薬王堂気まぐれ通信使257
  2004・6・27
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

いや〜!人生いろいろあるもんですね〜

先先週は私の神童ころの記憶話しを載せましたが昨日(27日)の日曜日はその遠い昔を思い出すような探索に出かけたんです。


上流から下りてくるしきやん↑

私が丁度小学生低学年だったころ、今から47年〜48年も前のころでしょう。
出身地の能美島、大君地区に帰りまして隣村への大原超え(大柿町地図)をするときに川端で必ず会う人がいたんです。
その名は『しきやん』
ほとんど裸で、肩には今切ったばかりの竹を背負っていました。
そして歌ってる言葉がありまして・・・

『アンディカヅアヅアヅ〜♪』

今、思い返してもその言葉の意味はまったく意味不明?
怖かったですね〜
2〜3度、会いました。
それも一本道を上流から下りてくるんですね〜
子供心に逃げましたよ〜!一目散で・・・

そんな思い出を昨日の華岡青洲の弟子をたどる会の最後に当地在住の宝持寺の若奥さんに聞いてみました。
若奥さん曰く!
『いました!いました!』ですと・・・
奥さんも怖くって歌の歌詞もまったくそのとおりだったと言います。
しきやん!今どうしてるん?

そんなわけで昨日は音戸出身の華岡青洲門人=武藤周造さんと佐伯郡大原出身の山野井元恵さんの消息を探しに『史学を学ぶ会』の皆様に同行いたしました。
音戸では音戸教育委員会の沖花広一氏に当地にまつわる歴史をお話ししていただきました。


かつて醤油屋を営んでおられた音戸町の教育委員=池田氏自宅にて  (話されているのは沖花広一氏)

音戸の瀬戸は平清盛が1156年に開削工事して通れるようになったと聞きます。
その後、海運の要場として幾多の船が狭い海峡を通り抜けます。
地区のお寺を見ても分かりますようにずいぶんな金持ちが住んでいたようです。
金持ちといいましてもわれわれが知るところの金持ちではなくて大大大金持ちだったそうです。
残念ながら音戸での武藤周造さんについては分かりませんでした。
しかし大原出身の山野井元恵さんにつきましては消息が分かったんです。
今から180年位前のことなのになかなか分かりにくいことが多いんですね。
大柿町に山野井元恵さんの子孫が住んでいらっしゃいました。
医を志して和歌山の華岡青洲先生の所に行くまでに関所で見せるための通行手形が残っていたんです。
山野井さんの書状=通行手形↓(下の現代語訳拡大文章)は親族から灘尾記念文庫に寄贈され陳列されています。


灘尾記念文庫に寄贈された山野井元恵氏の関所通行手形↑(浄円寺発行)

実は私の祖母は大原出身で若き日の灘尾弘吉(代議士)氏を知っていたそうです。
年も灘尾先生より少し下で、もしかして間違っていれば、結婚話もあったりして・・・
そんなことはないか?

広島地区・芸州からは約70名の医を志す若者が弟子として和歌山に赴いたと記されています。
華岡青洲は広島出身の医師=吉益東洞の息子、吉益南涯に学んだとも聞いております。
伝統医学の上に蘭学を取り入れた華岡青洲は外科医療にまい進するんですね。

訪れた箇所は音戸ロッジに集合し、大君の浄円寺大柿町の明慶寺・灘尾記念文庫歴史資料館・宝持寺などでした。

そうそう、弟子の山野井元恵さんは大君の浄円寺の関所通行手形を取得しているんです。
大君地区・浄土真宗・浄円寺さんは私の父の本家の菩提寺なんです。
お寺は昔から今の役所のような働きをしていたんですね。
それにしても私の祖先と山野井元恵さんは近いじゃあ〜ありませんか!ね〜・・・


宝持寺庭のアジサイ越しに見た大柿町地域・灘尾弘吉氏出身地でもあり、しきやんがよく出没した地域

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