類聚方広義・第二木曜会   平成19年11月8日

今夜は類聚方広義題言四則から題言十則までの読みと解釈でした。
題言十則は尾台武(武雄)が25歳の時、育ての親である尾台榕堂著・類聚方広義の序として書いたものです。
文末に「嘉永六年」に書いたと記していますので西暦1852年だったことが分かります。
当に江戸幕府終息前の動乱期でした。
医療に専念した尾台榕堂は自己の医療経験を類聚方広義標注=欄外に紹介します。
それでは第四則から現代訳にしてみましょう。

註=文章を読みやすくする上で()に原文を入れ、《》に説明を入れています。同じ原文と説明を繰り返し使っています。
題言四則

吉益東洞先生は類聚方を著しますが、文章を校正(刪正)するのに極めて厳しく、病因や病名など、及び憶測の論説、処方を用いる上での紛らわしいものを、一切刪って取り上げませんでした。
これは読者(学者)のわだかまりや先入観(固執拘泥)を恐れてのことです。
方剤を巡って運用(斡運)したり、その微妙な用い方をし尽くせなくて、世の人が曲がったことを真っ直ぐにし過ぎていると言うのは、吉益東洞先生の考え方(微意する所)を知らないからです。

題言五則

雉間子柄は類聚方集覧を著しますが、その体裁は各処方の下に、方極の文を配列し、病證の下に、各々の薬を分けて入れ、薬品の下に、分量を入れて注釈しました。
上層部には自分の見解を載せ(標掲)、大いに読者に便利にしました。
ですが標注には所々に間違いがあります。
私は今、集覧の体裁を踏襲引用(沿用)し、その論説の間違った部分や、分量の間違い(差失)など、少し(一二)これらを訂正しました。
それは読者が本来の意味を誤って理解する(古意を失する)ことを恐れてのことです。

題言六則

東洞先生の類聚方の方後に、時に按ずるにという語を付けています。
それは傷寒論・金匱要略で抜け落ちた部分を正(訂)し運用を広め、条文(本論)から明らかになったことを、明瞭(さくさく)にして証明(徴)することなのです。
集覧では諸々の標注の中に収めています。さらに類聚方の未試方十八処方のうち、十二を削り去って、更に三処方を加えています。
それを既試方と名づけているのは、たいへんに類聚方(旧章)に従う(率由)という点で道理から外れています。
今これらを皆元に戻し訂正(復正)しました。
炙甘草湯以下の処方は、尾台榕堂(家翁)が平日よく使い、その効果があった処方ですので、敢えて巻末に並べ、拾遺方と名づけ別けて載せました。

題言七則

類聚という意味は、処方の意味(方意)を審らかにして処方の運用(方用)に便利にすると言うことです。
ですが未だ諸々の処方の並べ方に、順序が統一されていません。
今、考え研究して配置を移し、類聚という意義を正してみました。
方極の症候にも、また所々に漏れたり繰り返したり字が似て(魯魚)いるために間違って配置されたりしていますので、傷寒論・金匱要略の条文(本論)と照らし合わせ考え、その箇所(傍例)を明らかにして、訂正補正を加え、意図することを明確にしました。
若しおごり高ぶる私見(罪)が有るようでしたら、学問のある道徳心のある(君子)方々、どうか穏便に許して下さい。

題言八則

体積と重さ(量衡)は、諸々の家で論じていますので、互いに相違(異同)があり、結局同じではありません。
要するに、医の急務は、処方と症状が一致(方証相対)することだけです。
量衡が少しくらい違っていても、治術にはそんなに大きな害があるわけではありません。
東洞先生はかつて言いました。
その大まかなことを知ればいいのだと。
どうか読者はこの意味を体得してください。

題言九則

傷寒雑病論・張仲景(長沙者)は、千年以上前の用い方と処方(用方)を最初(鼻祖)に示しました。
その全ての処方は三代の聖人(神農・黄帝・扁鵲)が精製したもので、傷寒雑病論(長沙)はこれらを集めて大成しただけです。
それらの処方は、簡素で分かりやすく正確で厳しく(簡明正厳)、条理も整然としており、ゆるやかに時に激しく(寛猛)、守ったり攻めたり(和攻)の方法など、全てが兼ね備えられています。
ですから講習し暗唱して練習することで、その意味を精しく究めることが出来ますし、その意義を推し進めて広めれば、どんな病気も、手のひら(掌)で転がすように簡単に行えます。
類聚方(此編)には間々加味方や合方、兼用方に及んでいますが、強制的(権に随い宜しきを制す)に、そうしないといけないというように、訳も分からず言っている(手を下す)のではありません。
人はそれぞれの意見や対処等(処措如何)などがあります。
これらのことを読者(学者)が手本(きょう式)とすることはありません。

題言十則

類聚方広義(斯書)では尾台榕堂(家翁)が治療の暇に、会得したことを整理した類聚方(本編)の欄外に収録したもので、本来碑石に彫る(勒成)ような世に広めようという気持ちはありません。
ですから処方の運用(方用)や文章の言葉(章句)の解釈、相違や混同(異同)誤って抜け落ちた(誤脱)箇所の訂正、入り乱れて(雑米柔)秩序のない(倫次)ところ、引用した書物など、全てその時の記憶から出たもので、反復して一々照らし合わせたものではありません。
私の思いは処方の運用(方用)を隅々まで理解(変通)し、処方が適切に配剤され活きた方法が発揮されるように、類聚方広義(其)で意義を示すことにあります。
しかしその説は全て数十年もの間、熟慮した治療(精思実験)の中から得たもので、いい加減に判断(臆決衝断)したものではありません。
其れは治療術として、小さな補いになるでしょう。
ですから数人の門人と協議し、榕堂から許しを得て、版木に起すことになりました。
若し誤りや道理に合わない間違い(舛錯)が有りましたら、事実は武等の校正見直し(校讐)が粗末な結果ですから、皆さま(大方)の是正を承ります。

1852年(嘉永六年龍集癸丑)冬十一月         男 武謹んで識す。


●いや〜、実際、類聚方広義が160年前に書かれたとは言え、現代語訳にすることは大変なことです。本論に入るまでに題言十則を読んで理解するのに2ヶ月かかりました。大塚敬節先生からこの本を教わったのが今から35年前、大塚先生が30歳代に読まれていたのが出版されてから80年後、大塚先生の師匠=湯本求真先生が繰り返し読んで皇漢医学を著したのが類聚方広義出版から50年後くらいだったでしょう。
湯本求真先生は大塚先生に「類聚方広義を500回読んでボロボロになったから大塚君、神田に新しい本を買いに行ってくれ!」と、言った事があるそうです。実に1000回以上は繰り返して読まれていたんだと、大塚先生から聞いたことがあります。
題言八則にも有りましたが医療現場での急務は「方証相対」です。目の前の患者をどうすればいいのか!今何を服用させればいいか!が大切です。その為にも類聚方広義の読解と解釈は必要です。頑張って第二木曜会を進めましょう。

まだ、類聚方序(美濃の武欽ユウ)、類聚方自序(吉益東洞)、類聚方凡例(芸陽の藤利軌)を未読ですがそのうち時間があるときに読むことにします。大塚先生も類聚方に関わる以上の序文は難解で読まれませんでした。
私は荒木正胤先生からこの部分を解説してもらったことがあります。約40年前(1968年)頃です。荒木先生は吉益東洞が書いた類聚方自序だけは繰り返し読むように言われました。類聚方序に比べ分かりやすく書かれています。

雉間子柄(きじましへい)著の類聚方集覧は享和三年(1803年)に出版されています。尾台先生は集覧の体裁を引用して類聚方広義を書いています。恐らく世の中に流布した集覧の誤りを見のがしたくなかったのでしょう。類聚方集覧の出版から50年後のことですね。

●この後、桂枝湯の類聚方の文章を読みましたね。
少しずつ、解説してゆきましょう。
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