●先日は日曜日でしたが広島大学医学部の構内で学会が有りました。
学会とは【東洞祭】といいまして広大医学部構内にあります吉益東洞の顕彰の碑の前に毎年一度集まりまして東洞の功績を称え、偉業を振り返るという行事です。
果たして吉益東洞さんとはどんな人物か?と思われる方々がほとんどのようですので簡単に説明いたしますと・・
時は元禄15年、ただいまNHKでドラマ化されています元禄繚乱での最終場面・吉良邸に討ち入りをしたのが確か元禄15年11月14日だったと思います。今から280年くらい前の事ですね。
吉益東洞は討ち入りの有った元禄15年に産まれ、芸州安芸の広島【市内山口町】で家業の医業を継ぐべく医学の勉強をしましたが37歳の時に一家共々京都に移り住みました。しばらく貧困の生活を余儀なくされましたが当時有名な医師・山脇東洋に優秀さを認められて世に出る事になります。
京都で評判の医者となって弟子も数多く従えるに至りました。その東洞さんは医業を弟子に教えるのに傷寒論・金匱要略という後漢の時代に著わされた中国の古典を重要視したわけです。
写真の類聚方という本は彼が著わした本ですが当時で一万部売れたといいますから日本におきまして刊行本ベストセラーの最初の本だったと思われます。写真の本は一万部の中の一冊ですが手のひらサイズで私が大塚医院で働いていた時【25〜26年前】に東京本郷の東大赤門前の古本屋【浅倉屋】で買ったものです。三千円の札がついていますが500円で売ってもらいました。過去の掘り出し物の一つです。
古本を安く買うコツは店の主人と仲良くなって店先ではなく古本の収蔵してある場所に入れてもらう事が何よりの秘訣です。浅倉屋でも店の裏に大きな蔵が有りまして当時そこで自由に古本をあさらせて頂いたものです。『大塚敬節の弟子です!』と言えば信用してもらえました。
そんなわけで吉益東洞に詳しい金沢の開業医及び医史学の専門家・多留淳文先生のお話しを広大の広仁会館におきまして拝聴したわけです。
吉益東洞さんはなぜ偉いのか?と思われるでしょう。私にもその理由ははっきり分からないのですが、当時の医療は漢方薬が中心の医療でしたから当然急性病や伝染病で無くなる人が多かったでしょうね。当時の医療従事者は寺の坊主や各城下のお抱え医者がほとんどで生活が保証されていましたから医療に対する考え方も縦形社会が出来上がり目上の者や権力がある者に逆らえない!当然理屈が先行する実質のない医療がはびこっていたというわけでしょう。吉益東洞さんはそれでは治せる患者も治せないから【親試実験】=実際に経験し医療効果の有る事だけを後世に伝承していきましょう!と著作物をもって医療会に一石を投じたというわけです。かといって、東洞さんの医療は【瞑眩=メイゲンがなければ薬は効かない】とまで言いまして一種の薬の副作用をあえて求めた為に犠牲になった患者も多かったようです。
ちなみに広大構内にあります石碑の文字は大塚敬節先生が字を書いたものを彫ってあります。私が大塚医院で働いていた時に広島県医師会長の江川先生が医院に来られて字を書いて頂くよう大塚先生に求められた事、昨日のように思い出します。数日、診療後に大塚先生は碑文を大きな紙に書いては丸め書いては捨てるという生活をしておられました。大塚敬節とは何ものぞ?と思われる方、今度説明いたします。
昔の本は今のような活版印刷ではありませんでしたから貴重なものですね。版木というホウノキ等の木板に字を凸型に彫り上げて一枚ずつ刷るという、紙もこの写真の票札にも有りますように和紙を薄手に漉いたものに印刷しております。一冊の本が出来上がるのに膨大な労力と時間がかかっていますから本郷あたりで500円で買ったなんて東洞さんにばれたらしかられて切腹を申し受ける羽目になりかねません。
という一日でした。広大構内の一角に中国の徐福が不老不死の薬と信じ求め来朝した?といわれるいわくの有る薬・テンダイウヤク【クスノキ科】<中国が原産なのになぜ中国からわざわざ採りに来たのか?>が植わっていました。
吉益東洞著・類聚方↓
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