薬王堂気まぐれ通信使318  2005.10.2
Yakuoudo Capricious Communications Satellite
1人息子を伴い家族3人でマツタケを採りに山に入った一家は欲に目がくらんで道を誤り遭難します。
そして一年、あれだけ探したマツタケは遭難現場に生えていた!という場面です。

そんな近郊の山に行ってきました。

赤い線の内側がかつては海でした↑(日浦山頂上から海田湾を望む・右の山が黄金山、左が坂町、遠くに江田島)


10月2日の日曜日、気まぐれ広島人は新大阪で某漢方研究会の理事会に出席しなければいけませんでした。
午後の1時からです。
それなら朝のうちはどこかに行かなければ!と勇んで近くの町、海田町に行ったんです。
江戸時代、海田町は海沿いに街道がある宿場町の様子を呈していました。
参勤交代をする大名行列が西国街道(旧山陽道)を通るたびに、街道に出て通り過ぎる一行を見送る庶民にとって煩わしいものでした。
そのために家屋は街道に沿ってややななめに建てられたり、引っ込みのある道路部分をわざと造って早く家屋に引き上げたそうです。
今でもその名残は海田町や手前の鹿籠(こごもり)町の道路に残っています。

千葉家↑
その海田町の中心に千葉家があります。
この家は江戸時代に幕府からの要職を与えられていました。
諸大名の宿としても使われていたそうです。
千葉家の家紋がおもしろいですね。
そんな街道には昔ながらの土塀がところどころに残っていました
背後に日浦山(ひのうらやま=345.9メートル)があるこの町には古い歴史があるようです。
畝(うね)という場所から山に登ってみました。
ここには歴史を紹介した町のふるさと館がありました。
三段跳びで日本人で初めてオリンピック金メダルを取った小田幹雄さんはここの出身なんですね。
その他に古墳時代の遺物や町の歴史を紹介する物品が展示してあります。
この地で太平洋戦争中に使われたトーチカも残っています。
海田には海軍第十一師団空廠があったんですね。
海田とはその昔、開く田と書いたそうです。
室町時代から海田という字が使われるようになりました。
私が小さな時でさえ海田には大きな湾がありました。
潮の干満とともに大量の潮が出入りして近辺には豊かな海からの贈り物がありました。
今では埋め立てられています牛の首(うしのくび)辺りは岩の出っ張りがあり砂浜でイワシを干していました。
海田湾には多くのカキ筏が浮かび、その下で捕れるウナギは日本で一番美味しいウナギだとも聞きました。
今の湾は当時の何分の一の大きさしか残っていません。
それでも場所によってはアサリが捕れイワシの群れが回遊しエイが姿を現します。
日浦山には息を切らして登りましたね。
途中の尾根ではマツタケの匂いがしました。
畑では人が植えたであろう植物が見られます。
マルバルコウ(ヒルガオ科)
フウセントウワタ(ガガイモ科)
ハブソウ(マメ科)
パンパグラス(イネ科)
シオン(キク科)
などです。

そのほかには
ノブドウ(ブドウ科)
シラヤマギク(キク科)
ヤマハギ(マメ科)
ツユクサ(ツユクサ科)
シャシャンボ(ツツジ科)
名前の判らないマメの花
などが見られます。
ミツバアケビの実↑
ミツバアケビ(アケビ科)がたくさん実をつけていました。
種は気になりましたが美味しかったですね。
10時半に日浦山頂上に立った私は急いで下山し午後1時過ぎには新大阪のビルの一室で会議をしたという超多忙な一日を過ごしました。
10月2日、午前8時半:家を出発→・・・
9時〜9時半まで千葉家などを見ながら海田町を散策・・・
9時30分〜10時20分まで日浦山山頂を目指し山登り・・・
10時30分〜11時過ぎ〜急いで下山して帰宅・・・
11時20分過ぎに天神川駅到着
11時31分、広島駅から『のぞみ』に乗車して新大阪駅にむかう
12時51分、新大阪駅に到着、駅構内で親子どんぶりとアサリの味噌汁を食べる!
1時15分、遅ればせながらも新大阪駅近くの会議場に到着、会議に出席して出来るだけしゃべらないようにした。

5時に会議修了
駅の構内で出席者と懇親を深める!
午後9時半過ぎ、自宅到着・・・
午後12時、就寝。

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