薬王堂気まぐれ通信使327   2005・12・18
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

18日の日曜日、広島は寒い一日でした。
私は広島市の出汐町にある被服廠跡に行ってみました。
ネットからマピオン地図を拝借し、少し手を加えて60年前の原爆が炸裂した時の位置関係を調べてみました。
被服廠は旧・陸軍被服支廠(ひふくししょう)という名称が正式な名前で大正2年に建築された鉄筋コンクリート製・レンガ造りという頑丈なものです。
かつては近辺に100棟もあったと言われますが今では東西に建つ3棟と南北に建つ1棟の合計4棟だけが残されています。
私が小学生の頃、学校が近所だったのと友人宅が出汐町だったことでこのあたりをよく知っています。
東雲町の小学校からこの辺りまではレンコン畑が続き、被服廠の建物の周りも一面蓮田でした。
原爆が落とされた昭和20年の夏、上空600mの炸裂場所から3キロの地点にありました。
旧宇品線に沿って建てられた被服廠の西壁は原爆炸裂場所から約45度の角度で光線と爆風を直接に受けます。
このことは以前の薬王堂気まぐれ通信使で触れたことがありましたね。
今回は建物の中に入れないだろうか?と思って行ってみたのです。
期待は裏切られましたが外からでも確認できる被服廠の原爆の痕跡をあらためて見て来ました。


A地点から見る↑


B地点から見る↑


C地点から見る↑


D地点から見る↑

A地点から写した3棟の被服廠の西面は原子爆弾の光線と爆風を直接受けています。
その時に受けた熱線と爆風によって全ての鉄窓が内にくぼんで変形しています。
分厚い鉄窓は内側にも鉄の梁がありました。
また、鉄窓の内側には鉄格子がはめ込まれて爆風で窓押し込まれた時に停めたのでしょうが、その強さに捻じ曲がっていました。
1棟の西壁に60もの鉄壁が今も残っています。
爆風を受けなかった東の鉄窓は大丈夫そうでしたが、同じ条件のはずの南壁の鉄窓は少し内側に曲がっています。
一つ一つの窓を撮影してみましたので皆さんに見てもらいましょう。

西側一階↑

西側一階↑

西側一階↑

西側一階↑

西側二階↑

西側二階↑

西側二階↑

西側二階↑

西側二階↑鉄窓が内に圧され中の鉄格子が入り込んでいる

南側一階↑
詳しい被服廠の情報に関してはここを見て下さい。
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