薬王堂気まぐれ通信使bU94  2013-9-29
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晩夏の京都に行ってきました。京都はまだ暑い!


目的は山科(京都薬科大学)での学会でしたが午後から時間を見つけて吉益東洞先生(東洞全集から引用)の墓前にお参りすることにしました。
吉益東洞(よしますとうどう)、聞きなれない名前と思われるでしょうが、江戸期の医学界に一石を投じた安芸の国(広島)出身の医傑です。
時は元禄十五年というと赤穂浪士の討ち入りした次の年ですが西暦1702年に東洞先生は広島の現・幟町(旧山口町)で生まれたとあります。
1773年・71歳に京都で亡くなられ、その墓は京都市十条・東福寺内の荘厳院にあります。
東洞先生に関しては大正末期に著された呉秀三先生の「東洞全集」に詳しい記載があります。
その後、昭和47年に富士川游先生が著された「日本医学史」に概略が記されています。
昭和48年、私は東京の大塚敬節先生の医院で漢方の勉強をしながら調剤をしていましたが、その時に広島県医師会の代表として江川先生(2000年東洞祭)が吉益東洞の記念碑を建立するにあたり大塚敬節先生の筆字を碑文としたい!と上京されます。
一週間ほど仕事が終わると奥の居間で和紙を広げ、ああでもない!こうでもない!と書いては丸めての敬節先生を思い出します。
広島県医師会館には同時期に作製された吉益東洞先生の碑石があります。(昭和55年ころ・碑石の前で)
更に大塚先生の字体による記念碑が作製されたわけです。
記念碑は寺町の方専坊寺院正面に建立されました。
石質は長尾氏(広島漢方研究会)の意見から四国の緑石を使います。
十数年間、方専坊にあった記念碑でしたが維持管理上の問題が生じ広島大学医学部校内に移転されます。
以後毎年、吉益東洞先生の功績を讃えて顕彰会を広島漢方研究会が主催して行っています。
今年は19回目、吉益東洞研究者の舘野正美先生を特別講師としてお迎えし顕彰会を開催しました。

京都市内を本格的に観たのは初めてでした。
歌舞伎の南座五条大橋、格子目に区切られた道路、溢れる人々・・・
結婚40年目にして初めて妻へのプレゼントも買いました。
下って十条通りから東福寺に行きます。
東福寺、荘厳院!ここに吉益東洞先生の墓はありました。
墓を参り廻り歩く者をハカマイラーと言うそうです。
先達に導かれての行客でした。


黒川先生(中央) 纈J先生(右)と共に

続いて五条通りに向かいます。
ここには五条天神社がありあす。
吉益東洞は37歳の時に家族を伴い京都に移住します。
艱難辛苦、医療を志しますが患者はおらず、人形(木偶人)を造って糧を得たといいます。
7日年目、44歳の時に人形を納ていた商家に病人が出て山脇東洋(日本で初めて人体解剖をし藏志を著す)の処方を見ますが一味を削ることを家族に進言したことを東洋が感服し親しくなります。
当時、東洞先生は少彦名命(スクナヒコナノミコト)を祀る五条天神社に将来の大盛を祈願していたと聞きます。
山脇東洋と親しくなった後、居を東洞院付近に移し「東洞」と名乗ります。
時は1750年ころの京都、巷には性病が流行り梅毒や淋病の患者を診る医師は少なく、有効な薬もありませんでした。
そんな中、吉益東洞は副作用の強い塩化水銀(軽粉・生生乳など)を使い治療をします。
当時、梅毒や淋病に特効薬があったわけではなく治療しても多くの犠牲者が出ましたので他の医者から非難を受けます。
それでも医療活動を続け丸散方類聚方を著します。
特に類聚方は発刊するとベストセラーになり瞬時に1万冊を売りつくしたと言われます。
後継を長男の南涯(なんがい)に託し、南涯は方機を出版し家伝のテキスト本(三陽三陰論)↓を使って多くの弟子を育てます。


三陽三陰論(左は小曽戸洋先生蔵の同名本コピー) 吉家とは吉益家のことで南涯が教材本としていた。吉本蔵


南涯の弟子には後に有名になった華岡青州先生がいます。
東洞先生は71歳で亡くなる3〜4年前に広島に一時(墓参り・錦を飾る)帰郷しています。

当時の弟子に書き与えたという東洞の辞があります。


「若し薬 瞑眩(メンケン)せざれば 厥(ソ)の疾(ヤマイ)えず  東洞主人書 ○落款円鈴朱 □落款方鈴朱 

若し薬を服用したあとで、身体に変化(瞑眩)が現れないようであれば病気の元は絶たれない、という意味。

この文章の出典は、中国の古典、尚書(書経) 「若薬弗瞑眩厥疾弗 からの引用と教えてもらいました。
瞑眩「メンケン」とは薬の副作用に似た強い服後作用、しかしながらその後病状が緩解することが多い。
東洞先生に関わる人の流れと著書↓についてまとめてみました。
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