薬王堂気まぐれ通信使bQ51   2004・5・9
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

9日の日曜日、私と漢方を愛する友人とで江田島に行ってきました。
何故かと言いますと江田島・津久茂(つくも)と言う場所から華岡青洲の弟子になった人が出た!と聞いたからです。


江田島兵学校から見える津久茂(品覚寺は集落中央上部あたり)↑

声をかけてくれましたのは日本医史学会・広島支部の方々からでした。
広島医史学の方たちは毎年9月、広島大学医学部校内で吉益東洞を偲ぶ会をする広島漢方研究会と共同講演をいたします。
お世話役の門前先生と三宅先生のお誘いに追従したと言うわけです。

私のうちには華岡青洲の門弟が残したと思われる処方集=春林軒瘍科方筌が残っています。


華岡青洲著・瘍科方筌の写本

30年前に東京の東大赤門付近で購入しました。
書店の蔵の中から見つけましたので余り高くなかった記憶があります。
華岡青洲(1760年〜1835年)は世界で初めて乳がんの手術を実行した医者として有名です。
和歌山県で活躍し、特に外科医術に精通し、乳がんだけでも153例の治例があると聞いています。
青洲はチョウセンアサガオの花が入った中国の華陀(かだ)創方の麻酔薬=麻沸散に注目しました。
チョウセンアサガオの花=曼陀羅華(マンダラゲ)に当帰野生のトリカブトの根・マムシグサの根などを混ぜ麻酔に用いる通仙散と言う処方を完成させて全身麻酔に使いました。
しかし入っている生薬を見る限り、かなりの副作用があったようです。
青洲が乳がん手術で名を上げたのが1804年と聞いています。
彼が44歳のときですね。
以来、日本の外科医師を目指す俊才たちが噂を聞いて華岡青洲の門を叩きます。
総勢約3千人の門弟がいたとも聞いています。
その中の一人、津久茂出身の加藤三省(後改め山田好謙)氏の名前を見つけに行ってまいりました。
彼は佐伯郡能美島九十九(津久茂)村から文化11年(1815年)に入門しています。
青洲先生が55歳当時の脂が乗り切った頃の弟子ですね。
一生懸命調べましたが津久茂村の過去帳には類似の名前が載っていませんでした。
生まれたのは津久茂で没したのが他の地域だったのかもしれません。
調べたのは津久茂町・真宗寺院・品覚寺です。
親切な住職でしたね〜
品覚寺には織田信長時代(1577年)からの記録が残っています。
広島県史によりますと昔(1324年以降〜)この付近は江浦村と呼ばれ『江浦草=つくも』が生い茂っていたと書いてあります。
畳表にする『フトイ=別名つくも』という植物が海岸の沼地に多く自生していたのでこの名が付いたと記されています。
昔のことですから植物を鑑定する人もいなかったのでしょう。
但し、私はこの付近の無人島でフトイに似たカヤツリグサ科の植物・アンペライ(Macaerina rubiginosa)↓の群生を見たことがあります。
もしかしてよく似たこの植物が津久茂の浜にも群生していたのでは?と私なりに直感しました。
アンペライ(根と茎)はフトイに姿こそよく似ていますがやや太く幹が中空で乾燥しても柔らかなアンペラ(敷物などを指す)にしか使えないことから名付けられています。


無人島に生育するアンペライ↑(カヤツリグサ科 アンペライ属)1999年撮影 

江田島兵学校を見渡す津久茂の品覚寺は25年前に裏山が崩れて本堂が壊滅し4人が死亡したと言います。
江田島湾を見下ろす温暖で絶景の場所にありながら、村は急斜面に増設されて津久茂=九十九村=一里の欠点のある村として今も存在しています。
過去帳は亡き人々の記録の証でしたね。
最後に全員で写真を撮りました。

南無阿弥陀仏・・・・ア〜メン!

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