薬王堂気まぐれ通信使bQ88   2005・2・11
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

終戦直後から10年間、オーストラリア軍を中心に編成された進駐軍(英連邦軍)が駐留した呉の浜↑

思い出は生きているうちにしておきましょう。
私の父は二年前に80歳でこの世を去りました。
その彼が33歳の時、今から50年も前のこと昭和30年10月に下の写真が撮影されました。

上の写真の海上で撮影された父の写真(昭和30年10月撮影)↑上陸用舟艇=バージが見えます。
場所は当時勤めていました呉の英連邦軍指揮下、進駐軍の敷地内海上です。
小船の位置から撮影した場所を赤丸にして逆撮影してみました。上の写真の四角内から撮影したと思ってください。

歩兵であった父は満州で一年間捕虜として生活し日本に戻ります。
その後、結婚し当時呉に進駐した豪州兵の多い海上輸送隊に勤務します。
当時としては給料がよく職が安定していたこと、軍隊上がりで体力があったことなどがその理由だったんでしょう。
英連邦軍は戦後すぐに呉に進駐し、昭和31年、土地を日本に返還するまで魚見山周辺の海岸に駐留します。
父はそこで上陸用舟艇一艘を管理していました。
私が5〜6歳の時、数回、進駐軍基地に連れて行ってもらいました。
舟艇の大きなブイの上で魚釣りをしたことを覚えています。

今回、その写真に写る場所を探しに出かけたんです。
残念ながらゲートのあった進駐軍の坂道はありましたが基地と思われる場所は石川島播磨重工の工場内になっており入ることができませんでした。
それでもその箇所に行くと50年ぶりに思い出すことがありました。
当時、子供は正門ゲートから入れなかったのでしょう。
ゲート奥、少し山手の藪の中をくぐって基地内に入った記憶が思い起こされました。
基地内ではかまぼこ型のドームに入り、食堂だったと思いますがカウンターの側で3人の外人に話しかけられたこと!かすかに思い出します。
そんな場所から少し入ったところにもう一つ進入禁止地区がありました。
そこにはこんな一文が・・・

『許可のない次の行為は禁止します。@魚釣り、運動、A物品の販売、保険契約などの勧誘、B通り抜けること、』

私は許可は持ち合わせませんが@ABに該当する者ではありませんでした。
それで中に入っていったのです。
幸い休日でしたので内部に人がまばらです
で、50年前の白黒写真にある山(赤い四角の中)に登ってみたのです。

上の写真の赤枠を拡大した画像↑
大きな物でもゆっくりなら牽ける広い坂道を登ると鉄塔が建っていました。
側には拡大写真にもかすかに写る建造物が現存していました。
しかしその後方に写る大きな建物は無くなっていました。
何が収納されていたんでしょう?

鉄塔横の画像に写る建造物↑
場所は呉湾から広島湾まで一望でき正面に江田島・古鷹山を望む一等地です。
300メートル先には小さな島もあります。
建造物の中に入ってみました。
レンガ造りの建物は太平洋戦争で日本軍が使っていたものでしょう。
しかし内部の壁は白く塗られています。
そして風速計と風向計が残っていました。
機器の内部に『WIND SPEED』『WIND DIRECTION』の二つの文字が確認できます。
日本軍の異物でしたら英語は使わなかったでしょうから進駐軍が残したものでしょう。

左の計器にはWIND SPEED、右にはWIND DIRECTIONとあります。白塗りの板壁は進駐軍によるものでしょう↑
天井にはさびてはいますが方位計が残っています。
東西南北が漢字とアルファベットで示されています。
これくらいなら日本軍も使ったかもしれません。
外を偵察した監視塔が残っています。
ガラスは残っていませんがはめ込んだ鉄の枠は残っています。
屋上は広く整備され対面の島に通じるロープウエイ施設が天にさらされています。
その横に、あの消えた大きな建造物の柱跡でしょうか?鉄柱が何本か切断されています。

山の頂上は大きなものを設置したのでしょう、平たくなっており建物があった形跡があります↑
当分人が近づいた形跡はありませんでした。
山側には当時からの建物でしょうか?砥石工場があります。
50〜58年前には父もここに来たのでしょうか?

今では分からなくなった過去を無許可でなぞってみたという、そんな一日でしたよ!

鉄塔のある山の現在の様子↑山の防空壕と石造りの岸壁は当時のままでした。
※詳しい施設名はネットで検索されるとまずいので伏せています。

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