薬王堂気まぐれ通信使331   2006・1・15
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

そこに行くと何があって、どんな環境で、今は?昔は?そんなことを想像するのが私は好きです。
ということで日曜日は1人、豊田郡安芸津町の大芝島に行ってきました。
呉を過ぎ、川尻〜安登〜安浦〜安芸津を経て1997年に開通した大芝大橋に到着します。
この地は土地を掘ると石炭層があるらしく本州側海岸の名も黒浜@と呼ばれています。
Aの大芝大橋から大芝西の方角を見てみました。
橋を渡りますと最近出来たミカンロードが山並みを走っています。
Bの場所からは特に見晴らしもよく、遠く右から↓上蒲刈島〜豊島〜大崎下島と続き、左手前には小さな小芝島があります。

今回、大芝島に来た理由の一つにC↓の辺りのヒメユズリハの群落を見てみたいと思ったからです。
この群落は本来の大芝島の山の姿を残している場所だと思うからです。
明治時代から温州ミカンが栽培されるようになって瀬戸内の山は伐採され本来の姿を消してきました。
人が入り込める暖かい斜面は天に登るほど耕され温州ミカンの木が植栽されます。
それまでは半農半漁の生活をしていたわけですから画期的な現金収入の方法ができたわけです。
現に大芝島のほとんどはミカン畑に覆われていました。
大芝南地区の山手だけヒメユズリハの群落が残っています。


ヒメユズリハの群落↑

私は群落を見た後に北方面Dの場所におりてみました。
ここは大芝大橋の架かるまでフェリーの到着する場所でした。
桟橋はまだ残されていて近くの人でしょうか!釣りをしていました。
そこから右折して島の周辺道路を通ることにします。
車一台がやっと通れる狭い道でガードレールも無く危なっかしい道路でした。
山が海に迫っていますので大きな道路が出来ないのでしょう。
台風時には寸断されているようです。
この島で気がつくのは石の地蔵様Fがやたらと多いことでした。
あちこちにありました。
F〜Gに入り組んだ湾は特殊で湾曲した地層がむき出しになっているところがあります。
H↓の、島では最北端(北東?)に行ってみました。
わずかばかりに耕作された土地があります。
島の老人と少し話しましたがここにある小さな島はかつて大きな松が茂る風光明媚な場所だったそうです。
たくさんのタヌキが住み昔は歩いて渡れるときもあったとか・・・ところが風と波が景色を一変させたと言います。


島の最北端に立つ灯台と思しき木の柱↑

ここの耕地には見慣れない植物がありました。
多分、ミカンやその他の農薬に混じって入り込んだ植物だと思います。
私はインチンナズナか?と思いましたがはっきり分かりません。名前が分かれば教えてください。
相変わらず危険な島の道を進むと大芝東地区に出てきます。
ここには十数軒の家が肩を寄せるように建っていました。
海からの風が強い場所なんでしょう。
小高い丘の室原八幡神社Iではご神体を祀る奥の院が吹き飛ばされていました。
後でわかったことですがここのご神体は大芝南の穀神社Kに移されていたようです。
Jには畑地があり植物もみられます。
温州ミカンツバキ・キューイフルーツ・茂木ビワ・柿・梅・クコセリなどが見られます。
セリは湯通しして巻き寿司の中の倶にすると美味しいですね。もちろん生でも食べられます
Kの穀神社に登ってみました。
社叢はそんなに広くはありませんがかつての島の植物を見つけることが出来ます。
ヤマモモヒメユズリハクロキ・シロダモ・シロミノマンリョウキヅタなどがありました。
そのほか、アオツヅラフジ・トベラ・ヒサカキ・ツルナなど、植えられたであろうサカキ、マサキなどの植物が見られます。
人家の上の小高い広場にはニッケイ(肉桂 Cinnamomum sieboldii)の大木があり、や樹皮を昔から味付けや健胃薬などに利用したものと想像できます。
Lには島で唯一の木造小学校が残されていました。
往時を偲ばせるものといえば校舎裏側の二ノ宮尊徳さんがじっとたたずんで読書をするばかり!

それとMに残るわらぶきの家が島の繁栄を物語っているようでした。
周囲約2.5キロ、人口180人弱の小さな島にも過去からの人と自然の歴史がまだまだ残っているようです。


瀬戸に沈む夕日と倉橋島↑

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