21 ペンシリーズ成る

オリンパスペンの当初の生産は実は外注で始まっている。つまり下請けの会社で造ったものを購入して、それをオリンパスで検査して出荷するというシステムである。

オリンパスの諏訪工場がみずから生産を手掛けたのは昭和35(1960)年発売のペンSからであった。 ペンSではレンズがDズイコー30_のF2.8となり、シャッターもコパル000番、B ・ 1/8 ・ 1/15 ・ 1/30 ・ 1/60 ・ 1/125 ・ 1/250 と新系列のスピードに改っている。 その価格はケース付き8600円で、ペンに対して2000円高であった。この過程にも一つの挿話がある。

オリンパスが国産最初のAEカメラとして発売したオートアイは、(第18章で述べたように)高度な機能を持ったもので、その価格はケース付き2万1500円だった。 ところが機能的にはこれより簡略化されているが、F1.9という大口径を売りものにし、スマートな外観と取り扱いの容易さをうたったキヤノネットが、キヤノン初の大衆カメラとして昭和36(1961)年1月、オートアイを追うよう発表され、その価格が、なんとケース付き2万500円と出たのである。
カメラ業界は騒然となり、メーカー間で大変な議論が生れた。 特に当時のオリンパスの営業部長などは、その不当論の先端に立っていたので、週刊誌あたりから、ミスターキヤノネットの異名を頂戴する一幕もあったほどである。 しかし、それは自由競争の世界では所詮致し方のないことで、わずかの間ではあったが、独占的な完れ行きだったオートアイは、ここに大変な一打撃を受けたわけで、やがてその価格を1万8600円と値下げしてこれに対抗している。 しかし多機能だけに使い方の上で素人受けのしない一面もあり、2.8という口径比の故もあって、その完れ行きはスローダウンの傾向をまぬがれなかった。

この大きな刺激を受けた諏訪工場は、ここで心機一転、量産の効果と、生産技術の革新とによって、従来、原価的に到底不可能と考えていたペンSの自家生産に踏み切り、見事にこれを克服したのである。 ペン、ペンS共に売れ行きはさらに好調であった。 私の、ペン月産を5000台という提案に対して、営業部長は、価格が5000円を割るなら5000台も引き受けられるが、6000円ではね、などとしぶっていたのだが、それが月産1万台を超えても、なお需用には追い付けなかった。
そこにさらにペンEEが登場して、革期的に、女性層と弱年層にカメラが伸展することになるのである。ペン、ペンS、共にポケッタブルで連写性に富むとはいうものの、露出の問題を解決していなかったから、この時代の本当の初心者向きとはいえない。 そこでこのタイプのAEカメラを、それも1万円以下の価格でという要請が、当然営業の面から出てくる。
ペンEEは、これにこたえたカメラで、Dズイコー28_F3.5のレンズを4メートルのピント位置に固定し、シャッタースピードもまた1/60秒一速だけで、絞りのみがメーターの指示にしたがって、EV 9.5から15の間自動調整されるという思い切った設計であった。 そしてあの、サークルアイを持った可愛いい姿のペンEEが生れたのである。
シャッタースピード一速の固定焦点というスペックについては、営業の一線には大きな疑問を持つ向きもあったが、私はむしろ若い設計担当者の決断を支持した。 幸いに市場の反応も極めて良好であった。 昭和36 (1961)年のことである。 
しかし、そうなるとさらにその上をという要望ももっともなので、その1年後には、1/30秒と1/250秒との二つの速度を用いたプログラムAEシャッターを開発し、これに30_F2.8のDズイコーを3点フォーカス式に組み合わせたペンEESを発売し、同時にEEのシャッターもこの2速のプログラム方式のものに変更した。

これでシリーズは、ペン、ペンS、ペンEE、ペンEESの4種になったがさらにその年にはペンDも姿を見せている。 ペンDはペンやペンSと同様なボディーに32_F1.9、ガウスタイプのFズイコーを装着し、これにコパル000番の新型B・1/8〜1/500秒のシャッターを配し、更に上部にセレン露出計を組み込んだもので、ペンの高級品である。 露出の決定は手動だがメーターの指す数字に、シャッターダイヤルの小窓の数字を合わせるオリンパス式のフリーライトバリュー方式でその操作が簡単であると同時に熟達者の要望する自由さも兼ねていた。 このカメラもFズイコーの描写の良さが買われて大歓迎を受けた。 20年後の今日でも、なお手離せないという人が多い。

以上の5機種がわずか3年の間にラインアップされたことは、オリンパスとしては大変な努力であったが、それは昭和32年第2技術部がスタートし、さらに昭和35年事業部制が敷かれ、カメラ事業が第2事業部として独立したことの成果だと見ることが出来よう。

このころ、オリンパスペンの名はテレビでもうたわれた。 佃公彦氏のアニメーションによるユーモラスなコント。 そして、ペンペンペンペンとつづくいずみたくさんのメロディが街に流れた。 私は街角で、子供がペンペンペンと石を蹴っていた姿を想い出す。 そういう宣伝の活動に加えて、業界のユニークな存在と目されていたオリンパス商事の国内販売上の実力発揮。 開発も見事だったが、生産と営業の協力関係もまた見事だったといえよう。そして昭和38 (1963)年、いよいよペンFの登場となる。

35_一眼レフの歴史については後章にゆずるが、この頃35_のシステムカメラは、すでに距離計式から一眼レフ式に移行して、日本の高級カメラメーカーでこれを手がけていないのはオリンパスぐらいのものであったろう。 実はオリンパスでも、昭和35年頃、その設計試作を行っているのである。 しかし第一次試作の結果、他社のものに対して特に有意性のある特徴もなかったので、その段階でお蔵になった。

一方、ひそかにハーフサイズの一眼レフの構想が練られていた。 新しい製品には、何か新しい可能性を持たせなければならない。 これはオリンパスの開発の基本理念である。 ハーフサイズの一眼レフだからといって、ただ形が小さいだけではナンセンスである。 そこに設計者の苦労があるわけだが、それはまたこの設計者自身の理念でもあった。 

その苦心は実を結んだ。 ポロプリズムを利用したファインダーシステムは、一般の一眼レフのようなトンガリ帽子を消し去り、新開発のロータリーフォーカルプレーンシャッターは、1/500秒の高速まで、ストロボの同調を可能にした。 これは全く異色な、世界最初の本格的ハーフサイズ一眼レフであった。 昭和38年2月20日、帝国ホテルに於ける発表会で公表され、出席した業界人をうならせた。 またつづいて3月16日から行われた西独のフォトキナで発表され、世界各国のディーラーの眼をうばった。 82年春完成した地上7階地下2階オリンパスビルの威容を誇るまでに発展したハンブルグのオリンパスヨーロッパ発足の端緒でもあった。

〜「ペンシリーズ成る」完〜

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