薬王堂気まぐれ通信使№764  2017-1-22
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

22日の日曜日は広島自然観察会に参加して広島市宇品沖にある金輪島に行ってきました。
午前10時過ぎに宇品港を出航片道運賃は220円約10分で金輪島に到着します。


金輪島の西側、中央に戦時中に建てられたと思われる記念碑が見えます。


この島は花崗岩からなる周囲5キロメートルという島です。
最高地点は金輪富士と呼ばれる標高159mの山、居住地区は限られているため山に登る道はないと考えられます。


住民は一般民家に約40人ほどが住むだけで造船所(新来島宇品どっく)勤務の通勤者・寮生活者約350人程度がいるだけだと聞きます。
人の住むエリアは造船所付近に限られ金輪トンネルを通って生活する西側の住人はごくわずかと思われます。
恩師から聞くところによると昭和20年8月6日、当時広島師範学校の学生として動員され船舶の仕事を金輪島でしていたら閃光の後に強烈な爆音と爆風が襲ってきたと言います。
工場のガラスはすべて吹き飛び建造物等に多大な被害が出たそうです。
その夜、広島市内で働いていた学友が気がかりで比治山に登ったところ広島市は火の海で地獄を見ているようだったと話してくれました。
金輪島の工場は爆心地から6キロ弱あったことと広島市とは山を挟んで反対側であったことで被害が最小限に食い止められたようです。
当時は陸軍が監理する野戦船舶本廠の造船施設がありました。
高台には旧陸軍照空灯陣地があり軍の島として一般人は入れなかったと聞きます。
現在でも島の入口にある桟橋は新来島宇品どっくの専用桟橋の感があり、一度、船を係留して上陸しようとしたら守衛さんにとがめられたことがあって断念、どうしても上陸してみたい島でした。
この島の歴史を少し紹介しましょう。
江戸時代中期までは無人島でした。
1749年、一商人が燈明の原料であったハゼロウ(ろうそくの原料)を採取するため島でハゼノキを植栽します。
10年後には和ロウソクの工場まで建設したそうですがハゼノキの実が計画通りに実らず事業失敗!再び無人島になったと聞きます。
しかし南西部には今でもハゼノキが多く自生しています。
1894年(明治27年)に日清戦争が始まり、宇品港は軍事基地となります。
近くにあった金輪島には陸軍の造船工場が設けられ民間人の立入りは禁じられました。
敗戦後は民間の企業(金輪島船梁KK~西部造船KK~新来島宇品どっくKK)に引き継がれ現在に至っています。
今回は新来島どっくKKさんの許可を得て工場内を歩かせてもらいます。
最初に金輪島神社にご挨拶をすることにしました。
石燈籠の本柱に書かれてあったのは江戸時代中期の寄進、特に変わった樹木もなかったけれどクスドイゲの低木が一本見られました。
社叢はカクレミノ・クロガネモチ・リョウブ・ヤブツバキといった常緑広葉樹がほとんどです。
道路での車にナンバープレートが無いことに気が付きます。


車にナンバーが無い!


車道の横壁にはいくつもの防空壕の跡が残ります。
島への一般外来者がいなかったために防空壕は70年前そのまま、ただ入込禁止の看板だけが無造作に立てかけられています。
中を見てみました


防空壕の入り口、70年前の設備?が朽ちながらもそのまま残ります。


山道に入り反対側へ歩き始めます。

カミヤツデ
ニワウルシ
シュンラン
クスノキ
サルトリイバラ
マンリョウ
アカマツ
ミツバアケビ
ヒサカキ
ナナミノキ
サネカズラ
リョウブ
ヤシャブシ
タブノキ
コジイ(ツブラジイ・)
コクラン
ウラジロ
ベニシダ
コシダ
クロキ
ヤマイバラ
サツマスゲ
コバノミツバツツジ
ホラシノブ
カニクサ
フユイチゴ
ヤブニッケイ
ムベ
トベラ
ハマウド
スイカズラ
ツワブキ
トウジュロ
ネズミモチ
オニドコロ(根)
ヤマヤブソテツ
セトノジギク
ヤブソテツ
フモトシダ
イヌビワ
クリ
テイカカズラ
タチバナモドキ
アオツヅラフジ
ダンチク
ハゼノキ(実)

の順で確認します。


左は峠島、右に見えるのは似島


その他の植物も数多くありましたが花崗岩地域における島ならではの植生を形成しています。
途中、原爆投下時、宇品の暁部隊の兵隊さんが被ばくした市民を約500人ほどこの島に避難させましたが、ほとんどの方が亡くなられその慰霊を供養する碑に手を合わせます。
すぐ近くには今のトンネルが1996年に完成するまで使われていた昔からのトンネル入口に見入ります。
約20年前まで荒堀のこのトンネルが使われていたと思うとぞっとしました。
ダンチクのある浜に降りてみます。


ダンチクのある浜、向こうは宇品のプリンスホテル


水がきれいです。
ここにもイノシシがいるようです。
この横の高台に戦時中に作られたと思われる記念塔がありました。
現場まで登ってみます。
9文字ほど字枠が掘られていますが今は字面を剥離し木切れで覆っていました
何と書いてあったのでしょうね。
ここの前を通過して数多くの若い兵士が戦地に送られたことでしょう。
戦意高揚、日本國賞賛、勇猛果敢を鼓舞するための9文字が書かれてあったと想像します。
道とは名ばかりの坂道を上り下りして島を一周しました。


造船と船舶修理は今でもなされているようです。
午後2時半発の船で島を後にしました
もう来ることもないでしょう!
さようなら、金輪島・・

※道に落ちていたハゼノキの実を割って火をつけてみましたので紹介しましょう。
確かに能く燃えるものです。
ハゼノキの実を砕いてみます。


ハゼノキの実・右端、外果皮の内側にロウの成分を含む中果皮があります。

中果皮に火をつけてみます。
よく燃えます


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