薬王堂気まぐれ通信使bP41    2002・2・17
Yakuoudo Capricious Communications Satellite

2月は何かと忙しく休日も山や海に出かける暇はございませんでした。
ということで、通信使も特記することもなく・・・
実は昨日は姪の結婚式で呉に行ってまいりました。

呉といえば何度も紹介しますが戦時中、軍艦大和を建造した軍港です。
大和の建造は昭和12年から始まりました。
当時は世界の最先端の技術を誇っていましたが設計から完成まで10年もの月日を要したこと、海から空への戦況変化から終戦間近には時代遅れの代物になっていました。
日本国民に多大な負担を強いた割りには戦果も上げず、あっけなく東シナ海で沈んでしまいます。
建造中はドックの周りにトタンの目隠しが張られ、鉄道からも見ることが出来なかったと聞きます。
呉はそもそも、明治の中ごろまで交通不便な田舎の漁村でした。
近くの地名に当時の様子が伺われます。
吉浦・小屋浦・浜崎・川原石・・(※呉浦という水深の深い湾を呉港にしました)
海岸線は花崗岩の断崖で小舟を利用するか山の中の細い道(海田ー熊野ー郷原ー焼山)を通って行き来していたと言います。
江戸時代の交通路線=山陽道は呉から遠く離れた内陸道=瀬野ー八本松ー西条ー河内ー三原を経由して関西方面に通じていました。
漁村の呉が一躍脚光を浴び鉄道が引かれたのは明治の中期、三方を山で囲まれ穏やかな内湾が軍港として着目され海軍区鎮守府が置かれる事になってからの事です。
大和を建造したドックは今も石川島播磨重工(IHI)の造船所として利用され20万トン級の巨大タンカーが横付けされていました。
60年前は日本海軍の軍艦がひしめき、戦後は米英豪の進駐軍の船舶が我が物顔に行き来して、今は海上自衛隊艦船が静かに出港していきます。
現在80歳・自宅療養中の私の父親は戦後、呉の進駐軍で豪軍の上陸用舟艇に乗務していました。
戦時中、母親は呉の病院で看護婦をしていました。
そのすぐ近くで昨日、彼らにとっての孫娘は結婚式を挙げました。
時の流れとは奇妙なものです。

  


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