薬王堂気まぐれ通信使bS97  2008・10・26
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

25日の土曜日に仕事を終えたのが5時半、それから周防・大島に向かいました。
目的地は大島郡・下田(したた)のある民宿、我が島荘でした。
郷土の歴史を調べる会に同行したからです。
大島大橋を渡り我が島荘に到着したのは午後7時15分頃でした。



気まぐれ広島人も色々な顔を持っていているでしょう!
今回は大島にまつわる遺物や有名人を訪ねるということで先ず@戦艦陸奥(むつ)の記念館、A村上武吉に関して、B青木周弼(すけ)、Cシーボルトの上陸した地点などに関連する場所を訪れてみました。

戦艦陸奥は知っているでしょう。
昭和18年6月に不慮の爆発によって大島沖3キロ地点に沈没した悲運の戦艦です。
瞬時に1100名以上の死者を出したと記録に書かれてありました。
シーボルトは1823年6月にオランダ船で日本にやってきたドイツ人医師です。
青木周弼(すけ)さんは医者の息子で幕末に徳川幕府の御殿医までになった優秀な医師。
シーボルトとは師弟関係のようです。
シーボルトの弟子達とも関連があったようです。
村上武吉は村上水軍直系の武将で厳島合戦(1555年)に毛利方について陶晴賢(すえはるかた)を破った総大将です。
その功績から大島の領主となりました。
後に豊臣秀吉に逆らったとも言われています。
(※全文にわたり今回の歴史探索の中心である門前先生の資料を参考にさせてもらっています。)


我島のある下田の漁港 26日夜明け前

という事で民宿で一夜を明かした気まぐれ広島人は夜明け前、我島の見える下田(したた)の港に出てみました。
この辺りには小さな島が散りばめられたように点在し瀬戸内多島美の景観を楽しむことが出来ました。
あたりを観察しながらの探索です。
この島の特徴でしょうか!吹き付ける海風に吹き飛ばされないよう屋根瓦には漆喰が塗られています。
大島ではどの地区でも墓所が山手にはなくて砂浜に有りました。
今では堤防が波をさえぎっていますが、かつては砂浜に死者を葬っていたと想像できます。
野生の植物では、アケビムベイスノキ(ヒョンノキ)、イヌマキエビズルノブドウトベラ、キカラスウリ、浜辺には、ハマゴウハマボウフウアメリカネナシカズラ(ハマネナシカズラ?)、ホコガタアカザオカヒジキハマサジコウボウムギ、外来種でしょうか、コマツヨイグサが見られます。
今時、寒くなるのにハマボウフウをキアゲハの幼虫が食んでいました。
民家の庭先には、トウワタフンセントウワタマルバルコウソウエビスグサ(決明子)などの花が満開でした。

朝食を終えた私たちは陸奥記念館にむかいます。
陸奥は大正に造られて改造を繰り返します。
太平洋戦争で戦機をうかがい停泊中でしたが不慮の大爆発で沈みます。
戦後、40メートルの海中から船の一部が引き上げられ陸奥記念館に展示してあります。
その後、大島の先端=両源田まで行くことにします。


大島最南端  両源田の海岸  向うに見えるのは情島


その手前には雨降という集落がありますので先端のわずかな場所=両源田には水の出る田んぼでも有ったのでしょう。
両源田には情島の見えるきれいな海岸がありました。
そこから同じ道を引き返し和田地区の青木周弼生誕の地に行きました
今はミカン山になっている小高い場所でしたが立派な井戸が残っており昔ここに人家があったことを示しています。
青木家が医業をしていた頃の住まいが有ったのでしょう。
青木周弼先生は大島の田舎出身から徳川幕府のお抱え医師になったわけで、私とは程遠い秀才だったのでしょう。

そこから隣村=内入(うちのにゅう)にある元正寺を訪れます。
ここにはバクチノキの大木が有って数回訪れたことがあります。
島が暖かいこと、人の手があまり加わっていないことなどからバクチノキは周りの島々にも生育していますがこの木ほど大きなものはないようです。
樹皮が肌身をさらすように赤いこと、木の下には剥がれた樹皮が転がっている事から付けられた名前です。
下草にヤマハッカコバノタツナミ、木本では、アベマキホルトノキの大木が見られます。
ここ元正寺の本堂には村上武吉の位牌があるという。
本堂横の墓地には当時を偲ばせる彼を祀った墓塔(宝篋印塔=ほうきょういんとう)がありました。


大島中央部 ミカン畑から我島を望む



それから大島中央を走るオレンジロードに入りました。
行く先はシーボルトが上陸したという沖家室島(おきかむろ)の対岸、牛の首でした。
私の道案内もあったのか行き過ぎたようです。
土居に近い海岸でセッコクを確認し外入(とのにゅう)を経て沖家室島に向かいました。
この島への橋は郷土研究家=宮本常一氏らの熱意をスローガンに1983年に架橋されたものです。


沖家室島の港  橋の上から撮影


その対岸、牛の首浜は荒い石が目立つ砂浜でした。
180年前(正確には1826年3月3日)、ここの沖に江戸幕府参府の為に上方に向かうシーボルトの一行が停泊したのです。
弟子の第一人者、二宮敬作も同船していたと言います。
シーボルト一行はこの浜に上陸し沖家室島や近くの風景を撮影し、動植物を採集、観察したと言われています。
岩の斜面にハマナタマメが生育していました。
このハマナタマメの先祖も採集されシーボルトのコレクションになったものでしょう。
オランダのライデン博物館に送られたのかもしれません。


左・ハマナタマメのある牛の首の海岸


シーボルトに関して門前先生の資料やネットなどで年賦を調べてみました。
概略、各説の解説は間違いないのですが月日が違っている部分が目立ちます。
それを要約すると斯様な年賦が出来上がりました。

29歳のドイツ人医師=シーボルトはオランダ商館の医師として1823年長崎に来日しています。
娘のイネさんは幕府参府が終わり1826年7月に長崎に帰ってからつくった子供ということが判ります。
7ヶ月もの長旅にシーボルトも頑張ったのでしょう。
以下、図譜に載せたとおりに歴史は進みますが5年後におきたシーボルト事件は多くの犠牲を出しました。
弟子の一人、高野長英さんも以後、悲運な人生をたどります。
超極秘情報だった伊能忠敬作成の日本地図複製や、その他、日本や幕府関係の資料多くが座礁した船から発覚したと言われています。
昔を想像しながら桜並木のある海岸を引き返しました。
今回の道案内役をしてくださいました角部先生の耕作するミカン畑ミカン男にもなりました。
帰路、コアマモのある海岸でハマボウフウの根はどのくらいの長さがあるのだろう?との疑問に思い掘ってみます。
長すぎて手が届かず根は途中で切れてしまいます
一日では廻りきれない周防の大島!次回来る時にはまた新しい発見があるでしょう。
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