22 ペンシリーズの発展

オリンパスペンFはユニークなハーフサイズ一眼レフとして世界的に注目されたが、露出計を内蔵していなかった。 そこでこのカメラのシャッタースピードダイヤルに設置されていたバヨネットに着脱出来る専用の露出計が発完された。 そして昭和41年(1966)に、露出計内蔵のペンFTが発売された。

ペンFTでは、ファインダーを覗くと視野の左側に0から7までの数字が見え、フィルムの感度とシャッタースピードをセットしてカメラを被写体に向けると撮影レンズから入ってくる光量によって、指針がその何れかを指す。 そこでレンズ鏡胴の絞り環上に刻まれた同様な数字の中から、指針の指した数字と同じものを選んで、これを鏡胴上の指標に合わせると適正露出が得られるという方式になっていた。 もちろん絞り環には一般のF目盛りも、以上の数字群と反対の側に刻まれてはいたが、露出の決定はこの新しい数字によって行われたので、これをオリンパスではTTLナンバーと呼んだ。
TTLというのは既にご存知の通り「撮影レンズを透して」という意味で、文字通り実際の撮影レンズを通過して来た光量を測定するのがTTL測光というわけである。 ところが、一眼レフの場合には、TTLには違いないが、実はミラーで反射した光をファインダーの光路上でCds受光部が捉えるというのが一般で、ペンFTの場合も同様であった。 この構造ではシャッタースピードに対して、単にF値を指定するだけでは誤差の出る場合がある。 それは交換する各レンズの焦点距離の相違や、そのレンズの設計による周辺光量のあり方、あるいは望遠レンズの場合の、ミラー切れ (ミラーの長さは望遠レンズの場合には十分ではない) 等が原因となって、Cdsの光の捉え方がレンズの種類によって変わるからで、それ等の補正をすべて行ったのがこのTTLナンバーとなるのである。 だからペンFT用交換レンズのTTLナンバーを見ると、絞りを最大に開いたときのナンバーが0であったり1であったりしている。
ペンFTではこの露出計内蔵の他にも、巻き上げレバーの操作が、Fの2作動に対して1作動に改良されたり、セルフタイマーが内蔵されたりして、第一級の一眼レフとして完成された。 またシステムカメラとしてのユニットも、特にマクロ、ミクロ関係は豊富に取りそろえられ、交換レンズも20_の広角から800_の望遠、それに50〜90、100〜200のズームを加えて16種類を数えるに至った。 このカメラは昭和45(1970)年の万国博で松下電器の企画した5000年地下保有のカプセルにオリンパスの内視鏡と共に、その時代の代表カメラとして収納されている。 5000年の後の人類が、このカプセルをあけたとき、このカメラをどう思うであろうか。

ペンFおよびFTは、その耐久性でもニコンと共に第→級と判定された。 というのは、京都の写真家、故鹿島新次郎氏がたまたま当時行われていた「京都市史」 編さんの仕事に関係され、この両機をおびただしい古文書の複写や諸資料の撮影に使用されたのであるが、私の伝え聞く所によると、何万枚かの連続的な使用に耐え、編さん所の資産勘定で購入し得たのはペンFとニコンだけだという話であった。
ハーフサイズ盛衰の歴史はまた後で述べることになろうが、この名機が製造中止になったことを残念がった人は多かった。 私自身にしても、時に、あの昭和39(1964)年の澄み渡った秋空の下で行われた東京オリンピック開会式の模様を、ペンFとズームで撮ったスライドが今なおファイルの中に健在であるのを発見すると、そぞろに懐しさが湧いて、あらためてそのボディーの手ざわりを楽しむことがある。

さて、話を他のペンシリーズに進めよう。 昭和39年(1964)年にはペンD2が生れた。 ペンD2の露出計がセレンからCdsに変わり測光領域が拡大した。 但しCds(硫化カドミウム)の場合は光を受けると電気抵抗が変化するという性質が露出計に応用されるので、セレンと異なりそれ自体には発電する能力がないから、当然他に電源が必要となる。 ペンD2でも、ペンFの露出計やペンFTなどと同じように、その電源にはHD型水銀電池が用いられた。

同じ年にペンワイドが登場している。 5枚構成、25_F2.8の広角Eズイコー付き。 これがB1/8〜1/250のコパルと組んでペンの基本ボディーに装着された。 わずか300グラムという重さと薄型ボディ、それにプラスワイドの魅力、さらに加えてブラックで登場したから一部の好事家には大変受けた。 ペンシリーズの中では生産台数が少い方で、その上持った人は離さないという特徴があり、今やアンティークカメラの人気者になっているそうである。
翌昭和40(1965)年になると、1月にペンS3.5が生れている。 ペンSのボディーに好評なDズィコーF3.5とペンワイドのシャッターを組み込んだものであった。 つづいてペンDが3型となる。 レンズがさらに明るく、32ミリ1.7のFズイコーになったのである。 同じ年にペンEMが生れる。 電気シャッターを持った世界最初の全自動35ミリカメラである。

マイコンの時代が来て、今では小型カメラのシャッターのほとんどが電子化されているが、いわゆる電子シャッター、その頃電気シャッターと呼ばれたものは、昭和38(1963)年のフォトキナで発表されたポラロイドランドカメラ、モデル100が最初のようである。 もちろんその頃、シャッター各社では研究が盛んに行われていたであろう。 このポラロイドが引き金になったようにその後電子シャツターカメラがぞくぞくと現れてくる。

オリンパスペンEMには、35ミリのFズイコーF2とコパルエレクという名の絞り優先の電子シャッターが装備された。 露出時間の範囲は長い方で30秒、早い方は1/500秒で、シャッター羽根は一旦開いた後、決められた絞りに対し、明るさに応じて適正な露出時間に達したとき自動的に閉じるのだから、そのスピードの変化は無段階である。 この長時間露出の可能なことと、無段階変速ということは絞り優先電子シャッターの大きな特赦で、機械のシャッターでは不可能なことである。 その代りというわけでもないが機械シャッターのようなガバナー音がないので、レリーズして開いたシャッターがいつ閉じるのか、閉じ音を聞くまで予想はつかない。 この音なしの構えは機械シャッターに慣れた人をとまどわせた。
ペンEMではさらに装填したフィルムの巻き上げも、シャッターに連動して1秒1枚の割合の自動である。またフィルムが終わって逆算式駒数計が0になると巻き上げのモーターは自動的に停止し、巻き戻しのボタン操作で今度は巻き戻しが自動的に行われるようになっていた。
当時はまだこういう自動カメラは他になかったので、資料の作成や学術実験、或いは実験装置に組み込まれるカメラとしてかなりの需要があったのだが、操作上のタブーが比較的多いカメラで、そのための誤操作による故障が多く、残念ながら約1年の後惜しまれつつもその生産を中止せざるを得なかった。
このカメラには、それがあるラジコン授作の無人飛行機に搭載されて、航空写真撮影に成功したというようなエピソードも残っている。
越えて42(1967)年、ペンFにセルフタイマーを装備したペンFV、またこれは機械シャッターではあったが絞りもシャッターも機械まかせというプログラム方式を採用、1/15秒から1/500までの無段階変速のシャッターと32_F1.7の大口径レンズを装備したペンEEDが生れている。 このEEDはペンDがややベテラン向きだったのに対して、素人に大変使い易い大口径だというので好評であった。 ペンシリーズ最後の傑作というべきであろうか。
オリンパスペンの裏蓋は当初着脱式で、ペンFが初めて蝶番による開閉式となったものであったが、その後、EMを初めとしてこのEED、EES2等と次第に蝶番化による開閉式となった。 42(1967)年から43(1968)年にかけてであった。

〜「ペンシリーズの発展」完〜

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