類聚方広義・第二木曜会   平成19年10月11日
気のついた点を記録に残してみましょう。

題言十則の説明

先ず、題言十則は尾台武(武雄、後に子順)が25歳の時(嘉永六年=1852年)に書きます。
武は6歳の時に実父=尾台浅岳(吉益東洞の弟子十傑の一人、岑少翁を師とする)を亡くします。
その時、浅岳の弟子だった小杉榕堂が尾台家を継ぐことになり姓を変えます。
尾台榕堂となり師=浅岳の遺児=武を長男として育てます。
武は榕堂の友人=芳野金陵から儒学を習います。
芳野金陵は考証学派=井上金峨を師とする亀田陵瀬の弟子にあたります。
武は25歳の時に題言十則を書きますが、その後京都で藤沢東畴(とうがい?)について一年間儒学を学びます。
武は52歳で茨城県石岡で亡くなったと記録されています。

今夜は類聚方広義・題言十則の部分、題言一則から題言三則までを読みました
題言一則の概略

張長沙とは傷寒論の著者=張仲景のこと、長沙とは仲景が太守をしていた土地の名前。
西山先生の本では「煙没」となっていますが本論では「湮没」です。
「煙」のようにという意味と「湮」=沈んでという意味の違いですが意味はほぼ同じという事です。
人の名前が出てきます。
巣元方(そうげんぽう)・孫思バク・王Z・安時(龍の上に广たれが付き、ほうあんじと読む)・朱肱・成無巳・石蔵用・張潔古・朱彦修(しゅげんしゅう)の名前が出てきます。
これらの人については中国医学の変遷と歴史を参照下さい。
龍安時という人は「尊西要訣」その他の医書を著し、朱肱という人は「傷寒活人書・南陽活人書」を著したと言われています。
「與干斯」とありますが「ここにくみせん」と読み「賛成する・そのとおり」と前述したことを協調する意味になります。
題言十則を現代訳にしてみましょう。

註=文章を読みやすくする上で()に原文を入れ、《》に説明を入れています。同じ原文と説明を繰り返し使っています。


題言一則

張仲景(張長沙)の著した傷寒雑病論《傷寒論・金匱要略》は、魏より晉の時代《西暦220〜400年》まで、隠れて(湮没)世に出て来ませんでした。
王叔和《西晉の大医令、西暦270年頃まで在世》が傷寒雑病論(之)を選び出し編集(詮次)しましたが、南北朝時代(斎・梁・陳)から随の時代《西暦400〜600年》にも、傷寒雑病論の道(其道)を唱える者は、誰一人といませんでした。
隋の時代の巣元方が著した諸病源候論(雑病論)や、唐の時代《西暦617〜900年》に孫思バクが著した傷寒論《備急千金翼方の中》には、僅かに傷寒論の医術(其術)を引用(援輔)していますが、傷寒雑病論の道(其道)を専門に載せているわけではありません。
王Z《外臺秘要方の著者・図書館長》は元々医療人ではなく、ただ傷寒雑病論(之)を収録しているにすぎません。
宋の時代《西暦960〜1279年》の安時や朱肱は、大変に傷寒雑病論(之)を尊重したけれど、当時に行われていた医療から抜け出て(脱時習)はいませんでした。
金の時代《西暦1300年頃》に成無巳が始めて註解傷寒論(註解)を作成しました。
明の時代《西暦1367〜1661年》以降は、注釈した者はおよそ数十名いましたが、皆自分が傷寒雑病論(長沙)の真髄(真諦)を得たと言うばかりでした。
病気を治療する際は、誰もが宋から元の時代《西暦960〜1367年》に行われていた医療方法に依存(依準)し、純一に傷寒雑病論(長沙)の処方だけを使った者はいませんでした。
行われた医療と言論が正反対でした。
要するに此れに活術があることを知らなかったのです。
石蔵用、張潔古、朱彦修達は、すでに傷寒雑病論(之)を用いることが出来ないのに、口では傷寒雑病論(之)を言い、書物に書き、張仲景等(往聖)を侮辱して利用(侮罔)し、後進(後学)を惑わしました。
けしからんこと甚だしです。
傷寒雑病論(長沙)が著されて、千五百年と少しが過ぎました。
ひたすら其の方法・処方(方)を奉って、あらゆる病気を治してきたのは、一人東洞先生だけです。
深く造詣し自得していなければ、誰がこのようなことが出来るでしょうか。


題言二則

今の医者は古方に関しては理解が狭い(寡少)ので、色々な病気に対応することが難しくなっています。
千金方・外臺秘要方から、宋や明時代に至るまで諸医療人(諸家)の処方を拾い集め、このようにしなければ、諸病を癒すことが出来ないのだと言います。
とんでもない事です=全く分かっていません(殊不知)。
諸医療人(諸家)は趣が異なり、医療技術(伎術)の流儀も違います。
ですから理論を立てて処方を決めることも同じでは有りません。
様々なことを拾い集めて、それで治療をするのは、もっともな事ですが(宜乎)其の方法は純一ではありません。
治療に規則が無いのです。
多くの病気は、変化に窮まるところが有りません。
ですから(苟)病気に直面し処方を決めようとすると、止まるところが無いのです(何有底止)。
それに傷寒雑病論(長沙)で作られた処方ほど古いものはないし、又傷寒雑病論(長沙)より良いものも有りません。
世の中で削り去る(不刊)ことの出来ないお手本(典刑)と言えるでしょう。
どうして後に出た諸流派で作り上げられた処方と、同じレベル(同日)で語ることが出来るでしょうか。
ですから傷寒雑病論(長沙)の処方に従事するには、子供の時から壮年に、そして老境に至るまで、忙しい時や非常時の時(造次顛沛)にも必ずここ(斯)において、身体が当時に在るのだと思うべきなのです。
そして親しく其の教えを(提誨)受けるようにすれば、自然と医療技術は熟達します。
それで病気に臨めば、機会に応じて霊感が働き(活機霊動)、ただ思い(意)を向けるだけで、法則に反したようでも法則に合い、轍を離れたようでも轍から離れず、操縦が自由自在になります。
左右が丁度良いところに合えば、病気が様々(萬殊)であっても、対応するのに難しいことはありません。
これを簡素で繁雑を制御すると言うのです。
容易に簡単にすることの原理を得た者こそ、真実(信)です。
陳實功《外科正宗の著者》はこう言っています。
方《処方や治療法》は多くは無く、思い続ければ(心契)霊感が働き、治療に応ずる(證)のも難しくは有りません。
思いを会得(意會)すれば明るくなるとは、優れた表現と言えます。

題言三則

吉益東洞先生は傷寒雑病論(長沙)の書を読み臨床に試すこと数十年、最終的に大いに発明する所が有りました。
それで薬徴を著(選)して生薬の働き(薬能)を明らかにしました。
類聚方を著して処方の意味(方意)を詳しくしました。
方極を著(作)して処方の運用(方用)を精しくしました。
そうして全てに通じる活きた治療法を示し、傷寒雑病論(長沙)の処方が、始めて万病に用いられることを示(資用)しました。
医者の責任は極めて重いものです。
その術は本来難しいけれど、要するに斯の処方で斯の證が治るという事だけです。
ですから薬能を明らかにする。処方の意味(方意)に詳しくなる。処方の運用(方用)に精しくなるということです。
薬能を明らかにしたら、その後に処方の意味(方意)が詳しくなれます。処方の意味(方意)が詳しくなりましたら、その後に処方の運用(方用)が精しくなれます。
処方の運用(方用)に精しくなれましたら、その後当然として難病や重病(崇患篤リュウ)でも治せないという事はなくなります。
医術での処方の運用(方用)を、自由自在に扱うということの難しさはこのようなことなのです。
処方の運用(方用)は医術において、関係が重いという事なのです。
昔から経方《傷寒論・金匱要略などの医療法》とか禁方《門外不出の自家方など》と称されたり、又方技とか方術と称されるようになったのも、当然の成り行きでしょう。


11日はここまで↑読みました。

題言三則では「方用」という言葉が多く出てきます。
簡単に言えば治療の方法=処方の運用を指します。

どうして「漢方」と呼ばれるようになったのか?を考えた時に「漢法」では何故いけないのか?と言う疑問も出てきます。

大塚敬節先生と同門(湯本求真門下)の荒木正胤先生は以下の様に言っています。
「漢方の字は方を使わないといけない。方とは医術のことで薬方という狭い意味と医学全般を示す広い意味が有ります。東洋で行われた医学という事で漢という字を使います。医学全般のことを昔は経方・禁方とも言ってきました。史記の扁鵲伝に禁方という言葉が出てきますが医学のことを言っています。後漢に班固が漢書を百巻に編集します。その中の第30巻に芸文志というところが有ります。その中にはあらゆる学術の流派や思想・書物について書いているのですが方技部という部分があって医学の分類をしているところが有ります。そこに経方、神仙・房中など40種類の分類が有ります。神仙術と房中術を上手く使うことで長生きが出来るという事なども書かれています。経方には傷寒論が含まれます。類聚方というのは処方の方意を明らかにすることで方(処方)を用いやすくする・便利にするという意味が有ります。」

要約しますと「漢方」の「方」は@処方のこと、A医術全般のこと、
Aに関しては医心方・千金方・外臺秘要方などの古典にも使われていること、
又、題言三則では「方技」と言う言葉が出てきます。後漢時代の芸文志には医療を示すのに「方技部」と書かれていることなどを挙げています。
「漢法」であれば医術の中の法則・法律に重きが置かれ、処方が抜けることになるというわけです。
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