薬王堂気まぐれ通信使682  2013−4-21
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

先日、近くの山で戦争の傷跡を見つけました。
松脂を採取した痕跡です。
松脂、松根油、・・・


話を聞いて創作した絵


戦前のこと、アカマツを伐採して10〜15年経過すると、木部が分解されて松根油だけが多く残る根となるそうです。
人力で掘り返し集積してまさかりで切断し小さなチップにします。
そのチップを鉄籠に詰めて二つ抱え圧力釜に内れます。
上から八つの万力が付いた鉄蓋をしっかり締めて密閉し下から火をつけます。
火をつけたら12時間、一昼夜の仕事になるそうで一睡もしないで火加減を見続けるとか・・・
途中、鉄蓋でイナゴを焼いたり松の幹に住むイモムシ(カミキリムシの幼虫か?)を焼いて食べると美味しいと・・・
下の火は前回、蒸し焼きにした松根の炭化した炭を使うそうで火力は抜群だとのこと、落ちる火くずの中で焼き芋を作るとこれまた美味しい味だとか・・・
高温の釜の中で蒸された松根はガスを吹き出します。
そのガスを誘導して大きな水槽(野外に設置し十畳くらいある大きなものらしい)の中をくぐらせるとか・・
気体が通過するのはモウソウチクの節を取り除いたパイプ状のもの、接続部をしっかり固着した木枠で角度を変え水中をくぐらすことで冷却し液体に変化させるのだそうです。
微妙に落差をつけて松根油(粗製テレビン油と呼んでいたそうな!)が水槽の下の方から出てくるので受けて採取するという、
粗製テレビン油(松根油)は黒褐色をした液体で2〜3回蒸留しなおすと透明に近い松根油になりドラム缶に入れて出荷するとか!
それは燃料ではなくペンキなどの染料に使う溶媒だったとか!
製造の途中では気化しないタールや木酢(もくさく)が出てくるがタールはタイヤ製造のゴムに混入し木酢は当時、川に垂れ流していたという。
以上はうちの患者さんから聞いた話で私が想像して図を描いてみました。
今度、この図を話し方に見せて細部を思い出してもらい訂正したい考えです。
本来、それが松根油の正体だったらしいのですが太平洋戦争が激化した昭和19年ころから軍が燃料不足に松根油を使おうと工場に来るようになったそうです。
予科練(海軍航空予科練習生)の面々が工場の手伝いに来るようになったと当時小学3〜4年生だった患者さんは話を続けます。
大きな釜の中に入ると自力では出られず兄の助けを借りたとか、中で炭を出す作業をしたらマスクなどないから鼻の周りが真っ黒だったとか、当時の話を語ってくれました。
その話と結びつくのがマツに残った切り傷の痕、確かにアカマツが良かったのでしょう樹肌を見れば赤い色をしています。
斜めに筋を入れ松脂の集まる真ん中に空き缶などを固定して採取したようです。


私が小さな時にはまだ空き缶や、樹液を誘導する金属板が残っていたアカマツもありました。
しかし松脂からは揮発性の燃料になる物質はほとんど採れなかったということです。
松根油から分離されたテレビン油に近い溶媒も、終戦近くにわずかしか製品化されず実際に飛行機や発動機に使われたかどうかわからないらしい!
戦後、アメリカ兵がジープの燃料として使ってみたら3日後に機関が詰まって使い物にならなかったとか・・・
2〜3時間作動し特攻に行くだけの飛行機に使うのならばなんとか燃料になったのかもしれません。
そんな戦争の記憶、アカマツが傷跡を包み込むように戦後67年間、生き続けていました。


ジムグリ



山は春、ジムグリ(普段穴に潜って地ねずみなどを食用とするおとなしい蛇!)が日向ぼっこをしています。
アシナガバチ(ムモンホソアシナガバチの女王蜂ばかりだそうです!)が動き始めます。
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