24 ペン盛衰記

昭和34(1959)年10月に生れたオリンパスペンは、数章にわたって述べて来たようなシリーズの発展をとげて、昭和のカメラ史にハーフサイズブームの一時代を築いたが、40年代を迎えて沈静化し、オリンパス以外のハーフサイズカメラは、リコーを除いて次第に市場から姿を消していった。
日本におけるハーフサイズカメラの年間生産台数の変化の状況は、日本写真機工業会編 「戦後日本カメラ発展史」 から借用すると、次のグラフの如くである。 急速なネガカラーの普及と126カメラの出現がその引き金となったが、同時に35_フルサイズカメラの小型化がそれを加速したといえよう。 

しかし、その中にあってオリンパスペンEだけは今日(56年11月)もなお月産2万の生産を続けており、ペンシリーズの総生産は、昭和56年ついに1000万台を越えた。 その状況はグラフの如くであるが、1000万台という数字も稀有のことながら、36年発売のペンEEが今なお現役で、その間20年を経ているということは、カメラの歴史にかつてないことであろう。
オリンパスペンシリーズの生産は、発売4年後の昭和38年に百万台を突破した。
この年オリンパスカメラクラブでは、ペン百万台突破記念写真コンテストを実施し、その特賞は名古屋の大沢喬圭氏が獲得された。 応募総数は10万9906点であった。

またオリンパス光学では、ディーラーやペン展メンバーなど、ご協力頂いた方々をお招きしての感謝パーティを、東京はじめ大阪、名古屋、福岡、札幌、仙台、広島と、オリンパス商事(株)の支店、営業所の所在地で開催している。
10月26日のその福岡のパーティ会場が新しく出来た市民会館で、しかもそのこけら落としの日とあって、パーティの後半がそのお祝いに合流することとなり、その舞台に若かりし田辺靖雄、梓みちよ両君のコンビが出演した。その時はじめてなまで聞いた彼女の 「今日は赤ちゃん」 はその後ついに私の懐しのメロディとなった。
また、仙台のパーティを終わって札幌に飛んだ日が北風のもの凄い日で、全日空のDC3は木の葉の如く揺れ、窓下に流れる雲は矢の如く後方に走るが、遥か眼下の三陸の海岸線は、左右に揺れるだけで思うように走ってくれなかった思い出なども残っている。
つづいて40(1965)年に二百万台、42(1967)年に三百万台を記録し、それぞれアンケートやクイズといった行事が行われている。
その三百万台記念行事の時だったと思うが、懸賞の抽選会に立会い人として出席された当時の全国小売商協同組合連合会会長だった故鈴木清さんが、 「オリンパスさん、ペンでずい分儲かったろうね。それに反してわれわれ小売商は…・・」
といいかけたのを受けて 「鈴木さんちょっと待ってよ。ペンは婦人子供層のお客さんを開拓したり、撮影枚数の増加でDPがふえたり、皆さんにもずい分お役に立ってる筈だと思うんだけれど」 と申しあげたら、破顛一笑、「これは参ったな」 と頭に手をやったような一幕があったのを記憶する。
ハーフサイズブームは業界全体にも大きな貢献をしたと思う。
「ネガサイズは時代と共に双曲線的に小さくなる」 といった人がいた。
まさにその通りで、ロールフィルムから35ミリフィルムヘ、そしてフルサイズからハーフへと、これをグラフに描いたらそうなるだろう。
それはカメラの機構と、感光材料の進歩の結果であった。

ところがこの双曲線は1本ではなくて、実は3本あることを再認識するときが釆た。
1本はモノクロームのそれで、他の2本はスライド用のポジ・カラーフィルムと、プリント用のネガ・カラーフィルムの曲線である。
この2本はグラフ上では何れも黒白フィルムの曲線より上にあって、ある時代の縦線で截って見ると、カラーネガが一番上になり、黒白が一番下になる。
つまりある時代に実用になるネガサイズは、黒白が一番小さく、カラーネガが一番大きいということである。
今日ではこの差は極めて小さくなったが、40年代のはじめの頃にはまだその差がはっきりしていた。
日本以外の欧米各国には、昭和の初めからコダックのカラーフィルムが行きわたっていたが、それはすべてスライド用のコダクロームであった。
その粒状性は極めて良好で、大劇場の巨大スクリーンは別として、ペンの生れた頃でも、一般の映写でハーフサイズのスライドは少しも遜色を感じさせなかった。

ただ困ったのはマウントの問題であった。
ハーフサイズ用マウントはオリンパスから供給することにしたものの、マウントの作業は、当初ラボではしてくれなかった。
ハーフサイズのブームに乗って、日本のフィルムメーカーやラボは、いち早くこの問題を解決してくれ、頑固なコダックもついにハーフのマウントをするようになったが、何れの場合にも、マウントの数はフルサイズの倍になるのだから、その費用はユーザー持ちとなる。
これ等の問題がハーフサイズカメラの輸出の大きな障害であった。
40年代に入って日本もようやくカラー時代に入るが、スライドのカラーでなくてネガカラーであった。
つまり、前に述べたとおり欧米では、黒白時代の次にカラースライド時代があり、そこにネガカラーが入っていったのだが、日本では、黒白からいきなりネガカラーの時代に突入し、しかも当初はネガカラーの性能が悪かったから、出来上りのプリントでは、大ささにより、フルとハーフとの差が判然としたわけである。
といっても、最も需要の多いサービスサイズやキャビネくらいなら、その識別は困難という程度だったが、直接DPの作業に当るラボにとっては、やはり小さいネガは面倒で嫌われた。

カラープリントは、その行程が黒白よりずっと複雑だからコストがかかる。
そこでそのプロセスを自動化してコストを下げ、安いカラープリントを供給して、カラーを普及させようという努力がみのり、プリントの価格は次第に下がったが、さらに一段と下げるには、ネガを一枚ずつ吟味してとびとびに焼くなどという厄介なことはご免こうむって、連続して焼く方が望ましいというので、同時プリントという営業方法が発案され、お客さんから預ったフィルムは如何に早く、如何に安く仕上げてお返しするかという競争の時代に入った。
今日もなおその競争は激化の一路を辿っているわけだが、そのあまり、もしプリントの品質や耐久性に問題を残すと、将来そのつけの回ってくる時がありはせぬかと私は心配している。
いずれにしても黒白のときと違ったこの同時プリントの時代になると、ハーフサイズではプリントの数が多くなるから、単価は安くなったといってもお客の負担する総費用はかさむ。
ネガーコマの単価がフルサイズの半分ですといっても、1本のフィルムを使ったときの費用は黒白時代よりずっと大きい。
そこで1枚1枚を大事に撮るようになる。
1回のショット数が減るからフィルムがカメラに入つている時間が長くなる。
欧米で 「クリスマス・ツウ・クリスマス」 、日本なら 「正月から正月まで」 同じフィルムがカメラに入ったままなどということになると、プリントの出来上りも無論悪いし、業者も困る。
12枚撮りという短尺フィルムが発売され、その難点を救う一助にはなった筈であるが、時既に遅しの感で、こんなことがハーフサイズ後退の原因だったと見られる。

これに対して、その原因を、オリジネーターたるオリンパスが、ライツがライカを発展させたときのように、暗室用機材に至るまで気を配らなかったからだという人がいるが、私はそうは思わない。
時代がまるで違う。
今は小売屋さんですら、小規模のカラー自家処理の成りたたない時代なのである。

そういう時期に、カラー時代のコンパクトフルサイズに先程をつけたのはローライ35であった。
凝った高級カメラで沈胴式。
撮影操作の簡易さではペンの敵ではなかったが、携帯時の大きさはペンより小さい。
フルサイズでもここまではいくよということを、ドイツ魂が見せつけたようなカメラであつた。
昭和42(1967)年のことである。

ついで、コニカC35とオリンパストリップ35が43年に登場する。
小さい順からすると、ローライ、コニカ、トリップということになろうか。
使い勝手からいうと逆になるだろう。
トリップの場合はペンEESとほとんど同じ仕様でフルサイズ。
その上、鏡胴上のゾーンフォーカスマークが、ファインダーで直接覗けるという新しいアイデアも入っている。
このカメラは、もと輸出専用のつもりで企画したものだが、国内にも人気を得て、今も両方面に製造出荷している。
ペンEE同様、これも記録的なロングランカメラである。

最後に、昭和56(1981)年に入って、オリンパスからペンEFが発売された。
ペンEEをプラスチックボディーに置きかえ、これにストロボを組み込んだといったカメラである。
ペンEEに比較すると、形はストロボが入っただけ大きくなっているが、逆にプラスチックのお蔭で軽くなった。

ハーフサイズの後退についてあれやこれやと検討すると以上のようになるが、全く初心の人や女性が手軽に外国旅行にでも持参するというなら、私は今でもペンEFを躊躇なくすすめるし、また喜ばれる。
それがロングランの最大の原因だろう。 ペンは未だ生きているのである。

〜完〜

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