だったと思われます。
川の両側は盛り土がなされ松が植わっていました。
この川筋を広島方面に向かうバスが通っていました。
昔のバスはエンジンが焼けると車掌が川までバケツを持って降ります。
水を汲んできて湯気の出るラジエターに灌いでいたのを思い出します。
米は配給制だった時期があるのでしょう。
米穀通帳は私が大学時代まで現役だったことを覚えています。
そんな農協跡の建物が残っていました。


府中町で一番にぎやかだった場所は多家神社の側の一本の古道
歯医者さんがあり散髪屋さんが有った道に古い民家が今も残っています。


道のはずれに昔もあった店が有りました。
ここには野菜があり魚もあって母からお使いを頼まれて来た事があります。
「サンマを買って!」だったのが、持って帰ったらイワシだったことに笑われた思い出が蘇ります。
55年前の出来事です。
府中町はえのみや地区の数十軒の家屋を中心に八幡地区、山田地区に集落がありました。
明治時代に干拓が行われて干上がった土地では稲作が行われます。
その時に浜田地区に数軒、土橋地区にも数軒の家が進出します。
全て田んぼだったのに今では民家が立ち並びます。
稲穂のたなびく小さな道を通ったのは僅か55年前!
江戸の時代以前は山のすぐ側まで海があったと言われています。
入江の港があったとされる尾首地区、ここには尾首の池があります。
室町時代に出張城の武将が討ち取った敵の首を洗った!と伝えられる気持ち悪い池ですがどんな干ばつがあろうとここの水だけは枯れることが無いという、
そこの上にある畑にお邪魔してみました。
広島菜を栽培していましたね。
柿のなる畑でお年寄りから話しを聞きました。
「ここから見える府中は尾首地区に数軒の家があっただけで前は前部水田だった!畑の横からはなんぼでも貝殻が出ますわい・・・」
確かに貝殻が斜面から転がり落ちています。
そんなに古いものではないと思われますが昔の人が棄てたものでしょう。
という事はこの下は海だった!
茶碗の欠片が有りました。
お多福の顔に扇子が描かれ「一分」と書かれた金子のようなものも有りました。
私はどうも昔のゴミ捨て場に興味をひかれます。
そこから小高い丘に登る山道は山田地区に通ずる峠だったと教えてもらいます。
かつて八幡地区の最奥のお寺に住んでいましたから丘を通る道すがら横切った小路を思い出しました。
そこから龍泉寺が見える山道に出ます。
55年前、府中町にはこんなに家は有りませんでした
遠くに見える双岩の頂上=岩谷の観音では戦後、私の祖父が寺の管理をしていました。
幼稚園、小学校にとこの道はよく通ったものです。
多家神社に着く頃には日が傾いていました。


府中町に最後に残された稲田を見て帰宅したという・・・そんな一日でしたね。

ホーム   一覧に戻る