薬王堂気まぐれ通信使bQ74  2004・11・2
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

土井が浜遺跡 人類学ミュージアムに咲くツワブキの花↑
先日、10月31日の日曜日に山口県西部・下関に近い日本海岸の土井が浜に行ってきました。
あなたや私のルーツを探る旅でした。
広島から山陽自動車道を九州方面に2時間、そこから40〜50分一般道を日本海岸に向けて走ります。
土井が浜には立派な博物館がありました。
土井が浜遺跡・人類学ミュージアム』という建物です。
ミュージアム内部は休憩所遺跡ドームもある広い敷地です。

史学を学ぶ会の面々↑
日本人はどこから来たのか?
興味深い謎ですね〜
そもそも50万年くらい前、日本列島がまだ大陸と陸続きだったころ、北海道や朝鮮半島を伝って人や動物が入り込んだのだろうと言われています。
その頃の人は旧石器時代人。
沖縄も本土との道筋はありませんでしたが中国大陸とは続いていたようです。
人の痕跡が頻繁に見つかるのは今から15000年前から3000年前くらいの縄文時代とされています。
いわゆる縄文人というわけですね。
この縄文人は日本のいたるところに住んでいたようです。
日本の先住系民族と言われる方々です。
私の血の中にもこの遺伝子があると思います。
当時の縄文人は姿かたちに差異が無かったと言われています。
頭が大きく顔の幅が広くて背が低い・鼻の付け根がくぼみ顔の凹凸がある・縄文後期には頑丈な骨格を持つようになったと言われています。
日本の縄文末期(約3000年前)、中国は人が多くなり文化も栄えて大陸内で交流が盛んに行われます。
春秋戦国時代(2700年前〜2200年前)になりますと内乱がひどくなり土地を追われる人が多くなった時期だそうです。
秦の始皇帝さんが中国を統一するのが紀元前221年ですからね!(←新字源で調査)
この時代に土井が浜の遺跡は造られたんですね。
人類学ミュージアムの館長さんのお話しでは中国・遼東半島付近出土の当時の人骨と土井が浜人骨とがよく似ているそうです。
中国から船やいかだで沖に漕ぎ出し偏西風にあおられて漂着したグループが土井が浜の人達だったのでしょう。
なぜかと言いますと、それまで日本に住み続けてきた縄文系人類とは明らかに骨格が違っていたんだそうです。
背が高くて顔が細長い・あごが出て骨が大きく歯が磨耗しにくい・眉の上の隆起が少なく顔面は扁平で凹凸があまりない!
そのほかにも手や体に付ける貝などの装飾品埋葬の仕方、抜歯などの風俗的な特異性などから大陸系の人類と推測されました。
しかし土井が浜の人たちはそんなに長くこの地に住み続けていなかったようです。
約250年続いた土井が浜の生活史は西暦50年ころに終わりを告げます。
今までに掘り出された人骨は300体!せっかく安らかに眠っていたのを起こしてごめんなさいね!
私達、史学を学ぶ会の面々は歯列を勉強するために数人の頭蓋骨を観察させていただきました。
私は画像班長です。
一体、非常に美しい女性の頭蓋骨に会うことができました。
今も昔も美人はいたんでしょうね〜。
気まぐれ広島人はその骨格に肉付けをしてみました。

※現在の日本人は在来型縄文人の遺伝子を持つタイプとされています。
縄文時代から弥生時代になって骨格的な地域差が出てきました。
その主な分類が@〜Dのようになります。
気まぐれ広島人の友人に登場してもらい主な違いを自分なりに確認してみましょう。
弥生時代以降、日本は地域性と階級性の格差によりダーウィンの種の起源説を証明するような時代に突き進みます。

@ 北部九州・山口系弥生人

A 西北九州・佐賀県系弥生人

B 土井が浜弥生人(渡来系)

C 南西諸島・鹿児島系弥生人

D 北方系弥生人


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