●薬王堂気まぐれ通信使も気まぐれと言いながらもずいぶん続くもんですね。
読者の忍耐力にも頭が下がります。
先週、近所で気になっていた箇所がありましたので行ってみたんです。
何処へかって?
我が家から距離にして1キロ位のところに小高い山があり、その頂上付近に貝塚らしきものがあるんです。
府中町のパノラマ画像↓で説明しましょう。
青い星★印の場所です。
画像右端の赤い星★の場所が私の住まい(安芸郡府中町土橋付近)です。
手前が広島国体の時に使われた府中町揚鞍山サッカーグラウンド、その前に広がる人口約5万人の府中町。
遠くに広島市、そして南区の黄金山(仁保島)、広島湾があって厳島=安芸の宮島が見えるでしょう。
昔、今から200年位前までは太田川のデルタ地域は不完全で点在する山々は全て岬か島だったようです。
府中湾と記してある場所も海水が侵入する入り江でした。

その証拠に我が家の近所には『大洲・向洋・岩鼻・潟港・・・』と言うような海に関係する地名が数多く残っています。
それで、★印山の頂上付近・剥き出しの斜面↑に白い貝殻がたくさん有ることが以前から気になっていました。
こんな所に貝殻があるのは不自然だなー!多分、貝塚だろう!とは思っていましたがいつ頃のものか分かりませんでした。
それでビニール袋を持参して露出している貝殻を拾ってみました。
数十個の貝殻を拾い終えて帰ろうとしましたら土の表面にわずかですが光るものを確認しました。
『なんだろう?』と少し掘り、手にとって見ましたら陶器の欠片のようです。
表面には松の葉を描いたような模様があり、両面とも上薬がかかった上質の焼き物のようです。

この辺りは府中町と言いまして遠い昔、国府が置かれていた場所でもあります。
古山陽道も山際に通っています。
集めた貝殻を洗って貝の種類を特定してみました。
カキ・アサリ・ハマグリ・ヒナガイと特定できます。
これらの貝は今でも広島湾の海岸線で容易に採取する事が出来ます。
昔の人はこんなものを食べていたんですね。
多分、味噌汁にでも入れていたんでしょう。

ネットでこの山の歴史を調べてみたらこんな記述がありました。
鹿籠山(鍛治山)の南西に位置し、この付近は中世、こごもり湾と府中湾に臨む要衝の地であったと思われ、大永7年(1527年)大内義興方の野田兵部小輔合戦注文に「仁保嶋ならびに国府城詰口において・・・」の記載がある。出張城主白井氏の支城ないしは物見詰所だったのではないかとされている。
芸州府中荘誌には「空が城」と記載されているが、礎石、遺構などの確認はされていない。
現在、この地は多目的広場や野外ステージ等を備えた都市型総合公園、空城山公園とし整備されている。また、
空城貝塚
鹿籠山(鍛冶山)の南西に位置し、中世、こごもり湾と府中湾に臨む要衝の地であったと思われる。芸州府中荘誌には空が城と記載。大永7年(1527)大内義興方の野田兵部少輔合戦注文に「仁保嶋ならびに国府城詰口において・・・」の記載があるが、出張城白井氏の支城ないし物見詰所であったかもしれないとされている。礎石・遺構などの確認はされていない。南端部の鵜崎に近い山麓にかなりの規模の未発掘の中世貝塚が4ヶ所にわたり散在している。という記述もありました。
(府中町文化財めぐりより転載)1500年代初頭の大内氏とは毛利元就に協力した山口県出身の豪族です。
その一族がこの辺りに城を構えた!というような記述!
当時、大内氏は出雲の尼子一族と争っています。
また明との交易をして巨万の富を得ていました。
であればこの陶器片は明の高価な焼き物で、山城の女中が味噌汁を注ぎ損ねて割ってしまい貝殻と一緒にゴミ溜めに捨てた?
その女中は打ち首になった?
なんて・・想像しながら・・・府中町の民族資料館からお咎めがきましたら素直に首を出す覚悟で今日の通信使とさせていただきましょう。
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