のふもとです   はええとこじゃけん
 
Imagine All The People Living Life In Peace.

 リー

  2024年 新春 龍よりも鯉を❣

 久治は古稀です。益々、昌重さんの存在なしには、
何もできない体になっていきます。

 普通が最高だと、嚙みしめる毎日です。
 今年も、皆さんには沢山のご迷惑をお掛けしますが、
見捨てないでくださいね。

 夫婦とも被爆2世。微力ながら、平和公園のガイドも
夫婦で取り組んでいます。回数は、まさえの方が多く
なっています。

 まさえはガーデニング好き。毎朝、O小学校の3人の
孫たちの登校の見守りも頑張ってます。

 律樹(3歳)は、H幼稚園で頑張ってます。
恒太が4月にはM中学校へ。
奏太が小5、明日香は小2。1年が早いです。


 平和な普通の時間を続けたいです。
 今年も、松井ファミリーをよろしく。




 お便りは 
matui-f@hicat.ne.jp  

 咲山的拓郎

 咲山的JULIE>


 咲き山TOP



 『向洋の歴史講座』  ・・・・・・2020.12.5.
青崎公民館で、<向洋歴史学習>講座がありました。
前に、「双津」のことが、話題になりましたよね。
今は、開発されて洋光台と呼ばれる大きな団地の南側の海です。
昔は、向洋の人は泳いだりもしていました。

講師の先生に、聞いてみました。
「元々、『總津』だ」と。
確かに、大きな津と小さい津があったので、当て字として、「双津」がでてきたのではないかと。

他の話も、かいつまんで。

@ 向洋は、元は向灘でした。灘は、海の難所です。
それに対して、洋は穏やかなイメージ。
穏やかな方を選んだのでしょうね。
仁保島から見て、対岸。向かいの灘(洋)。

@ 島と島の間を、「瀬」と言うと。「戸」は場所を意味し、「門」になる。
それに取り囲まれているのが、瀬戸内海。
その両端が、門司と鳴門。「門」が入ってますね。
 では、「青崎」は? ーーー崎は岬と同じ。府中は、役場があった場所。
そして、向灘の崎が伸びてきて、府中の崎と出合います。
合う崎が訛って、青崎になったと。なるほど。
 それで、府中町の方にも、青崎という地名がありますね。

@ 浅瀬になったところを、広島は大昔から埋め立ててきました。そこは、新開と呼ばれます。
昔は、白神さんのところが海岸線だったと。比治山も黄金山も島です。
大河から皆実町にかけて、皆実町新開。翠町中のグランドには、調整池が。
観音には、観音新開。南観音公民館。総合グランドの南には、大きな調整池が。
宇品には、競輪場の辺りに調整池がありました。
埋め立てた南の端には、必ず調整池が作られました。
落ち着いた時点で、埋め立てられます。

@ 青崎の辺りも、浅瀬だったので、埋め立てられました。
青崎新開と呼ばれてました。だから、道が縦横きちんとした碁盤の目。
 そこで、綿の栽培が行われていましたが、堰が切れて塩水が流れ込んで、
畑が駄目になります。塩田にしたらしいです。

@ 赤バスが、大原方面に向かうために入り込む道の入口に、六角堂があります。
仁保橋の東詰のところです。これは、埋め立て前には、灯台の役目も担っていたのだと。
製塩業を仕切っていた黒田弥吉郎さんが、関わっていると。

@ 向洋駅とマツダの関係は、強いです。小さい駅なのに、乗降者数は、広島県でも上位です。
松田重次郎さんのお墓が、わかりますか? 国道2号沿い、洋陸橋の北。
 東洋工業(マツダ)の創業者の、松田重次郎さんのお墓は、青崎と向洋本町にまたがる丘の上にあります。
マツダの見渡せます。(うちの墓と近くて、小学生の頃は、遊び場でした)
ーーー重次郎さんは、向洋の人。
「自分は貧乏しとったから、向洋のためにここに工場を作ったんよ」
ーーーマツダも向洋駅も、100周年。



 <向洋半島>HP

 <青崎・向洋探索>



青崎小学校の同級生から、連絡がありました。
日本製鋼所とマツダは、深い関係にあったんですね。
向洋駅も、東洋工業も、日本製鋼所広島製作所も、100周年なんですね。

 

2007年に日本製鋼所が創立100年を迎えた際にもらった社史を確認してみたのですが、
残念ながら青崎中学校のことは書かれていませんでした。

しかし、日本製鋼所広島製作所とマツダとの関係が書かれていましたので、その記事を参考に送信します。
1907年室蘭に創設された日本製鋼所ですが、事業拡大のため安芸郡仁保村字向洋にあった「松田製作所」と提携。
 「松田製作所」は1917年(大正6年)、松田重次郎が設立した会社で主として海軍関係の小物部品を製作していた。
1918年、日本製鋼所の出資比率が70%に達したのを機に、「松田製作所」 → 「広島製作所」と改称。
192011月、日本製鋼所が「広島製作所」を買収し、「広島工場」とする。
④買収と同時に松田重次郎は退社し、その後に東洋工業株式会社を創設して新たな事業を発展させることになる。

現日本製鋼所広島製作所は今年創立100周年