20 ペンブーム生れる

それにしても、このペンが何故あのようなハーフサイズブームを引き起こしたのであろうか。 
それにはペンにつづいてペンEEやペンDというように、このサイズのオリンパスのカメラが続いて開発され、いわゆるペンシリーズが完成されるという、これから述べて行かねばならぬことが、その原動力となることはもちろんだし、また「ペンすなっぶめい作展」を初めとするオリンパスの宣伝活動も大いに効果をあげたし、さらに前章でも触れたように、社外に「我こそはオリンパスをしてペンをつくらしめた先達なり」と自負するシンパが多かったことにもよると思うが、基本的にはそれ以前に、当時の日本の大衆の撮る写真というものが、どういうプロセスで出来上がっていたかという日本の写真界の土壌を振り返って見る必要があると思う。 35_カメラが一般化するにつれて、大衆の写真はすべてDPEのE、すなわち引き伸ばしによって作られるようになった。
そのころ、カメラ屋さんがお客に渡すプリントのサイズは名刺判、手札判、またはキャビネ判などの名称で呼ばれる種類が大部分で、お客がそれを指定する。 いまのカラーのサービスサイズはその名刺と手札の中間くらいの大きさと考えていただけばよろしい。 お客の中にはフィルムを現像に出すとき、「良いのだけ名刺に伸しといてね。」などと横着を決めるものもあるが、多くの場合は現像と同時にベタ焼きを頼む。 ベタ焼きというのは6コマつづきに切断されたフィルムをマスクなしにそのまま密着焼きしたもので、ネガの整理のためにも便利なものだが、それよりもネガでは解りにくいところが、画は小さくてもとにかく、印画なのだから、拡大鏡を使えば図柄や人物の表情などがよくわかる。 それがある程度のサービス価格で提供されていたのである。 だからお客は店頭で店員といっしょにこのベタ焼きを検討し、そこで店員はその見識を披露して、お客に適当なアドバイスを与える。 お客はその意見を参考にしてネガの中から好きなものを選択し、これは名刺に、これは手札にとプリントの注文をする。 悪いものはもちろん焼かないから、写したネガ全体を伸すなどということはまずない。
その代り良いネガがあれば、店員のすすめで、時には8×10インチ(六ツ切) や10×12インチ(四ツ切) という大伸しを注文することもある。 こういう店頭の習慣はもちろんロールフィルムカメラになってからのものだと思うが、35_カメラの速写性とコマ数の増加がそれを一般化したと考えられる。 そしてオリンパスペンは、このやり方に一層適していたわけである。 ネガ一枚の単価は35_の半額ですむから、素人でも同じ場面を角度を変えて撮ったり、人物のポーズや表情を変えて撮ったりして、その中から好きなものを選んで焼けばよかったのである。 
そのころには今のカラーラボのような、大型のDP工場は少く、多くのカメラ屋さんは自家ラボを持ち、ご主人自ら暗室に入ることもあったし、また自家ラボを持たず、下請けのDP屋さんに出す場合でも店との関係が深くて、意志の疎通が極めてよかった。 プリント作業自体も、その頃はまだ自動機械によることが少く手焼きの方が多かった。 だからその頃の日本の黒白のDPプリントは世界一美しい仕上りだったといえるかも知れない。 またお客とお店とのコミュニケーションが良く、店員とお客が店頭で頭を寄せあってネガ選びをしている風景などは、今考えても楽しいものだった。 これが日本人を世界一写真好きな民族にした大きな原因ではなかったろうか。 まさによき時代だったと思う。 

当時、まだ数少なかった日本の外国旅行者や海外駐在員から、アメリカのDPはひどいよとよく訴えられたことがあるが、当時既にアメリカの黒白DPはジャンボと呼ばれる自動機によるプリントで、なるほどひどいなと思ったことがしばしばだった。 あの手焼きで出る繊細な黒白のトーンや、マスクの移動で助けられるネガの隅に写り込んでいる重要な被写体などは問題にされず、或いはつぶされたり、或いはカットされたりして、なんとなく形だけ出ていれば良いではないかといった状態のものすらあったのである。 もっとも、当時外国ではすでにカラー化が進んでいてスライド全盛の時代だったから、黒白プリントなどは商売にならなかったのであろう。 とまれ、今述べたような日本の環境は、まさにハーフサイズの市場の伸びるべき条件を備えていたと見るべきであろう。 
しかもそれに拍車をかけるようなことがつづいたのである。 
オリンパスの50年史の中で、その就筆に当った関忠果氏は
「文芸春秋は昭和35(1960)年1月号で数人の作家、評論家、画家によるペンについての感想を掲載したが、なかで評論家の大宅壮一は、「私がカメラの万年筆化を唱えたのは三十年以上も前である。 こんど発売されたオリンパスペンを使って見て、これこそ多年私が求めていた理想的なペンカメラだと思った。」 と書いているが、カメラ専門誌のみならず、一般マスコミからの支持がペンの普及につくしたウェイトも大きなものがあった。」 と述べている。

また同じ年の10月号の 「文芸春秋」 に 「二つのどん底」 というカメラレポートが出ている。 これは東京の山谷と大阪の釜ケ崎の生活情景を撮ったものだが、その山谷の写真の大部分は春内順一氏の撮影によるもので、すべてオリンパスペンSブラックを使ったものであった。 同誌179ページの 「今月のカメラ」 欄にその撮影記が出ているが、それによると春内氏は汚れた黒ズボンと色あせたポロシャツをまとい、その黒ズボンの右ポケットの中程とポロシャツの左ワキの下に直径3センチの穴をあけ、ここからカメラのレンズをのぞかせて、スナップしたそうで、ズボンのポケットの中で、片手で絞りやシャッタースピードを操作し、またピント合わせも行ったという。 もちろん練習されてのことであろう。 5日間に36枚撮りのネオパン3Sを7本、1本72枚として計504枚の撮影をされたわけだ。 レリーズボタンが軽すぎて事前に切れてしまっていたとか、あたりの静かな場合には巻き上げ音が案外大きくて気になったとか、多少の問題も指摘されているし、定めしご苦労の多かったことと思うが、とにかく大成功であったことは事実である。


こうした雰囲気と、当時文春の写真部長だった樋口進さんの大きな協力のもとで組織されたのが 「ペンすなっぷめい作展」 だった。 その第一回は昭和35年の5月6日から一週間、銀座の松屋で開催され、さらに大阪では高島屋で6月に行われ、以下次々と希望の多かった地方都市をまわっている。 その作者は第一回展にはプロ作家も加わっているが、学者、芸能人、文化人が集って、実に豪華なメンバーであった。 このペン展が、さらにハーフサイズヘの関心をあおった効果は大きかった。 ペン展は第二回以後、アマチュアが主になって、メンバーも100名を越えるに至り、東京の会場は、或いは伊勢丹へ、或は池袋西武へと変ったりしたが、昭和45(1970)度の第11回展まで続いたのである。 その代り、裏方としてこれに関係した宣伝部員の苦労には大変なものがあった。

第一回展に出品された方々(敬称略・順不同)
桶谷繁雄・井上靖・杉浦幸雄・松本幸四郎・村上元三・戸川幸夫・横山隆一・松本清張・中島健蔵・川口松太郎・遠藤周作・伊藤整・曽野綾子・玉川一郎・中河与一・池島信平・寺崎浩・開高健・岡部冬彦・生沢朗・岩田専太郎・宮田重雄・西川辰美・菊田一夫・野村守夫・大谷冽子・屋上梅幸・柴田錬三郎・長門美保・柳家金語楼・三遊亭小金馬・江戸家猫八・一龍斎貞鳳・トニー谷・川口浩・高橋圭三・栃錦・吉屋信子・光吉夏弥・桂三木助・岸恵子・十返肇・今日出海・斉藤次男
特別出品/船山克・中村正也・真継不二夫・渡部雄吉・木付伊兵衛・秋山庄太郎・生出泰一・松田二三男・松田静夫・田沼武能・樋口進・赤穂英一・藤川清・林忠彦

さて、この辺で余談をひとつ。 
オリンパスペンの発売準備や生産が次第に進んでいる頃、私の最も悩んだのはそのネーミングであつた。 いわく「ミニエチュア」いわく「ミニ」いわく「マイクロ」いわく「メモ」等々の名称が各方面から寄せられる。 昭和34年は皇太子殿下ご結婚の年で、だから「ミッチイ」などというのも出てくる。 もちろんその中にはペンもあり、私自身ははじめからこれに傾いていた。 しかしなかなか決めきれなかった。
そんなとき、昭和34年の春分の日、私がもう40年以上も属している桐畑会という写真仲間の恒例の春の撮影会が催された。 小田急の狛江の駅を起点として京王の仙川までの田園をカメラと共に歩こうということで、その当時はまだこの辺り、武蔵野の面影をたっぷり残していたのであった。 その撮影会の途中、同行した故中井一鵄さん(この人は弁理士でアマチュアカメラマン、オリンパスでも特許関係の仕事をお願いしていた)が、畑の中で2人きりになったとき「桜井さん、ペンに決めなさいよ」とひと言強く推してくれた。 それが私の決意をうながした。 早速、翌週会社の役員会で承認をうけ、そこでオリンパスペンの名称が生れたのである。

〜 「ペンブーム生れる」完 〜

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