23 インスタマチックとラピッドの話

少し前に戻る。昭和38(1963)年のフォトキナにはペンFの他に米国イーストマン・コダックからコダパックという新しいカートリッジ入りのフィルムと、これを使う6種のコダック・インスタマチックカメラが発表された。 インスタマチックという名称はもちろんコダックのブランドだが、どうもポラロイドを元祖とするインスタントフォトとまぎらわしくて私は嫌いである。
が、それはさておき、わが国では、このフィルムの126という形式番号を採って、この形式のカメラを126カメラと呼んだり、またカートリッジカメラと呼んだりしていた。 しかしカートリッジカメラというと、126に限るわけには行くまい。
このコダパックは、今にして見ればそれから9年後の昭和47(1972)年に、同じくコダックから発表された110カメラ、すなわちコダック・ポケットインスタマチックに至る一過程のようにも考えられるが、何れにしても大衆用テープレコーダーのテープがリールからカセットに移行したのと軌を同じくするもので、カメラ操作上のフィルム装填の簡易化を狙った大改革であった。
さらにこの方式では、カートリッジの一部に切り欠きをつくって、フィルム装填と同時にカメラ露出計のフィルム感度セットも、自動的に行われるようにしてある。 126ではフィルム幅は35_そのままだが、送り孔すなわちバーフォレーションはひとコマ1個で片側にあり、ネガの大きさは26×26_という正方形で、しかもあらかじめこの26×26のマスクが露光してある。 したがってネガやスライドの画面は、カメラではなくこのマスクで決まる。
これは現像以後の処理行程を受け持つラボにとってはありがたいことで、ユーザーにフィルム装填の面でサービスすると同時に、他面業界にも貢献したといえよう。
しかし、そんなことを知らない大衆には喜ばれた。 さすがに世界のコダックの実力で、当時の書物を見るとなんとアメリカとヨーロッパで、1年に250万台も完りつくしたという。
翌39 (1964〉年6月、日本でも発売されているが、この国ではあまり喜ばれなかった。 日本の大衆は、カメラへのフィルム装填を小売の店頭でやってもらうことが多かったし、コダックのフィルムしか使えず、カメラ自身も高価な2種を除いてはF8からF11という明るさのレンズをつけたプラスチックボディーで、とても日本人の好みに合うものではなかった。 それと、アメリカのように、写し終ったフィルムをラボ宛の封筒に入れてポストに拠り込み、新しいフィルムはどこでも手に入ってすぐ装填出来るならよろしいが、日本ではそうはいかない。 旅行に携行しようと思えばカメラは軽く小さくても、(それでもペンより大きい)、あの嵩張ったコダパックをいくつも持って行かなければならない。 ペンなら36枚撮りを装填して行けば、72枚はそのままで撮れたのである。
昭和38年から翌年にかけては、こういう問題がいろいろ起こった。 まずこの126に対抗して、西独アグファから、ラピッド方式というのが提案された。 コダックの126は独自の開発で発表され、あとでこの方式を採用したいメーカーさんは、然るべき特許料をお払い下さいという出かただった。 これに対してアグファは、かつて自ら開発したカラートというカメラの特殊な35_パトローネを改良したひとつの方式を基本として提示し、各社の意見を求め、決定した方式で連合軍の対コダック作戦を建てましょうという申し出であった。 日本はとにかく、欧州ではコダパックの攻勢にたまりかねたのであろう。 日本のカメラメーカー14社はラピッド会をつくってこれに協力した。
ラピッドシステムでは従来の35_フィルムがそのまま使われ、これが約60センチの長さに切られ、その前瑞と後端とに加工が施され、フィルムの種類や、新品か撮影済みかが一眼でわかるようになっている。 このフィルムがつまみもなく、両側の軸孔もない写真のようなパトローネに、芯になるローラーに巻かれた形で入っていて、その先端だけが顔を出している。 ラピッド型カメラの送り出し側のパトローネ室に新しいのを入れ、巻き取り側に使い済みの空の同型パトローネを入れ、裏蓋を閉じるだけでフィルムの装填はOKとなる。 このシステムでも、カメラのフィルム感度のセットは、パトローネに具えた爪で自動的に行われる。
さてこのラピッドシステムは、一種のダブルパトローネ方式とでもいうべきもので、装填の簡便さと、巻き戻しの不要なことが改良点といえよう。 それに、中身は35_フィルムだから、フルサイズだろうがハーフサイズだろうがカメラに制限はないし、裏紙がないからピントも保証されるだろう。 ただし撮影コマ数は、フルサイズで12、ハーフサイズで24だった。
というのは、この型式では、フィルムはカメラのスプロケットの歯だけで送られ、空のパトローネに押し込まれ、その中の芯のローラーとこれにからまる特殊なバネの作用で自分からそのローラーに巻きついてゆく。 全コマ数の撮影が終わりフィルムの終端がスプロケットをはずれると、そこでフィルムの移動は停止するという方法だから、そう長尺のフィルムを押し込むわけにはいかない。 恐らくこの長さが実験的に限度だったのであろう。 この長さではとてもプロ用にはならない。 だから、やはり大衆用に限られる。 すると、その簡便さはとても126の比ではない。日欧連合軍の協力にもかかわらず、ついに大成しなかった。
オリンパスでは輸出を主として126カメラ、オリンパス・クイックマチックEES2.8、ならびに3.5、同EEM(2.8)の3機種を生産、44年3月から国内発売もしている。 前二者はペンEES3.5および2.8のカートリッジカメラ化で、ペンフラッシュ用のシュー付き、後者はこのEES2.8をシルバニヤのフラッシュキューブが使える様にし、同時に巻き上げを電動化したものであった。 さらに、44(1977)年にクイックマチック600を出している。 これは前述EES2.8のフラッシュキューブ用化である。
ラピッドの方では、40(1965)年に、ペンラピッドEESを海外向けに、また翌年ペンラピッドEEDを試作している。もちろん前者はペンEESの、そして後者はペンEEDのラピッド化であった。 何れも国内に販売しなかったのは、それ等が当然国内市場にすでに多数出回っているペンシリーズ自体と競合する恐れがあるからであるが、それよりもこのラピッド方式そのものが、日本の流通機構やラボに予想外に嫌われたからであった。
ラピッド方式は、ネガカラーの時代になって、むしろ短尺を好むようになった大衆に向くだろう。 とするとハーフサイズでオリンパスの独走を許した他メーカーが、おそらくこれで巻き返しを図るのではないかと、当時オリンパスのカメラ事業の責任者だった私は大いに心配し、その対策も準備した。
その心配は幸い杞憂に終わって、日本では、コダックもラピッドも共に発展することはなかった。 と同時に、さすがのハーフサイズブームもかげりを見せ始める時が近づいていた。

〜「インスタマチックとラピッドの話」完〜

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