薬王堂気まぐれ通信使bQ73  2004・10・24
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24日の日曜日には『広島・史学を学ぶ会』に同行しまして山県郡千代田町に行ってきました。
千代田町には北西部に古保利(こほり)山があり、かつて福光寺(真言宗〜真宗)と云うお寺がありました。
私は古保利山に安置される仏像を見に行ったんです。
特に本尊の薬師如来坐像は圧巻でした。
ヒノキ一材から掘り出された身丈122センチメートルの平安時代初期の作とされています。
そのほかにも日光菩薩立像(カヤ一材)・月光菩薩立像(カヤ一材)、千手観音立像(ヒノキ一材)、吉祥天立像(カヤ一材)、十一面観音立像(カヤ一材) 、四天王立像 、十二神 、その他、漆に金箔を残す仏像 、などでした。
本尊の薬師如来像は昭和17年に国宝に指定されました。
現在は法改正により上記の四天王立像までを重要文化財として指定しています。
(仏像の画像は気まぐれ広島人が許可をもらい趣味の領域で撮影しております。文化財ですので画像を他に利用しないで下さい。)


本尊の薬師如来坐像↑

日本の平安時代と云うのはいつごろか、知ってます?
私もよく知らなかったんですが西暦800年ごろから西暦1000年過ぎころと記されています。
その時代に造られた仏像なんでしょうね。
中世の千代田町を統治してきたのは吉川系の豪族です。
広島県の中西部、千代田町や大朝町を中心に統治してたんですが1600年の関が原の戦いで吉川さんを含む毛利系の方々は徳川家康さんに叱られて領地を没収され山口県方面に追いやられます。

系譜・毛利元就の息子たちと万徳院↑
毛利元就さんは偉かったんですけどね〜
1555年には毛利元就と三人の息子たち(三本の矢で有名!)で協力体勢を組み厳島合戦までやってのけたのに・・・
元就の次男=元春は千代田町を中心に栄えた吉川家に養子として入ります。
その吉川元春の長男=元長(毛利元就の孫)は万徳院という菩提寺を1574年に創建します。
乱世の世を憂い現世逃避(420年前の万徳院・航空写真)の意味もあったと言われています。
しかし元長さんは短命でした。
40歳過ぎに亡くなります。
万徳院創建から13年後のことです。
その後、弟=吉川元春の三男=広家が万徳院を継ぎます。
しかし13年後の関が原の戦い(西暦1600年)で戦国武将の情勢は一変します。
発掘の状況から吉川家の縁者たちは着の身着のままで万徳院を後にしたと言われています。
風呂の壁土は倒れるがままに、日用品や食器類はあちこちに散乱し、経文の彫られた版木は放置されていました。
関が原の戦いは歴史を動かすほどの多大な影響があったんですね〜
結局、万徳院は26年間、千代田町の山奥に存在しただけでした。
万徳院は山中で廃寺廃屋として400年間、手付かずで眠っていたんですね。
先ほどの古保利の仏像に関してですが昭和の初期にやっと価値を見出され修正を加えられて世の中に再デビューしました。
近くの万徳院も1991年に発掘調査が始まって本堂が再建されました。
特にトイレの跡の底木から山鳥やイノシシの骨、雑穀片が出たと聞きました。
またベニバナの花粉が大量に出たと聞いています。
ベニバナを寄生虫駆除のために煎服したらしいです。

この地には高い文化があったんですね。
それにしても私を随伴してくださった史学を学ぶ会の面々、インテリが多かったですね〜

広島・史学を学ぶ会の面々↑
ほとんどが医学博士であり歯学博士・文学博士です。
僕なんかドクターライセンスなんかありません。
一つ自慢できるとしたら二級船舶免許を持っていることぐらいです。
・・・・
古保利の森にはカラタチバナの赤い実がありました。
万徳院にはミミカキグサが咲いています。それにマツタケが少々ありました。
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